17.10.22鎌倉七座探訪

 今日はNPO法人鎌倉ガイド協会の深作さんの案内で、『鎌倉七座』跡を探すというテーマでレクチャーを受けながら散策。

 そもそも中世の『座』とは朝廷、貴族、社寺などの保護を受け、課役の見返りに特定の商品の製造、販売上の独占権を得た同業者団体(組合)を言う。西欧ではハンザ同盟やギルドがこれらに当たる。

 昭和37年の悪法といわれる「住居表示法」の成立により、かつての地名が消えてしまった。しかし、よく見れば、自治会や橋の名前で、痕跡を見つけることができる。

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  Netで調べてみると、南北朝時代の著作「庭訓往来」に「「芸才七座之店」との記述がある。鎌倉にも『鎌倉七座』があったとされるが、この七座が何かを具体的に記した確かな資料はないという。一方、「庭訓往来」の注釈書では、魚座・米座・器座・塩座・刀座・衣座・薬座だとか、絹座・炭座・米座・檜物座・先朶積座・相物座・馬商座などとしている。鎌倉幕府のおひざ元との都市として商工業の繁栄した中世の鎌倉にも、諸座が多く存在したことと思う。鎌倉時代は人口が6万人程度であったといわれている。現在の鎌倉市の人口は旧市街と新市街を含めて18万人強である。マンションなどの集合住宅のなかった中世の鎌倉は非常に人口稠密な都市であっただろう。

【大町大路】
 鎌倉時代の大町は、大町大路と若宮大路が交差する下馬付近から名越に及ぶ広い地域で、大町大路沿いに多くの町屋が並び、特に大町大路と小町大路が交差する現在の大町四つ角の周辺は町屋御免地区といって、幕府から商売を許された地区で鎌倉随一の繁華街であった。和賀江嶋や六浦で陸揚げされた全国の産物が売買される場所として賑わった。
 大町大路は、下馬四つ角から炭屋川を渡って大町四つ角辺りまでは、かつては米町、魚町と呼ばれたそうだ。さらに傘町を経てその先が名越となる。大町大路から北に少し入った教恩寺辺りは、かつて中座と呼ばれた。大町四つ角を小町大路で南に曲がり魚町橋を渡り、町屋阯碑を過ぎた先が辻町だ。

炭屋川に架かる延命寺橋
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現在の炭屋川で下流に行くと滑川となる
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中世の繁華街大町四つ角
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かつての辻町の痕跡
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町屋阯碑
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材木座に流れる豆腐川に架かる橋
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 最近、米町遺跡(大町2丁目)から傘の部品(傘ろくろ)が見つかったそうだ。中世には傘職人がこの辺りにいたのだろう。また、記録によるとこの辺りに博労座(馬商座)があり、荷駄を運んだそうだ。さしずめ現代のレンタカーだ。

【延命寺】
山号・帰命山延命寺、宗派・浄土宗、開基・北条時頼夫人。ここには運慶作とされる地蔵菩薩像がある。別名を「身代わり地蔵」といい、時頼夫人の守護仏。裸形像で普段は緋の衣に袈裟をかけて双六盤の上に安置されている。

延命寺本堂にある地蔵菩薩像
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同じく阿弥陀如来像
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【本興寺】
 法華山本興寺は「辻の本興寺」とも呼ばれ、日蓮聖人の鎌倉辻説法の由緒地の一つでもある。小町通りにも同じような鎌倉辻説法の由緒地がある。

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日蓮聖人辻説法の碑
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【辻の薬師堂】
 奈良時代の創建で名越にあった医王山長善寺がこの地に移された。江戸時代に火災に遭い廃寺となる。薬師堂のみが残ったそうだ。この薬師堂には薬師三尊像と鎌倉でも有数の十二神将像が安置されていたが、現在は鎌倉国宝館に寄託されている。従い、写真の像はレプリカ。

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薬師三尊像のレプリカ、本物は鎌倉国宝館
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【妙長寺】
 山号寺号・海潮山妙長寺、宗派・日蓮宗、開山開基・日実上人。日実上人は、伊豆の法難で日蓮聖人の命を救った漁師・船守弥三郎の子であり、後に鎌倉を訪れ、伊豆に流された聖人が船出をした材木座の沼浦という場所に寺を建てた。その後、天和元年(1681)の大津波で寺が流され、現在の場所に移転。また、ここは明治の作家・泉鏡花が、ひと夏を過ごし「みだれ橋」を上梓している。

妙長寺本殿
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本殿内
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 妙長寺の境内には「法難御用船」の1/6の模型や「鱗供養塔」があり、伊豆の漁師と日蓮の関りを感じる。
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小説「みだれ橋」のもとにもなった新田義貞軍と幕府軍の戦闘地「乱橋」の碑
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【五所神社】
 この周辺は元々、乱橋村と材木座村に別れていたが、明治時代に合併し材木座と改められた。もと乱橋にあった三島社、八雲社、金刀比羅社の三社が、もと材木座には諏訪社、視女八坂社の二社があった。明治41年に材木座の三島社に合祀され五所神社となった。訪れてみると、それぞれ神社が持ち寄った狛犬や灯篭でごちゃごちゃした感じだ。

五所神社の参道  DSC_0910 (800x533)

五所神社の本殿
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国の重要美術品「不動種子板碑」 DSC_0914 (800x533)

珍しい摩利支天像
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【實相寺】
 山号寺号・弘延山實相寺、開基・日照上人。曽我兄弟の仇討で有名な武将、工藤祐経の屋敷跡といわれる。日照上人は、母親が祐経の娘と言われている。

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本堂内は立派だ
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日照上人の墓標
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【光明寺】
 山号院号寺号・天照山蓮華院光明寺、開山・然阿良忠、開基・北条経時、宗派・浄土宗。明応4年(1495)後土御門天皇から「関東総本山」の称号を受けた由緒ある大寺。特に三門は関東一の大きさを誇る。

総門から三門を眺める  
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総門にかかる扁額の文字は「勅願所」らしい、多分誰も読めない
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三門の飾りは、なんとなく由緒正しい感じ
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記主庭園は小堀遠州作と言われている
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開山良忠上人御廟
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檀家の日向国延岡藩内藤家の宝篋印塔群
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 光明寺に「地平はるか」という大連高等商業学校の慰霊記念碑があり、気になっていたが、お寺の人に尋ねたところ、大連高商は戦前、大連市光明台にあったとか。その「光明」の縁でここに碑があるそうだ。なんかいい加減な感じがする。また、高倉健の慰霊碑もあったが、これもきっと、何かの縁で建てられたのだろう。

【和賀江嶋】
 最後に海辺に出て「和賀江嶋」を眺める。和賀江の築島ともいう。現存最古の港湾施設であり、国の史跡に指定されている。貞永元年(1232)に築かれたが、現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまう。鎌倉時代は殷賑を極め、この和賀江嶋が物流のかなめとして物資が往来したのだろう。

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 鎌倉七座を訪ねるというテーマであったが、残念ながら『座』の付く地名は材木座のみであった。材木座は鶴岡八幡宮を建立するときに各地方からの材木集散地でこの名が付いたのだろう。


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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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