19.01.10-21台湾旅日記・その2

1月16日
 今日は東港から一路南下し、台湾最南端の鵞鑾鼻(ガランビ)岬に向かう。台北からは約500kmの位置だ。途中に現台湾総統の老家があるというので寄り道する。家のある場所は楓港の一隅にあった。ただし、蔡英文総統は台北生まれのはずなので。正しくは父君の家である。この地に住む人にとっては誇りなのだ。余談だが、蔡英文の祖父は屏東県枋山郷楓港の客家の旧家であり、祖母は獅子郷のパイワン族の末裔である

DSC_6075 (800x533)

DSC_6072 (800x533)

DSC_6074 (800x533)

DSC_6071 (533x800)

 此処から鵞鑾鼻(ガランビ)岬へ。鵞鑾鼻は恒春半島南端で中央山脈の末端部でもある。台湾海峡と太平洋が接し、バシー海峡を挟んでフィリピンに対峙する。風か強いためか樹木が大きくならず横に広がっている。なんとなく伊良湖岬のような感じだ。

DSC_6079 (533x800)

DSC_6077 (800x533)

DSC_6084 (533x800)

DSC_6081 (800x533)

DSC_6076 (800x533)

 鵞鑾鼻(ガランビ)岬から太平洋側を北上する。明治政府の琉球処分。台湾植民地などアジア侵略政策のきっかけになったとされる「牡丹(ぼたん)社事件」で殺害された宮古島島民を弔う墓が、台湾屏東県東城郷にある。日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する。日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)台湾出兵を行った
 なお、当時の社会環境と先住民の風俗習慣からみた場合、理由なく部落の領地に侵入してきた者は、必ず部落法の制裁を受けることになっていたのであり、現代的な観点で当時の行為を断罪すべきでない、とする見解もある。

牡丹社に行く途中に清国が築いた城門かあった
DSC_6085 (800x533)

「大日本琉球藩民五四名墓」と記載されていた 
DSC_6090 (800x533)

鳥居らしきものもある
DSC_6093 (800x533)

54名が埋まっているらしい土饅頭
DSC_6092 (800x533)

DSC_6096 (800x533)

 牡丹社事件の記念公園では、台湾にとっては不都合な事件であったので記念碑は文字を消されていた。国民党政権は戦前の日本統治の痕跡を亡くしたがっているようだ。

DSC_6095 (800x533)

DSC_6097 (533x800)

 夕刻、今日の宿泊地の知本温泉に向かう。台東より西南に16km。知本渓の右岸に湧く出湯。古来、プユマ族の人々はここを神水と称していた。漢人はプユマ族の呼称に従い『ていぽん』と呼び、日本人も『ちぽん』と呼んでいたらしい。ここは数年前に大雨よる被害で渓谷沿いのホテルが軒並み川の中に崩れていった報道があった。


1月17日
 知本温泉から花蓮までが今日の行程。途中、路上で『釈迦頭』という果物がこの辺りの名産とか。非常にクリーミーで甘い。まるで常温のアイスクリームを食べるような感じ。我々の運転手は台北の実家に2ケース宅配の依頼をしていた。

DSC_6099 (800x533)

DSC_6101 (800x533)

 ここから三仙台へ。台湾を代表する宗教的自然景観の一つに数えられ、海浜植物の生態研究における重要な拠点であるほか、宗教的物語と想像性に富んだ場所である。海水の浸食によって作られた特殊な地形には、原住民のアミ族と漢民族によって宗教的な伝説や逸話が数多く残されており、その中には神話によく見られる表現方法を用いた起源に関する説明が見られるほか、異なるコミュニティの信仰や信念も具体的に表現されているそうだ。アミ族と漢民族それぞれの歴史的・文化的影響による表現上の違いが見受けられる。三仙がここを訪れたという物語には、中華圏に伝わる道教文化と八仙が海を渡った伝説が反映されており、台湾全域に広く伝わり、人々の心に深く根付いているという。風景だけを観れば琵琶湖のようだ。

DSC_6116 (800x533)

DSC_6109 (800x533)

DSC_6117 (800x533)

DSC_6120 (800x533)

DSC_6121 (800x533)


 八仙洞は地質景観と先史遺跡を両方持っている。台東県長濱鄉三間村から海に面した崖の上にあって、自然に形成された十数個の海蝕洞窟がある。これらの洞窟は元々海面にあって、現在は150メートル高さの山壁に散らばっていて、これは東海岸プレートが上昇したプロセスの中に、波に海蝕された柔らかい部分。八仙洞には各海蝕洞窟へ行く歩道があり、その中に最大な洞窟は靈岩洞,最高な洞窟は崑崙洞、高さは130メートルで、そのほかには乾元洞、朝宸洞、海雷洞、潮音洞、永安洞、水簾洞等がある。洞窟はほとんど祭り場として作られていたので、洞窟の名前も宗教の意味が含まれているそうだ。 八仙洞は重要な先史遺跡で、非常に豊富な旧石器時代先陶文化が発見されて、「長濱文化」と呼ばれるようになって、これは現在まで台湾において最古の先史文化遺跡で、極めて重要なので、国家一級遺跡と定められているそうだ。

DSC_6127 (800x533)

DSC_6125 (800x533)

DSC_6126 (800x533)

 至る所に洞窟がある。  中に入るととてつもなく大きな洞穴だ。
DSC_6128 (533x800)

DSC_6130 (533x800)

 アメリカ人作家ヘンリー・ミラーの『北回帰線』という小説があったことを思い出したが、台湾には東部太平洋側の花蓮県の瑞穂郷と豊浜郷に北回帰線が通っている。また西部台湾海峡側の嘉義市、嘉義県水上郷にも北回帰線が通っており、日本統治時代より北回帰線駅という貨物駅があった。その駅の隣には北回帰線の記念碑がある。

DSC_6131 (533x800)

 花蓮の街の直ぐそばに慶修院という日本真言宗の寺院がある。今年で102年を迎えるそうだ。もともと徳島の吉野川流域の人達が移民し開墾した土地だ。

DSC_6133 (800x533)

DSC_6136 (800x533)

DSC_6139 (533x800)

DSC_6137 (800x533)

DSC_6138 (800x533)

  花蓮は台湾東部の中核として栄えた都市。日本統治時代に築港が進められた。1939年(昭和14日)に第1期工事を終え、工事は戦後に受け継がれた。もともと、この一帯はアミ族の人達が多く住んでいた。文献によると1878年から漢人の移住が始まった。漢人は台南・高雄から南端を経由し、台東を経てやってきた、台湾では漢人の最後の移入を受けた都市である。



1月18日
 今日は一日台湾観光の定番、太魯閣観光だ。総面積は9万2000ヘクタール。行政区画上は花蓮県、台中県と南投県に属している。 公園内の太魯閣渓谷(タロコ渓谷)は、立霧渓が大理石の岩盤を侵食して形成された大渓谷。奇岩怪石と水の美しさゆえ、台湾の中でも特に人気のある観光地である。 「タロコ」の地名は流域の台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとも、高名な頭目の名に由来するともいう。 50年前に訪れた時は台南から中央山脈を突き抜ける『東西横貫公路』を一日かけて訪れたことを思い出した。

DSC_6144 (800x533)

DSC_6146 (800x533)

DSC_6147 (800x533)

DSC_6151 (800x533)

DSC_6155 (800x533)

DSC_6158 (800x533)

DSC_6159 (533x800)

DSC_6167 (533x800)

DSC_6175 (533x800)

DSC_6171 (800x533)

DSC_6177 (800x533)

DSC_6185 (800x533)

1月19日
 花蓮からまっすぐ10数km北上する。左側は山、右側は海。戦前からこの道はあったらしいが、人を寄せ付けないような厳しさがある。ほとんど全てが片麻岩と大理石でトルコブルーの海に落ち込んでいる絶壁は地上の高度と同じ深さで海面下からでているといわれている。中でも台湾10景の一つにあげられている清水断崖は最高地点が海から800mあり、蘇花公路で最も美しい場所だ。

DSC_6190 (800x533)

DSC_6187 (800x533)

DSC_6191 (800x533)

  清水断崖からさらに北上し、蘇澳へ向かう。1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
  残念ながら管理のほどはあまり良くなかった。いくら美談でも他国の人を救うために台湾原住民が犠牲になった話は・・・・
戦前は、当時の満州から李香蘭が、やってきて映画『サヨンの鐘』を撮影した。また、歌手の渡辺はま子がレコードを吹き込んでいる。

DSC_6192 (800x533)

DSC_6196 (533x800)

DSC_6193 (800x533)

DSC_6194 (533x800)

  サヨンの鐘の記念碑から、近くの海岸沿いにある媽祖廟に向かう。海の安全を守る神である媽祖廟は根強い民間信仰がある。媽祖というだけあり、男性の僧侶は見かけなかった。日本のお寺と比べ原色の鮮やかさに圧倒される。1階は赤い媽祖、2階は玉の媽祖、3階は黄金の媽祖であり、資金が潤沢にあるようだ。

DSC_6197 (800x533)

DSC_6198 (800x533)

DSC_6200 (800x533)

DSC_6202 (800x533)

3階からは蘇澳漁港が良く見渡せた。
DSC_6204 (800x533)

DSC_6206 (800x533)

DSC_6207 (800x533)

DSC_6208 (800x533)


 蘇澳駅が近くにあったので立ち寄る。駅舎は残念ながら当地時代のそれと異なり、新しく改修されていた。駅の中に入ると日本の銚子鉄道と姉妹鉄道の関係とのことだった。

DSC_6209 (800x533)

DSC_6210 (800x533)

DSC_6212 (800x533)

DSC_6211 (800x533)

  蘇澳から更に北上し、宜蘭に向かう。宜蘭には日本統治時代は宜蘭神社があった。国民党政府は日本時代のお寺以外は破壊や痕跡を消す政策を取ったため、今は忠烈祠となっていた。参道の下には戦車が飾られていた。

DSC_6214 (800x533)

DSC_6221 (800x533)

DSC_6219 (800x533)

DSC_6220 (800x533)

DSC_6215 (800x533)

 宣蘭設置記念館。日本統治時代の1906年に当時の行政長官「西郷菊次郎」(初代宜蘭県長)の官邸として建設された。敷地面積800坪、建坪は74坪。 『設治』とは、「官を設けてまつりごとをなす」の意から来ている。 現在は歴史館 。奥に位置する「宜蘭文學館」は、日本統治時代の1906年に「乙等官舎」として建てられた木造建築であり、その後、1926年から「農林学校校長官舎」として使用。さらに、2004年に修復され、現在は「宜蘭文学館」として一般公開されている。

 先ず宜蘭長官官舎は平屋づくりで機能的な印象。トイレと風呂は面白い。庭もほどほどで好もしいサイズ。

DSC_6230 (800x533)

DSC_6232 (800x533)

DSC_6233 (800x533)

DSC_6231 (800x533)

DSC_6228 (800x533)

DSC_6229 (533x800)

DSC_6234 (800x533)

DSC_6235 (800x533)

DSC_6236 (800x533)

DSC_6237 (800x533)

DSC_6238 (800x533)

西郷の官邸近くの土手には彼を称える顕彰碑があった。

DSC_6224 (533x800)

DSC_6226 (800x533)

 今日の宿泊先は礁渓温泉。電車を降りると駅前すぐに温泉街がある。 そんなアクセスのいい温泉地、台湾ではかなり少数派。礁渓温泉がまさにそれ。宜蘭県礁渓郷にある台湾でも数少ない平地部の温泉。湯量も多くて最高の感じだった。



1月20日
  今日は最初にバスで十份へ。やっぱり一番に九份を思い浮かべると思うが。「千と千尋の神隠し」の舞台となったということで日本人の定番観光スポットになっている。それは願い事を書いて『天燈』を上げるという行為。いい大人がと思ったがやってみればなかなか楽しい。願い事はちょっと地味だが、『現状維持』と書いた。この歳になると気力・体力・経済力が確実にダウントレンドだ。これを少なくとも現状で止めたいという願い。
比較的すいている場所で願い事を書き、火をつけて天空にあげるのは、人家が密集しているので、台湾鉄道平渓線の線路上である。時々、列車がやって来るのでスリル満点。

DSC_6242 (800x533)

DSC_6250 (800x533)

DSC_6245 (800x533)

DSC_6249 (800x533)

  この平渓線の十份は、幻想的な風景が広がるスカイランタンフェスティバルが行われる中心地。個人でスカイランタンを上げることができる。「十份」という九份と並んで非常に人気の高い観光スポットがある。ただ十份は九份と同様に台北地下鉄MRTが通っていない。台北市内から少し離れた場所にある関係で、ツアーやタクシーを利用しない場合は台湾鉄道のローカル路線平渓線を乗り継いで行く必要があり、アクセス方法がやや不便だ。
  十份から瑞芳まで台湾鉄道平渓線の列車に乗る。この平渓線は日本の江ノ島電鉄と秋田の由利高原鉄道と姉妹鉄道契約を締結している。平渓線の切符を日本のそれぞれの鉄道に持ってゆけば無料で乗れるという。本当かどうかわからないが、一度、江ノ電に確認してみよう。

DSC_6256 (533x800)

DSC_6258 (533x800)

DSC_6262 (800x533)

DSC_6261 (800x533)

DSC_6264 (800x533)

  列車に乗って十份から九份に向かう。ここは観光客でにぎわっている。レトロな雰囲気の映画館があり、おしゃれな喫茶店や映画『悲情城市』の舞台となったロケ地もあり、退屈しない。そして九份は昔金鉱山の街でもあった 。

DSC_6265 (800x533)

DSC_6266 (800x533)

DSC_6267 (800x533)
  
DSC_6268 (533x800)

DSC_6270 (800x533)

DSC_6274 (533x800)

DSC_6272 (800x533)

DSC_6273 (533x800)

 午前中は十份と九份の観光を終え、台北に行く。台北で『故宮博物館』を見学する。いつものことだが、ここの目玉展示品の一つは玉でできた『白菜』と『肉形石(豚角煮)』だが白菜は台東の花博に貸し出し中。そして肉形石もオーストラリアに貸し出されていた。気を取り直し玉や仏像、珊瑚などを鑑賞。正直なところ日曜日ということもあり観光客が多くくたびれた一日だった。

DSC_6280 (800x533)

DSC_6279 (800x533)

DSC_6281 (800x533)

DSC_6282 (800x533)

DSC_6288 (800x533)

DSC_6286 (533x800)

DSC_6287 (533x800)

今日の宿泊先は圓山飯店だ。ゆったりとくつろげるのはさすがだ。部屋からベランダに出ると基隆川が望めた。

DSC_6293 (800x533)

DSC_6291 (800x533)

DSC_6290 (800x533)



1月21日
 今日は日本帰国の日。アッという間の12日間だった。フライトが午後便なので、午前中に圓山飯店から徒歩で行けるところを地図で探していたら、『忠烈祠』があり、出かけてみる。丁度歩いて15分程度。

DSC_6295 (800x533)

DSC_6298 (533x800)

衛兵をよく見るとまだあどけなさが残る若き兵士。
DSC_6300 (800x533)

DSC_6303 (800x533)


 日本への帰国便は松山空港なので市内の比較的中心地にある。1時間程度離れた桃園国際空港は成田空港のようで少々不便だ。
 今回の旅は気候的にも暖かく申し分なし。そして台湾人は穏やかで優しい感じがした。それに、今回は11泊のうち温泉が8泊あり、これも最高であった。命の洗濯をした感じ。










コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Whitedevil

Author:Whitedevil
FC2ブログへようこそ!
2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
02 | 2020/03 | 04
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる