シルクロード紀行(その3)

タシュケントの歴史博物館 『シルクロードの地図』
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4月16日(月)雨のち晴れ
 西安から18日経ったが、始めて雨が降る。雨と言っても小雨で午前中には止んでしまった。久しぶりのお湿り。 
 今日の行程はキルギスの国境から再度、カザフスタンに入国し、西の方角300km先のタラズを目指す。
 タラズにはタラス河が流れている。この河畔で751年にアラブのアッバース朝と中国の唐と戦いアラブ側が勝利した。世界史的には一大エポック。この戦いの後、唐は衰退の一途となり西には進出出来なくなる。アラブ側はイスラム教の布教に力を入れ東に進出する。東西のバランスが751年を境に大きく変わり、中央アジアはイスラム圏となる。また、この戦争で捕虜となった唐の製紙職人がアラブ側に連れ去られ、唐が門外不出としていた製紙の技術をアラブ側が手に入れた。その後、イスラム教のコーランが普及したといわれている。

 キルギスからカザフスタンの国境は一昨日、通過したところだ。出入国手続きに要した時間は30分程度の簡単なものだった。

国境のコルダイから、ひたすら西に走るDSC_2975 (800x533)

国境のチュー川DSC_2973 (800x533)

国境の近くは数多く軍隊の監視塔があるDSC_2972 (800x533)

 途中で昼食はトラックの運転手が立ち寄るような食堂で摂る。オーナーはトルコ系のおばちゃんのようだった。料理はワンタン風のスープ、羊のスペアーリブ、ジャガイモとナンで量が多く半分程度しか食べられなかった。然し味は美味。
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 食後に用を足そうと店の裏側に行くとトイレと思しき小屋が2つあった。上のものは今にも傾き崩れそう。下のものは麦畑の方から入るが扉はない。結局、青空トイレに決定。つくづく男に生まれてよかったと思った。
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 (口直し)。一路、タラズを目指し走っていると、道端にチューリップの原種をあちこちで発見。前回見つけた原種と異なり花が大きく虫が蜜を求め花の中に沢山いた。
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 タラズの街に入る手前の丘でタラス河を見る。河を挟んで双方数万人が対峙した。唐側は丘の上に布陣していたが、チュルク系の一部族が裏切ったため、唐軍は壊走したという。日本の上杉謙信と武田信玄による「川中島の合戦」はスケール的には単なるいざこざの域を出ていないと感じる。
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丘の上にはイスラム教の霊廟があった
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4月17日(火)晴れ
 今日はタラズからウズベキスタンの首都タシュケントへ移動。距離にして320km。国境に行く道すがらチューリップを探す。やはり赤いチューリップの原種があちこちで咲いている。草原の向こうは西天山山脈。
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 天山山脈もカザフスタンを過ぎるとお別れだ。この道路は中国からヨーロッパまで通じている国際ハイウエー。まさに習近平が提唱する『一帯一路』。
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この先がカザフスタンの国境DSC_3023 (800x533)

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 カザフスタンの国境では札束を手に、怪しげな闇両替屋のオバハンが活躍。また、怪しげなものを売りに来るオバハンもいた。よく見ると植木鉢に見たことのない植物。カザフの国境からウズベクの国境出口までポーターが荷物を運んでいる。スーツケースは10個ほどだ。重量は200kg近い。皆たくましい。
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 荷物検査は比較的緩やかだが、麻薬に関するものは厳しそうだ。常に麻薬探知犬のシェパードがうろうろしている。撮影はNGだが・・・・DSC_3035 (800x533)

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 ウズベキスタンは日本の約1.2倍の面積を持ち、人口3200万人の国だ。首都タシュケントはソ連時代から中央アジア第一の都市であった。2年前にカザフスタンのアルマトイに地下鉄が開通するまではまでは唯一地下鉄のある都市でもあった。1時間時差があり、時計を遅らせる。(日本からの時差は4時間)
 国境からタシュケントまでは30kmの距離だ。今まで見たカザフスタンやキルギスと比べ緑が多いことに気づく。ヤッカサライにあるムスリム墓地の一角に第二次世界大戦後ソ連に抑留され、この地に没した日本人79名の墓地がある。とりあえず出かけてみる。
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上のお爺さんは父親から墓守を引き継ぎ、日本から勲章を授与されたと勲章を見せてくれた。下の人は息子さんで三代にわたり墓地を管理してくれている。
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 2015年に安倍総理が中央アジアを訪問した際にもこの墓地を訪れ、この親子に会ってねぎらっている。また、中山恭子元参議院議員も大蔵省退官後にウズベキスタン特命全権大使を務めたことがあり、その時に桜を植樹をしたそうで、その桜は4月の初めごろに満開であったそうだ。また 息子さんが安倍総理と握手している写真を見せてくれた。
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 ホテルにチェックインするまで時間がありウズベキスタン歴史博物館を見学する。夕方ということで来館者はほとんどおらず。スタッフのオバサンがスマホをいじっていたり、同僚とソファでおしゃべりしていている。社会主義時代が抜けていないと思った。
 展示品は旧石器時代のものからウズベク3ハン国までのものが中心でレプリカは少なく中身は見ごたえのあるものだった。
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 カザフスタン、キリギス、ウズベキスタンと中央アジアの国を回っていると、どの国も多民族国家で人々の風貌が違う。日本人に似ていたり、全くのロシア人だったり、モンゴル人だったりする。多くの民族を束ね統治するのは難しいかもしれないが、多様性が合っていいと思う。



4月18日(水)曇
今日はタシュケントからサマルカンドに移動。340kmの行程。 タシュケントから出発する前に、ホテルの近くのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場に立ち寄る。この劇場は第二次大戦後にタシュケントに抑留されていた日本人にソ連が強制労働で作らせた劇場の一つだ。1947年に完成し、1966年に起きたタシュケント大地震にもビクともしなかった。周りの建物は大部分が倒壊したそうだ。そのためタシュケントの人達は日本人をリスペクトするようになったとか。

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 劇場から少し東に行くとチムール広場がある。広場にはウズベキスタンの英雄でシンボル的存在のチムールの像がある。歴史書によるとチムールはモンゴル系の人物であり、ウズベク系の人物ではないと記載されている。然し、細かいことは言わず、自分たちの英雄ということだ。ソ連時代はここにレーニンの像が立っていたが、独立とともに像を建て替えた。この広場を中心に博物館や国際会議場などが建っている。

チムール像
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国際会議場
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 サマルカンドまでの道はあまり整備れているとは言えない。道の両側には広大な農地が広がっている。ウズベキスタンはカザフやキルギスと異なり農業大国だ。
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 国土が中央アジアの大河、アムダリヤ川とシルダリヤ川にはさまれ農業用水に事欠かない。そのためソ連のスターリン時代はこの地方で綿花の栽培を強制された。その結果、この二つの川は農業に消費され、アラル海にはほとんど流れず、アラル海はどんどん小さくなり干上がっている。まさに環境破壊の象徴。そのアムダリヤ川を渡る。DSC_3093 (800x533)

水が豊かなのか、電柱にはコウノトリの巣が見られる
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 サマルカンドに着いてウルグベク天文台に立ち寄る。ウルグベクはチムールの孫にあたるが、望遠鏡もない時代に恒星時1年間を365日6時間10分8秒と推測した。誤差は1分にも満たない。

天文台入口DSC_3104 (800x533)

天文台博物館DSC_3108 (800x533)

ウルグベクの肖像 DSC_3105 (800x533)

天文台の中DSC_3110 (800x533)

 天文台の直ぐそばにアフシャラブの丘がある、ただラクダ草が生えているだけで、生命感が感じられない。成吉思汗によって徹底的に破壊された痕跡がある。サマルカンドの町はこの丘の上に営々と築かれてきた。モンゴルの来襲の後、町が打ち捨てられたのは給水設備が破壊されたためといわれている。この丘の上に建てられた博物館を覗いてみる。

博物館の内部には様々なものが展示されている。中でも王宮の壁画が素晴らしいDSC_3119 (800x533)

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丘の上は羊を放牧していたDSC_3124 (800x533)
  
丘からはアレキサンダー大王が築いた城壁が残るDSC_3127 (800x533)



4月19日(木)曇
 今日は一日サマルカンドの観光。定番のアミール・チムール廟、レギスタン広場、ビビハニ・モスク、シャーヒズィンダ廟群、バザールなど。

 アミール・チムール廟は彼と彼の息子たちが眠る霊廟である。元はチムールの孫のために建設した廟であったが、孫が先にトルコ遠征で1403年に戦死し、チムールも1405年にチムールも中国遠征途上で病死した。
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黒い大理石がチムールの墓石 DSC_3145 (800x533)

棺は地下室にあるDSC_3149 (800x533)

 レギスタン広場は成吉思汗の来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となった。主要道路の交差点であったレギスタン広場は公共の広場として機能した。謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われた。今も、パレードなどが行われているようだ。
 レギスタン広場の奥の建物はティラカリ・メドレッセで左の建物はウルグベク・メドレッセ、そして右の建物はシェルドル・メドレッセだ。メドレッセとは神学校を意味する。

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 ビビハニ・モスクは、かつてイスラム世界で最大の規模を誇ったモスク。1399年にインド遠征から戻ったチムールは世界に比べるものがないような壮大なモスクを建設した。DSC_3163 (800x533)

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 シャ―ヒズィンダ廟群はチィムールゆかりの人々の霊廟がほぼ一直線に立ち並ぶ。訪れた時も巡礼と思われる人たちが大勢いた。サマルカンド有数の霊廟だ。
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道の両側には霊廟が並ぶDSC_3174 (800x533)

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霊廟の中に入ると墓石があるDSC_3176 (800x533)

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 霊廟から少し歩くと巨大なバザールがあり覗いてみる。ナンはサマルカンドのものがウズベキスタン一といわれ結構売れ行きがよさそうだ。その他ドライフルーツなど多くの物産が並んでいる。中には羊の足のような物もあり面白い。1週間ほど先にイランに行くので、Tシャツ2枚を買う。50,000スムで約600円なり、縮んだり、伸びたり、色落ちしてもパジャマ代わりにすれば問題なし。

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 夜に散歩に出かけレギスタン広場とアミール・チムール廟に出かける。ライトアップされていて昼間とはちょっと違った雰囲気だ。
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4月20日(金)晴れ
 今日はサマルカンドからブハラに高速鉄道で移動。260kmの行程。高速鉄道はスペインの技術とか。乗り心地は日本の新幹線のようにはいかない、結構、振動がした。列車名はアフラシャブ号。切符はパスポートNoが記載されている。

ブサマルカンドの鉄道駅DSC_3224 (800x533)
 
駅のコンコースはゆったりしているDSC_3226 (800x533)

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列車はビジネスクラスなので2人掛けと1人掛けでゆったりしている。
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ブハラ駅DSC_3241 (800x533)

 ブハラに着いてからまず、イスマイル・サマー二廟を見学。9世紀から10世紀にかけて建築された中央アジア最古のイスラム建築。日干し煉瓦でなく焼き煉瓦で造られている。DSC_3249 (800x533)

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 アルク城の辺りが古代ブハラの発祥地らしい。13世紀にモンゴル軍が来襲し、城に立て籠もった市民は虐殺された。そして城も破壊された。その後、再三外敵に破壊されては建て直した。今残っているのは18世紀のものだ。
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 ボラハウズ・モスクはハン専用のモスクで前面にクルミの柱が20本並んだテラス状の空間がある。前面の池が柱を映し出し40本の柱のように見える。
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 カラーンモスクはミナレットと繋がっていて非常に大きなモスクだ。ソ連時代は倉庫になっていたそうだ。
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 ミルアラブの神学校はソ連時代にも神学校として認められていた。現在も神学校としてアラビア語、コーラン、イスラム法などが教えられている。
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格子越しに学校の様子が分かる DSC_3286 (800x533)

お祈りの時間を表わす時計DSC_3288 (800x533)

 砂で埋もれていたマゴキ・アッタリ・モスクは1936年にロシアの考古学者により発見された。現在も穴の中からすっぽりと掘り出したようになっている。DSC_3298 (800x533)

 チョル・ミナルは4本のミナレットという意味で、トルクメニスタン人の大富豪により建てられた。4人の娘がいたとされている。ミナレットの1つには作り物のコウノトリがあり、そこに鳥が止まっていた。DSC_3304 (800x533)

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 ナデール・ディヴァンペギ・メドレッセは1622年に大臣であったナデール・ディヴァンペギにより建てられた。正面の入り口には二羽の鳳凰が鹿をつかんで太陽に向かって飛んでいる絵があり、太陽には顔が描かれている。偶像崇拝禁止のイスラム建築では珍しい。この時代はまだ、ゾロアスター教の影響が多く残っているといわれている。
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ウズベキスタンの公共バスは天然のメタンガスが燃料でタンクを屋根に積んでいる。
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4月21日(土)晴れ
 今日はウズベキスタンからトルクメニスタンに移動する。トルクメニスタンの国境まで110km、国境を通過し、アムダリヤ川、カラクム砂漠を越えマリへ290kmで計400kmの行程。マリで世界遺産『メルブ遺跡』を観光する。

 トルクメニスタンは以前、中央アジアの最貧国で独裁政治であったため、中央アジアの北朝鮮と言われたこともあった。2007年に大統領が死去し新大統領が開放路線で民主化を図ったため、6歳から18歳までを義務教育とし、無償化を実施。また、水道光熱費は無料としている。因みにガソリン代は1ℓ1.5マナットで50円程度である。

 ウズベキスタンの出国手続きは2度、パスポート検査があった。トルクメニスタンの入国は国境でビザを取得(US$55)したため、1時間程度要した。入国検査で麻薬を持っていないか、常備薬のチェックをされる。また、ドローンを持っていないかの問いには面食らった。しかし、対応は極めてフレンドリー。

ウズベキスタン国境の第一パスポートチェック DSC_3312 (800x533)

出国手続き棟への通路DSC_3313 (800x533)

国境を流れるアムダリヤ川DSC_3321 (800x533)

アムダリヤ川にかかる鉄道の橋DSC_3324 (800x533)

 ウズベキスタンを過ぎると歴史的に中国の影響はなくなる。然し、蒙古の成吉思汗の破壊はロシアまで続く。トルクメニスタンに入るとギリシャやローマ帝国の影響を感じる。この辺りが西と東の分岐点か。

 トルクメニスタンに入ると砂漠が続く、そして所々にヒトコブラクダを見かける。中国の新疆やカザフスタンはフタコブラクダだった。
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 砂漠を走っているとはるか向こうに鉄道が走っている。全て貨物列車。習近平の『一帯一路』か。砂漠の中に綿花栽培のために作られた世界一長いカラクム運河が流れている。
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 マリの近くにメルブ遺跡がある。ここは、かつてシルクロードきっての規模を誇ったオアシテ都市であった。ペルシャと中央アジアを結ぶ重要な中継地でもあった。特にセルジューク朝時代は首都として繁栄していたが、1221年にモンゴルによって破壊された。メルブは一瞬にして歴史から消え去った。メルブは古い町が捨てられるとその上にあたらして町を造るのではなく隣接したところに新しい町が造られた。現在はドーナツ状に城壁が残っている。もっとも古い城壁はアケメネス朝時代(紀元前6世紀から4世紀)のものとされている。この南方にはアレキサンダー大王時代(紀元前4世紀から3世紀)のものもある。
 また、ササン朝ペルシャ(3世紀から7世紀)のころにはゾロアスター教を始めキリスト教や仏教等様々な宗教が栄えた。ソ連時代に仏教遺跡から大仏像が発見されている。
 
世界遺産の表示
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世界遺産で放牧DSC_3351 (800x533)

キズ・カラ『乙女の城』DSC_3357 (800x533)

スルタン・サンジャール廟DSC_3376 (800x533)

この丘に登ると360度視界が広がる DSC_3369 (800x533)
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4月22日(日)晴れ
 今日はトルクメニスタンのマリから首都のアッシガバードに移動。約400kmの行程となる。移動中にラクダの群れに遭遇する。ラクダは朝に飼い主の家から出て、夕方戻って来るらしい。以前は荷物を運ぶ家畜であったが、今は専ら食肉用と毛皮、それに毛糸用にするという。

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 途中のアビウエルトという所に紀元前4千年から6千年の町があったということで立ち寄ってみる。今はただの土くれだが、かつてはかなり大きな城壁などがあり、それなりの町だったと感じた。遺跡は残念だが管理されておらず出土品や人骨と思われるものもあった。
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 アッシガバードの郊外のアナウに15世紀ごろに「バガバッド」の名で記録に現れた城塞都市がある。美しいモスクで知られ青のタイルで覆われていたモスクは1948年の地震で倒壊した。今も地元の人の信仰の場となっている。倒壊したモスクらしき物の上に来ると信者たちがお祈りをしていた。今もここは信者の聖なる地だ。

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子供の成長、良縁、病気回復、家内安全、商売繁盛、学業成就等、日本と同じような願い事をするらしい。
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家族で来ているのか、大勢で食事をとっていた。子供たちは写真を撮れという。DSC_3409 (800x533)

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 夕刻、アッシガバードに着く。トルクメニ語で「愛の町」という意味だそうだ。中央アジアのオアシスの街としては最南端に位置する。1948年の大地震の後、建設され遺跡や旧市街等はない。独立後あまり年が経っていないせいか、若い国という感じと意気込みを感じる。

 独立の塔
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2015年に安倍総理が訪問した際の記念植樹の松DSC_3416 (800x533)

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  世界には永世中立国が四つある。スイス、オーストリア、リヒテンシュタイン、トルクメニスタン。リヒテンシュタイン公国は実質上スイスの保護下にある国なので、三つであると考えた方が良い。 ちなみにスウェーデンは国際社会が認める永世局外中立国ではなく、政策として永世中立を標榜していたが、2002年に中立政策を放棄した。
 トルクメニスタンは1995年に国連総会で永世中立国と承認された。国連決議による永世中立国だ。日本人は知らない人がほとんどと思う。

前大統領の像DSC_3421 (800x533)

永世中立の塔
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4月23日(月)曇
 今日は1日アッシカバードの観光。まず、アハルテケ(汗血馬)の飼育所に行く。漢の武帝が、汗血馬という名馬がいると聞き、将軍李広利を派遣して、それを獲ようとした。その名の通り、血の汗をかくと信じられていた。飼育場で聞いたところ、ここの馬は毛細血管が細く、走れば毛細血管が膨張し、皮膚の上に浮き出るという。白馬ならまさしく肌がピンク色になる。そのあたりが正解なのかもしれない。名馬を飼育しているといわれるだけあり、トルクメニスタンの競馬で優勝したこともあり、馬形の美しさのコンクールにも優勝した馬がいた。全体にバランスの取れた美しい馬ばかりであった。2015年に安倍総理が訪問した際に金色の馬をプレゼントしたといっていた。

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 アハルテケの飼育所の見学の後は国立歴史博物館や世界遺産ニサ遺跡を見学する予定であったが、急遽アッシカバードから280kmに位置するカラクム砂漠の中央、ダルヴァザ付近にある『地獄の門』を見学することに決定。午後3時にホテルを出発する。夕刻の7時前に到着。ここは旧ソ連時代の1971年に地質調査を行った際に大きな落盤事故が起き、巨大な穴の底から天然ガスが噴出した。その時に有毒ガスが噴き出した。やむなく、有毒ガスの噴出を防ぐため点火したという。その後は現在まで燃え続けている。現在の大統領は早く火を消すように指示しているため、その内、『地獄の門』が消えてなくなるかもしれないので出かけたのが真相だ。 
 
 現地に行くには砂漠の中の道路を突っ走る。道路と並行して鉄道が走っていた。また、道路標識でラクダに注意というのが、遊牧民の国である。DSC_3459 (800x533)

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 現地に着くと十数名の観光客がいた。彼らはテントで一泊しながら観光するそうだ。我々は遊牧民のユルタ(遊牧民のテント)でバーベキューを楽しむ。羊肉、鶏肉、トマト、ピーマン、ナスビにナンである。野趣あふれる料理。
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他の観光客たちはテントに宿泊DSC_3475 (800x533)

7時頃の穴の風景 風向きで暑く感じるDSC_3464 (800x533)

人間の大きさで穴の大きさがわかる DSC_3465 (800x533)

事故当時のパイプDSC_3471 (800x533)

日が沈むと全体の熱気で赤くなるDSC_3481 (800x533)

穴のそばは迫力があるDSC_3486 (800x533)

人影が良く見える DSC_3491 (800x533)

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 突然予定を変更したのでホテルに帰還は日付が変わっていた。280kmの距離もそうだが、4WDで漆黒の砂漠を100km以上のスピードで走るのは、ちょっとスリルがありすぎ、車から降りると一気に疲れが出た。











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