18.11.01吉屋信子邸

  今日は吉屋信子邸が一般開放されているので、長谷を散歩がてら訪れる。

  吉屋邸玄関 
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  庭から見た住宅
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  吉屋信子は資料によれば1896年(明治29年)に新潟市の県庁官舎で生まれ、栃木県で少女時代を過ごす。父・雄一は下都賀郡長を務めた人物であるが、頑固な男尊女卑的考え方を持っており、信子は内心反発を感じていた。栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)に入学した際、新渡戸稲造の『良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。』という演説に感銘を受け、そのころから少女雑誌に短歌や物語の投稿をはじめる。日光小学校の代用教員になるが、文学への道を捨てがたく、卒業後に上京して作家を志し、1916年(大正5年)から『少女画報』誌に連載した『花物語』で人気作家となる。その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー。1919年(大正8年)『屋根裏の二處女』では、自らの同性愛体験を明かしている。
  1923年(大正12年)1月吉屋の公私を半世紀に渡り支えることになる門馬千代と運命的な出会いをする。1928年(昭和3年)、千代を伴い満州、ソ連経由でヨーロッパに渡り、1年近くパリに滞在した後、アメリカを経由して帰国した。太平洋戦争開戦直前には、特派員として蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナムなど)も訪問している。これらの経歴を見ると、当時の社会では考えられないほどの『飛んでる女性』だった。

  その吉屋邸は数寄屋建築の第一人者である吉田五十八に、『奈良の尼寺のように』と設計を依頼したと伝えられている。建屋そのものは、昭和10年に東京の牛込区砂土原町で完成したものである。その後、昭和37年にこの鎌倉に移築された。
  建物は一階平屋で、応接室、和室、寝室、書斎、台所があり、まさに尼寺の様な簡素な住宅である。

  和室
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 応接室
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  書斎
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  南に位置する庭は和室と応接室から全貌が見ることができる。特に豪華な感じがするわけでもないが、自然な品を感じる庭だ。
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   先月2日に台風24号が日本に上陸した影響で多くの植物が塩害の被害にあった。吉屋邸も例外でなく、槇の木は、葉っぱが漬物状で枯れる寸前の状態であった。よく見ると幹に『メネデール』という木の栄養剤か薬かわからないが、幹に2本差してあった。
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  吉屋邸を出てから住宅街を散歩していると、サクラの花が咲いているのを発見。
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  今年の紅葉は例年と比べて期待できそうな感じがしなかった。



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清楚な感じの建物ですね。
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