シルクロード紀行(その5)

トルコ マチカのスメラ僧院DSC_3961 (800x533)


5月1日(火)晴れ
 アジアハイウェーを西に走り、かつてのイルハン国の首都タブリーズを目指す。距離は280km。ハイウェーを走っているとガソリンスタンドの看板があり、価格をチェックする。ガソリン1ℓは約30円、軽油は約10円だ。産油国なので当然のことと思う。しかし、ガソリンを精製する施設が足らないらしい。40%を輸入に頼っているとか。自動車の価格は日本車なら2~3倍になるらしい、贅沢品には高税率をかけている。
  目的地タブリーズはイランで4番目に大きな都市だ。古来よりシルクロードの交差点として栄えた都市。そのため交易の中心地として大きなバザールがあり、世界遺産にも登録されている。

 ハイウェーを走っていると、この辺りも『丹霞地形』の様な山が続く。途中で羊飼いの少年に出会う。非常にシャイな子だった。あまり豊そうでない村の子どもで、学校はどうしているのかと心配になる。彼にしたら大きなお世話かもしれない。

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 道路沿いには薄紫の花が咲いていて、絨毯のようだ。小さい花なので残念ながら北海道のラベンダーのようにはいかない。DSC_3830 (800x533)

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 タブリーズで世界遺産のバザールを覗く。もともとキャラバンサライが発展してできたものらしい。当時の商人は1階に商品を並べ二階に宿泊したようだ。道路に面したところは宝石店が並んでいた。中に入ると香辛料、ドライフルーツ、雑貨、食肉と様々だ。ここは生活のにおいがするバザールで、観光用ではないと思う。DSC_3837 (800x533)

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 外の様子はチョットしたショッピング街 DSC_3849 (800x533)

宝石屋が多く集まるコーナーDSC_3839 (800x533)

ドライフルーツ屋DSC_3840 (800x533)
  
イスラムの坊さんもお客だDSC_3845 (800x533)

羊のお尻の肉が一番うまいらしいDSC_3841 (800x533)

豚足でなく牛足、誰が買うのか?DSC_3846 (800x533)

 時間があるので、約60km離れたキャンドワン村に行く。ここは13世紀モンゴルの来襲で養蜂を営んでいた人たちが逃げ隠れ住んだ村だ。丁度、トルコのカッパドキアのミニ版のように山の岩肌を掘って暮らしている。しかし、観光用ではなく、道には羊やヤギの糞のてんこ盛りで生活の場という感じ。800年前から今も養蜂と牧畜が主な仕事。キャンドワンとはペルシャ語で「命がけで掘る」という意味。また、「ハチの巣」の意味もあるそうだ。

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 案内してくれた人のリビングルームに掘りごたつがあった。住宅は、夏は涼しく冬は暖かいそうだ。DSC_3855 (800x533)

近くから3937mのジャム山が見えたDSC_3852 (800x533)






5.月2日(水)
 今日は延べ9日間滞在したイランからトルコに移動する。イラン側の国境の町バザルガンまでは270km。5135mのアララト山が見える。この山はアルメニアが領有権を主張しているが、当然トルコは応じない。アルメニアの紙幣にはこのアララト山が印刷されている。日本円札に『竹島』や『北方四島』を印刷するのと同じか。また、アララト山は『ノアの箱舟』が流れ着いたという伝説で有名だ。国境は標高1400mの位置にある。

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 イランの出国手続きは意外と簡単だった。緩衝地帯を過ぎて、トルコ側に行けば荷物検査もなく拍子抜け。日本人と云えばフリーパス同然の扱い。トルコが好きになる。

イランの荷物検査DSC_3887 (800x533)

緩衝地帯DSC_3884 (800x533)

  トルコに入国するとトルコ国旗が翻っている。ここからもアララト山が良く見えた。国境の周辺は露土戦争でトルコが敗北してこの辺り一帯を支配された。しばらくして日露戦争が勃発、日本が勝利しトルコ人は留飲を下げたそうだ。その時、トルコで東郷平八郎を尊敬するあまり、『トーゴ―ビール』が売り出されたという。また、トルコの軍艦エルトゥール号の遭難で和歌山の串本の人達が必死に救出作業をしたこともあり日本贔屓だ。この軍艦の将兵救出のことはトルコの教科書に掲載されているらしい。

トルコに入国DSC_3889 (800x533)

アララト山は美しいDSC_3899 (800x533)

検問中の兵士の撮影はNGのためうまく撮れないDSC_3903 (800x533)

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 途中、食事のため小さな町に立ち寄る。クルド人の町らしい。ちょっとしたバザール。30年前からこの辺りはクルド人問題でトルコにとっては頭の痛い問題だ。

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街の片隅からアララト山が見える。DSC_3906 (800x533)

この辺りも結構標高が高いDSC_3907 (800x533)

 アラス川にイルハン国の時代にモンゴル人が造った橋がある。名を『羊飼いのお爺さんの橋』というらしい。この川はジョージアを経由し黒海に流れる。橋は今も現役。DSC_3917 (800x533)

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道路と並行し走っている鉄道は知らない間にそばまで来ていた。DSC_3916 (800x533)

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 道路のそばの崖の上は13世紀に造られた城塞がある。西からは十字軍、東からはモンゴル軍が押し寄せた。まさに西洋とアジアの狭間の国トルコだ。DSC_3925 (800x533)

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5月3日(木)晴れ
 エルズルムの町から280km北上し、マチカの町を目指す。位置的には黒海の直ぐ近くの町である。タウルス山脈を越えるため、何度か峠を越すことになる。また、最初の峠(2900m)の近くにユーフラテス川の源流があった。ここからイラクを経てペルシャ湾にそそぐ。残念ながら写真は撮れなかった。

最初の峠には露土戦争でこの地域の戦死者の慰霊塔があったDSC_3930 (800x533)

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 山道をしばらく走ると、『バイブルト城』が見える。紀元前からあったらしいが、6世紀に東ローマ帝国のユスティアヌス皇帝が改修し、東ローマ帝国の東限の城塞としたそうだ。トルコ人のガイドが気を利かせ市の観光局と連絡を取ったところ、責任者が現れ、案内していただいた。城塞の上からの眺めは小さな町だが川やモスクのミナレットが美しく素晴らしかった。ちょうど我々が城塞についた時は地元の小学生が、遠足で訪れていた。屈託のない子供たちで日本から来たと知ると興味津々で近づいて来る。

城塞は現在修復中、いつまでかかるのかわからないそうだDSC_3935 (800x533)

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小学生だけでなく先生も日本人がチョット気になるようだったDSC_3939 (800x533)

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城塞の上からの眺めは素晴らしいDSC_3937 (800x533)

この川は山の間を通り黒海に流れるDSC_3952 (800x533)

 ヂガナ峠を越えるとマチカの町に出る。ここまで来ると黒海からの湿気で風景が一変し、日本の田舎のように樹木が多く目につく。時間が有ったのでマチカから20kmほど山に入り中世のスメラ僧院を見に行く。スメラ僧院は山肌にしがみつくように建っていた。それはギリシャのメテオラの僧院のようだ。日本の山岳仏教の寺のようにも思える。ただ、残念なのは、1923年にロシアの支配下から独立したトルコは事実上この修道院を閉鎖した。現在、人もおらず、道路も修復中で近寄ることができなかった。トルコ政府はイスラム教でないギリシャ正教には冷淡なのかと勘繰ってしまう。

スメラ僧院は山肌にしがみついている。僧院の谷底には川が流れているDSC_3959 (800x533)

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谷川の水は結構水量があったDSC_3958 (800x533)

山肌は花が咲き日本的な風景DSC_3956 (800x533)

 夕刻ホテルに着くとホテルの直ぐそばの警察署に機関銃を装備した装甲車3台が止まっていた。こんな平和な感じの田舎町にチョット不釣り合いに感じる。DSC_3967 (800x533)





5月4日(金)晴れ
 今日は黒海沿いを約500km移動する。先ず、北に向かいトラブゾンへ、ここで黒海に突き当たる。「タラサ、タラサ(海だ、海だ)」とトルコ人は言うそうだ。ここから西に向かう。黒海にはドナウ川が流れ着く。水質汚染の元凶らしい。黒海の塩分濃度は一般的な海の3.5%よりより薄い1.4%。因みに地中海は4%らしい。この辺りは夏も涼しく海水温も低い。1時間ほど走ったバクケレクでパン屋に入る。このパン屋はTV朝日で紹介されたことがあるとか。とにかく大きくて焼き立てのパンにバターをタップの塗り、さらに蜂蜜をどっぷりとかけて食べる。パンの価格は300円程度か。トルコ人もオープンエアーの席で食べていた。我々も同じく試食する。パンを焼くところも見学したが、非常に清潔な感じがした。

この辺りはこのようなパンが特産品とかDSC_3975 (800x533)

トルコ人たちが遅めの朝食DSC_3974 (800x533)

パン屋のオーナーがバターと蜂蜜をかけるDSC_3973 (800x533)

バターと蜂蜜たっぷりで満腹DSC_3972 (800x533)

ショーウインドウにはとにかくでかいパンDSC_3968 (800x533)

記念に店員と写真をパチリDSC_3979 (800x533)

 黒海を右に見て、北アナトリア山脈を左に見ながら西に進む。バスは海と山の間を縫うように一路西へ。風景を見ていると日本海側の鳥取県や島根県を走っているような気がする。走行中、モスクからのアザーンが聞こえてくる。イランと比べるとスピーカーで結構大きな音がする。イランは1日3回。トルコは5回。イランよりトルコの方が戒律は緩やかなのに逆のような感じがする。

 途中のギレスンでサクランボを食べる。サクランボで有名な山形県の寒河江市と姉妹都市らしい。しかし、こちらはアメリカンチェリーの様な品種だ。姉妹都市のモニュメントがあるといので探すが、見つからなかった。

 昼食は海岸近くのレストランで黒海の魚を食べる。魚と言ってもイワシやサバである。魚屋の店頭に有る魚の種類も日本と比べるとはるかに少ない。レストランで食べ残したパンをかもめが食べに来る。砂漠ばかりだった旅行は一変してしまった。
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 サムソンの町の手前にあるヤソン教会に立ち寄る。120年前のギリシャ正教会だが、今は廃墟。中に入ると見事に何もなかった。教会の直ぐそばにも灯台以外は何もなし。DSC_4002 (800x533)

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 しばらくすると、結婚記念の写真を撮りにカップルがやって来た。何を好んでこんな何もないところにと思ったが・・・写真を撮れと声をかけられる。DSC_4013 (800x533)

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 サムソンを過ぎた海辺に古めかしい船の記念モニュメントがあった。ムスタファ―・ケマル、後のトルコの父アタチルクがイスタンブールから逃れてきた船とのこと。革命も順調に成就したわけではない。DSC_4014 (800x533)






5月5日(土)晴れ
 今日の天気は快晴。一日移動せず、アマスヤの町を堪能する。この町は古代ヒッタイト時代(BC2300~1950)からの城塞がすぐ街のそばにある。登ってみると街を一望のもとに見下ろせる。紀元前3~1世紀にこの町を支配したポントス王国の王の墓を始め、セルジューク朝やオスマン朝時代のトルコのアナトリアの個性溢れる歴史の町だ。

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城塞からは街が一望できる。屋根は赤色、壁は白色で統一され美しいDSC_4030 (800x533)

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 雑草には陸棲の巻貝、つまり「かたつむり」がいる。このカタツムリはトルコでもこの地方にしかいないという。チョット気持ちの悪い生き物だ。その多いことも驚きDSC_4028 (800x533)

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 城塞を後にして町にある博物館を覗いてみる。ヒッタイト時代からの歴史がわかる博物館、あまり大きくはないが、モンゴル時代の知事のミイラ等が何点かあり興味をそそられる。

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子供のミイラと大人のミイラ。大人のミイラは大男の様な気がしたDSC_4044 (800x533)

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数珠の一部と思われるガラス製の玉。  上が説明文で下が実物(1cm程度)DSC_4049 (800x533)

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 棺桶の変遷、左はローマ時代で銅製DSC_4042 (800x533)
 
ヒッタイト時代の屈葬DSC_4041 (800x533)

 町の川沿いの岩壁にポントス王(BC3~1)の墓が5か所あり見学する。ここもかなりの坂道でトレッキングとなる。5か所を全部見学したが中には何もなかった。チョット拍子抜けDSC_4055 (800x533)

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夕食まで少し時間がありタウンウオッチングとなる。チャイを楽しむ男たち。日がな一日、おしゃべりで過ごす。チャイは30円~50円程度。DSC_4080 (800x533)

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 今日は日がいいのか結婚式と卒業式があったようだ。花嫁とおつきの少女。よく見るとイスラム式のベールだ。それにしても美人だ。DSC_4062 (800x533)

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こちらも卒業式の記念写真DSC_4078 (800x533)

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今日は久々の休養日となった。夕食後はたまった洗濯をし、明日はまたコンヤに移動だ。







5月6日(日)曇
 今日はアマスヤから南のコンヤまで560kmの行程だ。コンヤはトルコ中南部に位置する古都。歴史は古く紀元前3000年の青銅器時代から続いている。メヴラーナの旋回舞踊でも知られる。
途中のボアズカレに寄り道し、ヤズルカヤ・ハットシャシュに立ち寄る。此処はヒッタイト帝国時代の祭祀場遺跡がある。約3400年前の遺跡で世界遺産でもある。高度な製鉄技術で鋼[はがね]までも作っていたとされ、二頭の馬が曳く三人乗りの二輪戦車(チャリオット)などで周辺国を圧倒した華々しい歴史がある。現在は広大な丘陵地に数々の石でできたレリーフや建物群の基礎の跡が残されている。ヒッタイト人はその後どうなったのかわからない。青い目をしたトルコ人が末裔ともいう。トルコ人は中央アジアから来て定着した。

世界遺産の表示DSC_4086 (800x533)

大勢の兵隊のレリーフDSC_4089 (800x533)

 この大ギャラリーで最も神聖な場面が彫られており、神聖な場を演出するために塞がれたものと思われる。DSC_4090 (800x533)

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別の場所では建築群の遺跡がある。基礎部分だけだが、かなりの建物があったことに驚くDSC_4103 (800x533)

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 この写真は兵士が戦場に赴く時の出征の門というべきもの。戦争の神様が門の石柱に彫られている。門を抜けると戦場への道が開けている。DSC_4125 (800x533)

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 70mものトンネルがあり中に入ってみると、人が一人通るには十分なトンネルであった。たまたま、トルコの大学生が来ており、にぎやかにトンネル内で騒いでいた。DSC_4134 (800x533)

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 3400年前はこの辺りは森林におおわれていたそうで、その後の気候変動で森がなくなり、草原の丘陵地となった。日本の歴史ではなかなか考えられない長さと変化だ。

 ヤズルカヤ・ハットシャシュの遺跡から200kmほどのところにトルコの首都アンカラがある。アナトリア高原の中央に位置している。昨年この地で暴動が起きたため、迂回してコンヤに向かう。丁度にわか雨が降ってきて、アンカラの町ははっきりとは見えなかった。DSC_4141 (800x533)

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5月7日(月)晴れ
 今日は午後からイスタンブールに向けて列車YHTのビジネスクラスで移動だ。距離にして780km。乗車券代は150トルコリラ(約4500円)だ。チケットというよりA4の用紙に氏名と列車番号、時刻、座席番号などが印刷されている。発車時刻は12:55でイスタンブールの到着時刻は17:05であったが、イスタンブール到着は約1時間遅延した。
 午前中はコンヤの町を回ってみる。コンヤは農業の町でもあるが、歴史の町、宗教の町でもある。先ず、700年前のアラティンモスクを見学、一部修復中であるが、700年の年月を感じさせないモスクであった。

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建設当時の柱は木造であったが、現在は一部石造りDSC_4153 (800x533)

近くから別のモスクが見えるDSC_4156 (800x533)

すぐ近くには聖パウロ教会がある。聖パウロがここまで伝道に来たという。DSC_4157 (800x533)

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セルジュク朝時代のミナレットDSC_4166 (800x533)

オスマン帝国時代のモスクDSC_4163 (800x533)

 街には宗教的な建築物が多く見かける。どれもこれも由緒があるような気がする。この町は他のトルコの街と異なり、イスラム色が強いと感じる。女性が目だけ出しているベール姿が多く目につく。

 セルジュク朝時代メヴラーナのモスクは、元は墓地であったらしい、それがだんだん訪れる人が多くなり、モスクや神学校となった。メヴラーナは、元は哲学者であったが、魂の開放をめざし胡旋舞を始めた。今でもモスク内には胡旋舞をする場所とお祈りをする場所がある。
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胡旋舞をする場所DSC_4186 (800x533)

お祈りをする場所DSC_4187 (800x533)

 5年ほど前にトルコに来た時は女性が目だけ出すチャドルを身に着けた人を見かけなかった気がするが、コンヤは特に多いと感じる。アタチルクが政教分離をし、宗教から国民を解放したのに、今の政府は逆行しているのではないか。トルコにとっては残念な気がする。

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コンヤの駅からイスタンブールまでの列車はスペイン製らしい。中々乗り心地はいい。DSC_4210 (800x533)

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座席は二人掛けと一人掛けの三列DSC_4215 (800x533)

機内食の様なものが出るDSC_4211 (800x533)

 列車は約1時間遅れて目的地に到着。謝罪のアナウンスはない。トルコの列車は、いつも遅れるとか、日本では間違って20秒早く出発した列車の車掌がお詫びのアナウンスをしたと話題になったが、トルコが異常なのか日本が異常なのかよくわからない。

 今回の旅行で列車を利用したのは、中国の柳園⇒トルファン、ウルムチ⇒イーニン、ウズベキスタンのサマルカンド⇒ブハラ、イランのマシャド⇒テヘラン、トルコのコンヤ⇒イスタンブールの5回。いずれも服務員のサービス等よく、快適な列車だった。

 シルクロードの旅もいよいよヨーロッパに突入。シルクロードも唐の時代はこの地イスンブール(コンスタンチノーブル)までであったが、漢の時代はローマまであった。振り返ってみれば砂漠や峻険な山道など難所は中央アジアまでかと思う。ローマまではあともう少しだ。

 少し時間が合ったので海峡を結ぶフェリーに乗りアジアとヨーロッパを行き来する。あいにくの雨で対岸がかすんで見える。
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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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