16.03.08鎌倉十橋

 鎌倉では謂れや伝説の残る橋と井戸について、「鎌倉十橋」、「鎌倉十井」という。すでに江戸時代に観光地としてにぎわった鎌倉に、それぞれ名所として制定されたようだ。今回は十橋について訪ねてみた。現在は当時の面影を残したものが少ない。また、暗渠となっていたり、コンクリート製になっていたり、味気ないものとなっていた。鎌倉十橋は以下の通り。
 鎌倉十橋とは歌の橋、夷堂橋、勝の橋、裁許橋、逆川橋、十王堂橋、筋違橋、針磨橋、琵琶橋。乱橋である。

【歌の橋】・・・建保元年(1213) 千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえ、第二代執権北条義時に差し出した時から事件は始まる。この僧侶の名は安念と称し、安念法師の自白により謀叛のことが発覚。謀反の一味二百人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がおり、渋川兼守は捕らえられて安達景盛に預けられる身となった。いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。たまたま昨夜より天神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出す。幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動して兼守の罪を直ちに許される。この恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付した。このような謂れから橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になった。今は、金沢街道と荏柄天神の参道が交わる場所に長さ3間で横たわっている。うっかりすると見落としてしまいそうな橋だ。

歌の橋石碑
歌の橋1
橋の石碑
歌の橋2
歌の橋
歌の端3

【夷堂橋】・・・JR鎌倉駅より若宮大路を横切り郵便局の脇の道を東に進むと本覚寺に到着す、境内を抜けて山門を出ると滑川に至る。ここに架かる橋が夷堂橋である。鎌倉十橋は、滑川支流に架かる橋が多かったが、滑川本流に架かる橋ともなれば、その規模も大きく異なる。昔より、大町と小町の境にある滑川に架かる橋として、しばしば夷堂橋の名が新編鎌倉志等の地誌に見られる。尚、夷堂橋の名の由来は、昔この付近に夷三郎社があった事から付けられたという、今は社はない。

夷堂橋の石碑
夷堂橋の石碑
滑川にかかる夷堂橋
滑川に架かる夷堂橋
橋の向こうは本覚寺
橋の向こうは本覚寺

【勝の橋】・・・JR鎌倉駅西口より扇ケ谷方面に進むと寿福寺に到達する。寿福寺の前の道に沿って小流が流れ、南東の角付近にて東の方に流れを変えて道路の下を横断している。この道路を横切る所に架かる橋を「勝の橋」と言う。昔は立派な石橋が架けられていたが、現在、橋はなく小型のボックスカルバートが敷設されている。これが鎌倉十橋の一つかと些か疑問を抱かせるような遺跡である。余談だが、寿福寺の隣の英勝寺、鎌倉にある唯一の尼寺(浄土宗)。開基は英勝院尼。 英勝院尼は、徳川家康に仕え「戦には必ず勝利をもたらした」ので「お勝の方」と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。そのお勝の方が架けた橋なので「勝の橋」と呼ぶ。橋標の横にある庚申塚には、川上藤沢宿、川下八幡前と刻まれている。

勝の橋の石碑
勝の橋の石碑
石碑の傍にある庚申塚
庚申塚

 【裁許橋】・・・ JR鎌倉駅西口より、今小路を六地蔵方面に南下。御成小学校を右に見て進むと、学校の敷地の外れに佐助川が流れ、ここに架かる小橋を裁許橋(さいきょばし)と称す。鎌倉時代には、この近くに幕府の裁判所があり(御成小学校の正門前の道角に問注所旧蹟の石碑有り)、無罪の場合はこの橋を渡り無罪放免。有罪の判決を受けた罪人が処刑場(現在の六地蔵辺り)に向かう際も、この橋を渡った事から裁許橋の名が付いたと言われている。まさに、イタリアのヴェネツィアの運河に架かる「ためいきの橋」の日本版と言うところ。

問注所旧蹟の石碑
裁許橋の石碑
裁許橋
裁許橋

【逆川橋】・・・逆川橋(さかさがわばし)は、夷堂橋より小町大路を南下し大町四つ角を横切り、魚町橋(いおまちばし)を渡ると道の左手の路傍に橋標が少々傾いて建っている。橋標の手前に左に曲がる小道が有り、そこに小さな橋が架かっているのが見える。一見、川は海の方向でなく山の方向に流れている。例によって、これが鎌倉十橋の一つかと目を疑うような規模の橋である。

逆川橋の石碑
逆川橋の石碑
逆川橋
逆川橋

【十王堂橋】・・・十王堂橋(じゅうおうどうばし)は、JR北鎌倉駅前の鎌倉街道の下の道で、小袋坂より大船・横浜を通り奥州に通じている。この鎌倉街道の下の道を大船方面に少々進むと、小袋谷川が道の下を横切っている。ここに架かる橋が十王堂橋である。昔、この付近に薬師堂と十王堂が有った事から十王堂橋の名が付いたと言われている。今は薬師堂も十王堂も無く、この橋に「十王堂」の名称が残るのみである。写真の橋左側は暗渠となっている。

十王堂橋
十王堂橋

【筋違橋】・・・ 宝戒寺の近くには、「筋違橋」がある。この地は、往時は小町大路と横大路と六浦路(金沢街道)の三大路が接続し、且つ直角に曲がる場所である。ここに西御門の谷より流れ来る小流が、道路を斜めに横切り滑川に合流す。橋は道路に対し斜めに架けられた斜橋であった事から、この様な名が付いたと言われている、名の由来は、「く」の字に架かっていたためといわれる。石碑には「筋替橋」と記されている。宝治元年(1247)、第五代執権北条時頼と外祖父の安達景盛がこの橋から有力御家人三浦泰村を攻めた宝治合戦がある。この戦いにより源頼朝以来幕府に仕えた三浦氏が滅んだ。 

筋違橋の石碑
筋違橋石碑

筋違橋
筋違橋


【針磨橋】・・・針磨橋(はりすりばし)は、江ノ電極楽寺駅より稲村ガ崎方面に進むと十字路に到達する、道の下を流れる極楽寺川に架かる小橋を針磨橋、またの名を我入道橋(がにゅうどうばし)と称す。 昔この付近に針を作る者が住んでいた事から、この名が付いたと言う。またの説に、極楽寺に我入道なる僧が住み針を作るのを仕事としていた事よりこの名が付くとも言う。いずれにしても、他の十橋に比較してあまり深いいわれは無い、鎌倉十橋の一つに数えられるようになった理由がどの辺にあるのか?

針磨橋の石碑
針磨橋の石碑
針磨橋
針磨橋

【琵琶橋】・・・ 若宮大路を下馬交差点から由比ヶ浜へと進むと琵琶橋がある。滑川へと注ぐ手前の佐助川に架けられている。その昔、一の鳥居から二の鳥居の間が「琵琶小路」と呼ばれていたことからこの名が付いたと伝えられている。「琵琶小路」という名称は、この道が外に彎曲していたため、それが琵琶の胴の曲線に似ていたことから付けられたのだという。

琵琶橋 すぐ傍はガソリンスタンドがある
琵琶橋

【乱橋】・・・乱橋(みだればし)は、逆川橋より南下し左に本興寺を右に辻の薬師堂を見て、更にJR三浦道踏切を渡ると右手に元八幡宮の道標が建っている。水道道との交差点を横断し、さらに進むと左手に妙長寺が見える。寺の少々先の右に乱橋の石碑が左に橋標が建っている、橋は規模が小さく注意しないと見落とす恐れがある。吾妻鏡には濫橋と書かれており、その他亂橋又は乱橋とも書く。

乱橋の石碑
乱橋の石碑
乱橋 石碑の隣が橋の欄干 橋そのものは90cmほどの小さいもの
乱橋

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