19.06.01-14シベリア鉄道旅日記・雑記帳

 シベリア鉄道を旅行するにあたり、事前に調べたことや、旅行中に感じたことを箇条書にした。

・シベリア鉄道はただ大きな男が寝ているだけと、下川裕治の「ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行」で表わしている。全くその通りだ。また、古いが東京オリンピックの砲丸投げのタマラブレスの様なオバサンが横たわっていた。

 シベリア鉄道3等寝台の風景。プライバシーはなくトドが寝そべっているような感じ。
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・シベリア鉄道でウラジオストックからモスクワまで9259kmで、6泊7日(ただし東行きは時差の関係で7泊8日)の旅である。日本の長距離列車は東海道・山陽新幹線「のぞみ」の東京~博多間の1174km。すでに廃止となった札幌~大阪間「トワイライトエクスプレス」1508kmが最長であった。また、日本最北の駅、稚内から最南端の駅、枕崎までJRを乗り継いだとしても、その営業キロ数は2972kmである。シベリア鉄道の三分の一にも満たない。ロシアの領土は大づかみに言うと東西1万1千kmだが、その90%の距離を走る。そのためモスクワと極東との時差は7時間もある。

世界の長距離列車をネットで調べると
1、ウラジオストック~キエフ 10260km
2、北朝鮮・ピョンヤン~モスクワ 10267km
3、ウラジオストック~モスクワ 9259km
4、北京~モスクワ 8984km
しかし、これ等の列車は外国人旅行者が乗れるとは限らない。北朝鮮の列車がそうである。

・鉄道のレール幅は大まかに分けると、狭軌、標準軌、広軌とわかれる。日本のJR在来線は狭軌で1067mm、阪急、京急、近鉄や新幹線は標準軌で1435mm、ロシアのシベリア鉄道は広軌で1524mmである。公式な卓球台が2740mm×1525mmなので丁度選手が立つ側とほぼ同じだ。地方の駅では跨線橋など通らず線路を越えてゆくので、その広さを実感する。

・シベリア鉄道の客車には通常1両に車掌が2人乗務している。12時間勤務で交代制と思う。朝、ハワイのムウムウの様な衣装で車掌室の前にいたのを目撃した。乗務員用のシャワー設備があり、内緒で使わせてくれるようだ。1回150ルーブル。使用した人に聞くとバケツやモップなどがあり、とても乗客用とは思えないとのこと。多分、乗務員の小遣い稼ぎのためにやっているのか。

・ドイツのメルケルに似た車掌は厳しく、カーテンなどを開けっぱなしにしていると『二ェット‼』(ダメ!!)と命令調で注意する。何か小学生の先生に叱られているようだった。

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・タタールのくびきといわれるモンゴル人の暴力支配の時代が259年の長きにわたって続いた。このモンゴル人の支配がロシア民族の性格にまで影響した。1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、タタール人のカザン・ハーンを捕虜とし勝利した。そして記念にモスクワのワシリー寺院が建設された。

・シベリアは当初、欧州から見た印象は暗く、寒く、しかも果てしなかっただろう。この大地はロシアにとって長い間、毛皮を採取するためにのみ存在し、特に多く生息している黒貂はパリの市場に出せば、当時の産業水準の低さから見れば震えるほどの価格で売れた。

シベリアの風景
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・巫女とそれに伴う宗教現象をシャーマニズムという。発生地はシベリアという説が一般的。シャーマニズムの系譜は北の方の寒い土地から来た。イヌイットからツングース、モンゴル、朝鮮、さらに南下し日本にやってきた。3世紀の卑弥呼もシャーマンであった。
      
ウラン・ウデにあるシャーマンセンター
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・ロシア帝国と表裏をなすキリスト教(ロシア正教)の方が当時の中国と比べ、民族の差異を越えてゆく普遍性がある。帝政ロシアの方が、シベリアのブリヤ―ト人に対して親切で、辛亥革命の100年前には、シベリアではブリヤート人の子供のための学校を建てられている。

・第二次世界大戦の終結を見越し『ヤルタ協定』がある。第1項は外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持される。つまりソ連の傘下であり続ける。言い換えれば、中国の影響力は及ばない。第3項では千島列島はソ連に引き渡されること。となっている。千島列島はどこからどこまでとは明示されていない。いずれにしても広大なモンゴル高原と小さな千島列島が等価値として記されている。もし日本に千島列島が返還されればヤルタ協定が崩壊する可能性がある。

・ロシアは、よく終点の町の名前が起点の駅の名前が用いられる。タタールスタンの首都カザン、シベリアの入り口ヤロスラブリ駅がそうだ。これ等の駅はモスクワ始発駅だ。

・シベリア鉄道の書籍はあまりなく、図書館から借りて読んだ本(シベリア横断鉄道・昭和57年NHK出版)によると。シベリア鉄道のロシア号は9300㎞の行程を行くうち、81回停車、そのうち20回機関車交換のため停車する。今はこのようなことはないと思う。

・シベリアはロシアの過去の暗い歴史を抱えている。それは切っても切り離せない「流刑の歴史」。この流刑の制度がはっきりと確立したのは17世紀のころだ。当時の帝政ロシアの刑罰は想像を絶するほど残酷で野蛮。チョットした罪を犯しても斬首や絞首刑だ。それよりさらに軽い罪を犯した者も灼熱の鉄の焼き印や手足の切断、舌を抜かれたりしたそうだ。

・ソビエトの時代も流刑は続いた。ソビエト政府から「国外追放」されたノーベル文学賞作家のアレクサンドル・ソルジェニツィンは「収容所群島」や「イワン・デニソビッチの一日」でも明らかにしている。また、「ソビエトの水爆の父」とも言われた反体制指導者アンドレイ・サハロフ博士は「国内追放」の処分で、シベリアの一歩手前のゴーリキー市に強制移住させられた。

・バイカル湖は言うまでもなく、「ナイアガラ瀑布」、「グランド・キャニオン」と並ぶ世界三大景観の一つである。シベリアの人達は「バイカルを見ない者は、ロシアを見たと言えない」と自慢する。バイカル湖はいくつもの世界一がある。先ず、「世界一深い湖」、「世界で最も水量の多い湖」、「世界一の透明度の湖」などである。

バイカル湖
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・イルクーツクの町の歴史はイワン・バハボアがコサックの一団をひきいて、ここを冬の屯営地としたことから始まる。そしてここから東シベリアのロシア化を進めた。
                
・ウラン・ウデは、モンゴル人民共和国の国境までわずか200㎞。ここから分岐し、鉄道は南下してモンゴルの首都ウラン・バートルに至る。ブリヤート自治共和国の首都ウラン・ウデとはブリヤート語で「赤い川」の意味。その赤い川とウダ川がモンゴルに発し、バイカル湖にそそぐセレンガ川の合流点にできた町だ。17世紀にコサックの冬営地としてできたこの町は、毛皮や、モンゴルからのお茶の集散地でもあった。日本軍がシベリア出兵した時、駐留したこともあった。

コサックの建物
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・ソ連時代のシベリア鉄道を利用する外国人はモスクワから極東への旅はハバロフスクで乗り換えナホトカに到着した。ウラジオストックは軍港のため外国人は入れなかった。

・ロシアのシベリアに関する諺、「シベリアでは、400kmは距離でない、マイナス40℃は寒さでない、プラス40℃は暑さでない、ウオッカ4本は酒でない」というのがあるらしい。

・ロシアの小話で節酒令施行後は離婚が増えた。理由は、何しろウン十年ぶりにシラフで女房の顔を見てショックを受けた手合いが多いため。

・ロシア男性の平均寿命が66歳と低いため、5分の2が一度も年金をもらうことなく亡くなる計算だ。日本の平均寿命は男性80.98歳、女性87.14歳(2016年)と過去最高を更新中、正確な比較は難しいが、ロシアの経済改革には平均寿命を延ばすことは必須の政策だと思う。

・昔、懐メロで近江敏郎や林伊佐緒が歌う「ハバロフスク ラララ ハバロフスク ラララ ハーバロフスク~♫」という歌「ハバロフスク小唄」があった。多分、「異国の丘」と同じく、シベリア抑留者が捕虜収容所で歌っていたのだろう。シベリアの各地には帰国できずに亡くなった抑留者の墓地がある。戦死でなく強制労働で死んだ人は、さぞ無念であっただろう。

・ヨーロッパの先進国は資源を求めてアジアやアフリカを目指したが、ロシアは帝国主義進出に出遅れたためヨーロッパの東端から極東まで押し寄せた。おかげで今では日本から2時間足らずで飛行機に乗ればヨーロッパの香りがするロシアの田舎町に行くことができる。

・ウラジオストックは、人口は60万人程度の港町であり、また、軍事都市でもある。ソ連崩壊までは外国人は勿論一般人にも解放されていなかったそうだ。そのためか、今は「C56潜水艦博物館」や「要塞博物館」など軍事的な博物館がある。勿論、今も軍港としても重要な港町だろう。ウラジオストックの名称は「東方を支配する町」を意味する。その通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市である。かつては非常に規模の大きな日本人街があり、1920年頃(大正9- 10年頃)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本とロシアの交流は非常に活発に行われていた。町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出。現在のウラジオストク市内では、日本から輸入した日本車が9割程度だ。それら日本車は右ハンドルの中古車が数多く走っており、その比率はおよそ8割以上。

・ロシア人の生活は市場やスーパーを覗いてみると日本と比べ物価は安そうだ。1ルーブル≒2円の為替レートで計算すると、バス代は19ルーブル(約40円)、野菜や果物は、夏場は地元で取れた物が販売されるが、冬場は中国からの輸入に頼っている。日用雑貨はほぼ中国製。たまたま見たロシア製の食用油は国際価格であり、1ℓの向日葵油は87ルーブル(約180円)であった。ロシア人は、夏場はダーチャ(別荘)に出かけて週末を過ごすといわれているが、革命以後は長らく飢餓状態であり、工場労働者は郊外の土地を分配され食料を生産するために小屋を作って畑作業をしたのが始まり。日本の別荘と異なり優雅なものではなかったそうだ。今も多くの人がそういう暮らしをしている。ただし、若い人は週末に自分の車でダーチャに出かけバーヴェキュウなどを楽しむという。街でロシア人の親娘を見ていると、シャラポアの様なスリムな娘がとても似つかない体格の母親と歩いている。ビフォアー・アフターは俄に親娘と信じがたい気がする。小生の腰周りの3倍もありそうなオバサンと日本人の老婆と見比べると日本人は栄養失調の難民の様な気がする。男性は、あまりファッションに興味がないのかダサい感じ。若い女性は精一杯お洒落を楽しんでいるようで中国と同じだ。あの広大な国土に人口1億4千万人の人口は如何にも少ないと感じる。中国と足して2で割ればと勝手なことを考えた。

・極東での戦争で、その兵力の移動に大きな力となったのは、シベリア鉄道だ。日本や欧米の軍事専門家たちは、シベリア鉄道の輸送能力を単線とその長さで無視していたが、ロシアは大胆にシベリア鉄道を西行のみを走らせることにした。つまり、満州方面に向かった車両はその場で遺棄した。そして次々に新造した車両に物資と兵員を載せ送り込んだ。

・日露戦争の講和後、捕虜の身分から解放されたバルチック艦隊の司令長官ロジェストブェンスキー提督はウラジオストックからシベリア鉄道でハルピンに向かい、その後中国の狼子窩を経由し、サンクトペテルブルグに達した。要した日にちは20日。

・日露戦争後、ロシアの軍法会議でロジェストヴィンスキーは無罪であったが、官位は剥奪された。旅順要塞の司令官ステッセルは死刑の判決を受けたが、その後減刑され、シベリア追放となった。彼は老いの身で紅茶の行商人になり、古びたトランクを手にシベリアの町をさまよい歩いたそうだ。

・ロシア人の若者を見ていると入れ墨をしている若者が多い。小生の様な老人には理解しがたい。日本の若者もこのような傾向があるが、日本は場所によっては入場禁止の様な所(プールや温泉等)もある。

駅で見かけた女の子の入れ墨と現地ガイドのミカエルの入れ墨(イルクーツクの市章)
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・シベリア鉄道で一般的なロシア人の食事は、専らカップ麺を食するようだ。試しにロシア製のカップ焼きそば?風のパスタを食べてみたが、まずくはなかった。列車内には『サモアール』という湯沸かし器があり、100℃前後のお湯が24時間使用できるのでカップ麺やコーヒー、紅茶などの飲食は簡単にできる。

車掌室前のサモアールと日本から持参のインスタント食品
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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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