19.08.20-09.07中国新疆・中央アジア 番外編

中国と中央アジアを隔てる天山山脈
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8月20日から9月7日にかけて中国新疆から中央アジアの国々を旅して特に感じたことを箇条書にした。

新疆ウイグル自治区について

・新疆ウイグル自治区の人口は、約2500万人。うちウイグル人は835万人。今年の7月16日のNHK国際ニュースの報道では、米国国務省の報告でウイグル人が80万人~200万人が政府により隔離され収容所(職業教育施設?)に入れられていると。そもそも『ウイグル』という言葉は現地語で、『連合・団結』という意味らしい。

・「市場があれば国家はいらない」と書いたのは藤原信也(全東洋街道)だが、これはアジアの市場が発散するエネルギーを文字にしたものだ。昨年訪れた新疆のバザールの入り口は立派なイスラム風の門がある。しかし中央のゲートは閉められている。通用口の様な入口から入ると、空港にあるようなX線検査機が置かれていて、手荷物をベルトコンベアーに載せ、その横の金属探知ゲートをくぐる。ベルトのバックルや靴にも金属が使われており、当然反応する。前で待機しているウイグル人の公安の前で両手を挙げてボディーチェックを受ける。その先で身分証明書を提示する。ウイグル人リーダーに身分証明書をかざすと、横にあるモニターに小生の顔が映し出される。その顔と本人を別の公安がチェックするシステムだ。パスポートを渡すと顔写真の照合で終わらず、公安はスマホを手にし、小生の顔を撮った。こうしてやっとバザールの中に入れる。セキュリティチェックが終わる。自然に「ふぅーッ」とため息が出る。ウイグル人がタマネギやジャガイモ一つ買うにもこのようなチェックを受けることになる。

昨春、訪れた市場入り口のセキュリティチェック
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・バザールの入り口付近に黒いヘルメットが目に留まる。その横には黒い金属製の盾があり、『防暴』という文字が記されている。公安が店一軒一軒に配置している。つまり中国政府の弾圧に反発するウイグル人のデモやテロが起きた場合、店の主人やスタッフが鎮圧の向かうための道具である。これは中国政府に対する「踏み絵」なのかもしれない。『防暴』を受け入れなければウイグル人の過激派を支持したことになるのかもしれない。そうなれば店は閉鎖されるだろう。テロを想定した鉄パイプを突く訓練があるようだが、テロに対して何の意味があるのか疑問だ。なんとなく日本の戦中に竹槍訓練を無理やりやらせた、在郷軍人を連想させる。

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・バザールや空港だけではない。レストランやホテルも例外ではなくセキュリティチェックがある。しかし、旅行者に対するチェックはおざなりな感じがする。

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・新疆ウイグル自治区は中国の民族問題の火薬庫である。2009年7月5日に新疆ウイグル自治区のウルムチで大規模な騒乱が起きた。漢民族とウイグル人の軋轢は大きい。また、2014年3月に雲南省昆明市の駅前でウイグル人が漢人を襲撃し29名の死者を出すテロ事件が発生した。

・アイヌが同化された歴史は、ウイグルと似ているかもしれない。1990年以降、中国の改革開放路線が本格化したころから漢人の経済進出進み始めた。この新しく進出してきた漢人は現地の習慣や宗教を無視し、見下し、権力をにぎった。

・中国政府は少数民族の絶滅を推進しているわけではないが、「アメ」と「ムチ」と思われる方法で支配。「アメ」は教育支援政策や貧困対策の政策推進。しかし、中華民族の価値観を一方的に押し付けているのも事実だ。「ムチ」は抵抗するものには厳罰が処せられる。

・中国政府は民族運動に警戒を強め、ウイグル人の政治エリートや知識人の拘束を進めた。1999年には、後に『世界ウイグル会議』の総裁に就任するラビア・カーディルも逮捕された。彼女はその後6年間にわたり投獄された。中国にかかわりのあるダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞したが、ラビア・カーデルも一時、候補に上がった。

・ウイグル人への国外の支援者はトルコとドイツ以外は日本だ。日本の場合は単純にウイグル人の人権のためということではなく、反中国という一点から一部の右翼勢力や新宗教団体に利用されている。そのため、何も知らないラビア・カーディルを靖国神社に連れ出し参拝させている。これは中国にとって、日本の右翼⇒軍国主義者・侵略主義者⇒アジアの敵 国家分裂主義者という分かりやすい構図になるだろう。そしてウイグル人の民族運動をテロリストという理由で弾圧の口実を与えている。

・中国のIT技術の発展の下で新疆は大量の監視カメラが配置され、顔認証機能による監視が行われている。2014年当時は大学生や公務員だけが禁じられていたモスクでの礼拝も、今は全ウイグル人が禁じられているようだ。自宅でのコーランの所持すら許されず年配層を除けば髭を生やしたり、ウイグル帽をかぶることすらままならなくなっている。新疆の域内にある『再教育』を名目にした収容所では100万人規模のウイグル人が拘束されていると報じられている。

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中央アジアについて

・中央アジアの国々は、旧ソ連時代は身も心もロシア化された。しかし、91年のソ連崩壊を機に「独立」を強いられた。ロシア系銀行の中には、預金を払い戻さない銀行もあったそうだ。中央アジアの人々は国ぐるみの詐欺にあったようなものだ。例えが悪いが結婚詐欺師が女性にたっぷり貢がせたのち振ってしまったようなものだ。

・1370年にチムールがトランスオクシアナ全域を制圧し、サマルカンドを中心に帝国を打ち立てた。彼はイラン、トルコ、アフガニスタンを征服し、中国侵攻を目前に1405年死亡。ウズベキスタンはチムールを建国の英雄と見なしているが、彼はウズベク人ではなく、また、ソ連の正史でも否定的に扱われている。チムールの銅像にはモンゴロイドを感じない。

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・中央アジアの政治文化は、強大な権力の崇拝、地域と縁故と一族を基盤とした部族主義・派閥主義である。

・中央アジアではロシア語は今でも1970年以前に生まれた世代の地域言語である。しかし、衰退の途上にある。エリート層の子女向けの新設校では英語が優先的に教えられている。看板を見てもロシアのキリル文字からローマ字表記に代わりつつある。新興国が自らの言語を使うことによりナショナリズムでまとまろうとしている感じがする。

・タジキスタンは92年に内戦が勃発したため、強大な中央政権の出現を見ることがなかった。タジキスタンは99年9月にサーマーン帝国一千年記念行事を挙行した。タジク人のナショナリズムはペルシャ語が中央アジアの文語であった時代を偲び、ペルシャ語話者の町であったサマルカンドとブハラがソ連によってウズベキスタン領とされたことを慨嘆する心情の上に立つ。タジク人は歴史の上でもウズベク人に負けてしまったという感情を抱いている。旅行中、サマルカンドのガイドは自らのアイデンティティをウズベク人と言わずタジク人と称していた。

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・玄奘は中国の長安からインドのブッダガヤ周辺にあった仏教の中心地まで3年の年月をかけた旅だ。玄奘の旅で難しいのは1400年近くの旅ということ。日本で言うと聖徳太子の時代のこと。彼が通過した国は、今は存在しない。帰路はインドのガヤからパキスタンのイスラマバードを北上しクンジュラーブ峠を越えて中国に至った。

・旅行中の昼食は道に沿った食堂で済ますことが多い。皿にはドーンと羊肉の串焼きが盛られる肉食系だ。70歳を過ぎた胃には少々きつい、できる料理はこれしかないようだ。骨付き羊肉を食らいつく姿は漫画のギャートルズそのもの。食べているうちに草食系の自分が、だんだん気性が荒々しくなるような感じがする。






















19.09.02-.07中国新疆・中央アジア旅日記 その3

 中央アジアの中でウズベキスタンの面積は日本の1.2倍、人口は3千2百万の大国である。世界遺産もシャフリサブスの歴史地区をはじめ4か所を数える。

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9月2日(月)
 今日はドシャンベのホテルから百数十km南の涅槃佛が発見されたアジナ・テべに出かける。道中は大掛かりな道路改修が行われているため3時間ほどの時間を要した。涅槃佛の発見や発掘については昨日の博物館見学で情報は入手済。

遺跡の発掘場所は金網で囲まれていた
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 アジナ・テバ遺跡は7~8世紀の仏教遺跡であり、遺構からは大型のストゥーパや菩薩像の他、全長13mに及ぶ涅槃仏像が出土している。遺跡は1959年から考古学者により調査された。アジナ・テバは古代のシルクロードの中継地点に位置し、中国、ヨーロッパ、中央アジア、インドの湾岸地域を結ぶシルクロードの要所として貿易の重要拠点となっていた。1961年に遺構が発見され、1975年まで継続して行われた調査においては、ボリス・リトヴィンスキー率いるタジキスタン科学アカデミーの歴史学者、考古学者グループが大規模な調査を行った。仏教寺院はアラブ人による侵入の後、偶像崇拝を禁止するイスラム教の教義から破壊されたと考えられている。現在日本の支援もあり日本語表記の説明も掲示されていた。

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 遺跡は単なる土くれにしか見えない。よく見ると日干し煉瓦と思われるものには藁が混じっていた。

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どこからか現れ、見学者の素性をチェックし、その後、説明してくれた少年。手持ちのボールペンをあげるとはにかんでいた。
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今日は9月2日(月)で新学期が始まったようだ。児童が生き生きしていた。
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 昼食は街道沿いの食堂で店頭の窯で焼いているサムサ(肉やタマネギを挟んだパイ)を食す。デザートは勿論スイカとメロン。
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9月3日(火)
 タジキスタンから国境を越えウズベキスタンのテルメズヘ。ウズベキスタンは世界で2か国しかない『二重内陸国』(隣国ともう1国を通過しないと海に出られない)である。もう1か国はスイスとオーストリアの国境に位置するリヒテンシュタインである。

 ウズベキスタンとの国境に行く途中、16世紀から20世紀初めのブハラ・ハン国時代の都・ク―ル要塞に立ち寄る。
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 中央アジアで,徒歩で通過する国境はいつものことながら、ポーターがいなければ、自分で緩衝地帯を、スーツケースをもって通過しなくてはならない。航空機による移動とは異なる。炎天下の中央アジアはきつい。


タジキスタン側の税関と出国審査場に向かう
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ウズベキスタン側の税関と入国審査場に向かう。
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 昨春、ウズベキスタンに入国する際は手持ちの外貨などの申告が必要だったが、今回はなかった。多分、カリモフ大統領の死で緩やかに変化したのかもしれない。

 ウズベキスタン入国後、テルメズに向かう。途中、有名な仏教遺跡ダルベルジン・テべに向かう、ここはバクトリア地方北部に小規模な要塞が作られた後、紀元前1世紀頃都市が形成され、クシャーナ朝の時代に発展を遂げ、行政地域、居住地域、窯業などの産業地域、仏教寺院などが建設された。遺跡の住居からは金のネックレスなど多くの金製品が発見されている。3世紀頃には都市として衰退した。

 実際、遺跡を見学したが、掲示板もないし、ここが遺跡の現場かどうかは、わかりにくい場所だった。しいて言えば、発掘予定現場が金網で囲われていたことぐらいだろう。これも羊の放牧で荒らされないためのものと思われる。

クシャ―ン朝の仏教遺跡の表示、これがなければただの土くれ。
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9月4日(水)
 今日は1日テルメズの観光で過ごす。先ず、キル・キズ・サライに向かう。「キル・キズ・サライ」とは「40人の女性の宮殿」という意味らしい。宮殿は神学校の意味もあるという。実際に遺跡を見学すると、我々以外に観光客はだれも居ない。

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 その次は、スルタン・サオダット廟群を見学。サオダットという聖人の廟であり、その周りに彼のそばで眠りたいという人達の墓がある。因みにサオダットとはアラビア語で『幸せ』という意味らしい。建物中にはお墓がびっしりと並んでいた。

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 そして、その次のズルマラ遺跡は『仏塔』で有名な遺跡だ、しかし、畑の中にあり、たどり着くための道がない。畑の中に入るには農民の許可が必要と思われるので、遠くから眺めて我慢する。

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 仏教遺跡フィヤズ・テべとカラ・テべに向かう。ウズベキスタンにインドから仏教が伝わったのはクシャーナ朝時代の紀元後1世紀頃と推定されている。フィヤズ・テべはタシュケントの博物館に所蔵されている釈迦三尊像が発見された有名な仏教遺跡だ。こちらは単なる土くれでなく明らかにストーパ―の跡のようなドームがあった。ドームの中には入ることができ一周することができた。


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 鉄条網のの向こうはアフガニスタンとの緩衝地帯
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この穴からストーパ―の中に入る。
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ストーパ―内部の天井
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釈迦三尊像が発見された龕らしきもの  
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 フィヤズ・テべから直線で1kmほどの所にカラ・テべ遺跡がある。軍隊管理地区で現在発掘中であるが、だれも居ないので勝手に見学。フィヤズ・テべもカラ・テべも唐の時代は栄えていたので玄奘三蔵はここを経由したと考えられる。

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 カラ・テべ遺跡の直ぐそばは有刺鉄線で囲われている国境の緩衝地帯である。その向こうには中央アジアの大河アム・ダリア川が流れている。川の対岸はアフガニスタン・イスラム共和国だ。遠くには監視塔らしき塔が、しかし、あまり緊張感はない。

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 ハキ―ム・アルテミズ廟はスルタン・サオダット廟群と同様に聖人の廟である。こちらの方が敷地も広くお参りに訪れる人も多かった。また、瞑想のための洞窟もいくつかあった。

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石碑の下(地下)に棺がある
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瞑想のための洞窟
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 最期にテルメズの考古学博物館を訪れる。展示物はこの地域で出土したものが中心だ、しかしオリジナルはタシュケントの博物館に所蔵されている。

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9月5日(木)
 テルメズから450km先のサマルカンドへ。途中、テルメズから西に20km離れたカンプィルテバは、古代においてインドと中央アジア・バクトリアを結ぶルートがアムダリヤ川を越える地点に造られた要塞都市だ。

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 その後、世界遺産シャフリサブスに向かう。途中、アレキサンダー大王が通ったといわれる『鉄の門』を道路から眺める。山脈が入込んだ幅10m程度の切通だ。当然、玄奘三蔵も通ったと追われる。

 写真では判別しづらいが、家の奥に切通状の地形がある
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シャフリサブスはチムール生誕の地と言われている。ここには世界遺産の『ドルディロバット遺跡群、ドルッサオダット遺跡群、アク・サライ』がある。

 ドルディロバット遺跡群は『瞑想の家』と呼ばれるチムールゆかりの建築群だ。これは孫のウルグベクによって建設されたものだ。

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 ドルサオダット遺跡群にはチムールの息子で22歳で戦死した長男のために建てたジャハンギ―ル廟があるが、半ば崩れかかったような建物だ。建物の中には墓石がある。

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 アク・サライは1380年に着工され、チムールの死後1405年まで建設が続いた。アク・サライとは『白い宮殿』という意味らしい。現在のアーチの高さは38m、壊れる前は50m以上の高さがあった。この入り口のアーチの南には大理石が敷き詰められた中庭がある。

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9月6日(金)
 サマルカンドから300km先のタシュケントへ。そして大韓航空942便(21:20発)でソウルへ。時間があまりない中、午前中にサマルカンドを大急ぎで重点的に回る。一応、昨春もこのサマルカンドは訪れており3度の観光。

 サマルカンドの定番、レギスタン広場は前日にイベントがあったらしく取り片付け中。
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 イスラム世界で最大級の規模を誇るビビハニム・モスク。インド遠征から帰還したチムールが建設を決意して建てたモスク。様々な伝説がある。

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 アフラシャブ博物館に立ち寄る。アレキサンダー大王時代のコインやゾロアスター教の祭壇などがある。しかしこの博物館の目玉は、7世紀の領主の宮殿から発見されたフレスコの壁画だろう。色鮮やかで、当時の様子がありありと表現されている。

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タシュケントに行く途上、ゼラフシャン川を渡る。
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更にシルダリア川を渡る。
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 いつもことだが、街道沿いでメロンで水分補給。ついで子供の写真をパチリ。
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9月7日(土)
 台風13号が7日朝鮮半島に上陸するとのニュースに神経をとがらせる。何度も航空会社に連絡しフライトを確認。タシュケントを6日の21:10発の便で無事ソウル7:45到着。6時間半のフライト。時計を4時間進め時差を調節。大韓航空703便(10:10発)で成田へ。台風15号は当初より進行が遅いようで無事に12:30成田到着できた。




 今回の旅行は初めてのタジキスタンを延べ1週間滞在した。タジキスタンは1991年ソ連崩壊と同時に独立したが、その後5年間、内戦が続いた。そしてようやく平和が訪れたようだ。しかし、今年の5月19日に首都のドシャンベの刑務所で暴動が発生し、イスラム過激派『イスラム国IS』の戦闘員24名と看守3人を含む32人が死亡したとAFP通信が伝えている。やはり完全に治安が安定するのはもう少し後かもしれない。

・今回訪れた中央アジアの国々はキルギス、カザフスタン、ウズベキスタンとタジキスタンである。これらの国の人口などは2017年の数字。
 キルギス   国土面積は約20万㎢(日本の半分) 人口612万人
 カザフスタン  国土面積は約272万㎢(日本の7.2倍) 人口1804万人
 ウズベキスタン 国土面積は約45万㎢(日本の1.2倍) 人口3212万人
 タジキスタン  国土面積は14万㎢(日本の40%) 人口848万人


19.08.29-09.01中国新疆・中央アジア旅日記 その2

 タジキスタンのイスカンダル湖は標高約3000mに位置し、周りの山は4000m級である。湖までの行程は悪路でつづら折り。しかし湖に到着すれば全てOK!

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8月29日(木)
 ホジェンドは農業や工業共に発展した豊かな街だ。歴史的にはアレキサンダー大王の建設した町の一つでもある。1991年ソ連崩壊後は共産党派とイスラム教派が争い内戦が勃発。1997年に国連の仲裁があり現状に至った。

 『木曜バザール』は中央アジアでも有数の規模である。名前が『木曜バザール』となっているが、元は木曜日に農民や遊牧民。市民達が集まり市が立ったのだろう。現在は毎日営業している。販売しているのは肉類、野菜、果物。雑貨など多種多様、豊富で安価。

バザールの正面玄関
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内部は巨大な体育館の様な市場
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 食用油の売り場では日本と同じようにペットボトルに入った向日葵油が売られていたが、レストランなどの業務用には容器持参の量り売りがあった。市場を出るとケバブと串焼きを販売している屋台があり、いい匂いがしている。日本の焼き鳥の大きさと比べると日本の焼き鳥はママゴトの様なサイズに感じる。やはりこちらは肉食の遊牧民だ。

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 ホジェンドのバザール広場の前にある モスクは立派な建物だ。残念ながら内部は改装中だが、完成すれば立派な観光資源になるだろう。

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 ソグド州立博物館はバザール広場の近くにある。タジキスタンの歴史がわかるような展示になっている。石器時代からアケメネス朝ペルシャの植民地。そして紀元前のアレキサンダー大王の侵略、紀元後はモンゴルの侵略、チムールの侵略、ロシア帝国やソ連による統治など、つらい歴史が良くわかる。

 城塞群の博物館に立ち寄る。ここはアレキサンダー大王が東端の都としたところである。城塞は、今は公園となっている。また、博物館も併設されている。二千数百年前の遺跡なのでただの土くれとしか見えないのは残念だ。

博物館の正門
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博物館の入口
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展示物はアケメネス朝ペルシャ時代の物も
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博物館前の劇場
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城塞、今は土くれ?
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城塞の説明
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城塞の模型

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城塞公園の側には中央アジアの大河、シル・ダリア川が流れている。
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8月30日(木)
 ベンジケントに向かう途中ムグ・デバ砦に立ち寄る。ムグ・テバとは砦のことでイスタラフシャンの町を見下ろす丘の上に、紀元前6世紀に初めて築かれたと伝えられている。実はイスタラフシャンという街は、モスクもさることながら街自体も古く、その歴史はなんと2500年以上 …!その2500周年を祝って建造されたのがムグ・テバだそうだ。砦からの町の眺めは素晴らしい。正直な話、砦内の施設は2500年のイベントが終わり、数年が経過している。折角の構造物も見る影もなく荒れはていた。中央アジアの『三大がっかり』の一つかもしれない。

砦の城壁
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城壁から見た街の姿
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 砦の近くのバザールに立ち寄る。バザールは、古来より多くのキャラバンがこの地で体を休めた。その際、武具や馬具を修理する必要があり、職人街ができたようだ。現在では職人街はバザール前に集められ、多くの店が並んでいる。

鎌や鍬の農具を造っている 
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馬蹄も馬、ロバ、山羊用と様々
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バザールの入り口には大統領のポスター
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各種ナイフが売られ中央アジア的
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バザールの中はケバブを焼く煙が充満している DSC_7727 (800x533)

羊の肉を量り売り
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 バザールからベンジケントに向かう途中は3000m近くの山を越す。ザラフシャン川に沿って進むと冠雪したザラフシャン山脈が望める。

ザラフシャン山脈 
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ザラフシャン川の源流は氷河のある山が石灰質なので灰色だ
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街道沿いでメロンやドライフルーツを売っている子供たち
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 ザラズム遺跡は荒涼とした荒れ地の中にあった。紀元前2500年頃の考古遺跡だ、小生の様な素人が見れば、ただの土くれとしか思えない。5か所の遺跡は屋根が掲げられているが、保存状態は必ずしもいいと言えない。この遺跡から王妃の遺体と副葬品が発見され脚光を浴びたようだ。王妃の遺骨の現物はドシャンベの博物館にあるので後日見学する予定。

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 遺跡の隣はひまわり畑、収穫後は向日葵油が生産される
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8月31日(金)
 世界遺産サラズム遺跡は1976年、地元の農家アシュラリ・タイロノフが考古遺跡の付近から突き出ている銅の短剣を見つけたことにより発見された。2010年7月、サラズムの原始都市は『紀元前4000年~3000年の中央アジアにおける、集落発展の証拠となる考古遺跡』として世界遺産のリスト入りを果たした。これはタジキスタン初の世界遺産となった。正直なところ博物館は貧弱な設備であった。また、屋外の遺跡も荒れるに任せているような状況。屋外の遺跡では薬草を収集している3人家族がいた。これでは昨日のベンジケントの遺跡と同じではないかと思う。

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城壁跡と思われる上で薬草を採集中の家族
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遺跡から市街を望む
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 ルダーキーはタジク人が誇る詩人である。サーマーン朝時代(9世紀)に活躍したイラン古典文学の父とも言われる、タジキスタンでは超有名な歴史的な人物。彼の名前を冠した通りの名前や建物も多い。

ルダーキ―の銅像
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ルダーキ―博物館
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 ベンジケントからタジキスタンの首都ドゥシャンベに向かう途中2時間ほど行った山奥に、イスカンダル・クール(クール=湖)と呼ばれるきれいな湖がある。イスカンダルはアレキサンダーのアラブ語の呼び方で、アレクサンダー大王が戦争のため東方へ向かう途中ここで休んだということから、イスカンダル・クールの名が付いている。アレキサンダーはこの地方(バクトリア)のオクシュアルテスの娘ロクサネを妻とした。
 イスカンダル・クールは高さ3000m以上の高原であり、4000mを超す高い山々に囲まれて、その景色はこの世離れしている。100種類以上の花が咲き誇り、いろいろな野生動物が生息している。途中、峻険な山並みに雪渓や氷河が見える。

 途中、食事をとった集落の路上ではドライフルーツを売っている、バケツに入った杏子は200円程度。カメラを向けると顔をそらす。

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湖に近づくにつれて雪渓や氷河が見える
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大渓谷となっている
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途中の道路から見たイスカンダル湖
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もう一つの湖、スネークレイク
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こんな荒涼とした山奥にも養蜂家がいた
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9月1日(日)
 今日は一日ドシャンベで博物館三昧。先ず古代民族博物館を訪れる。古代民族博物館には7~8世紀の仏教遺跡であるアジナ・テバ遺跡で発見された全長13m、総重量5.5tの釈迦の涅槃像が展示されている。2001年のタジキスタン独立10周年記念式典に合わせて公開された。

 古代民族博物館  
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世界遺産サラズム遺跡から発見された王妃遺骨
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アジナ・テバ遺跡で発見された涅槃像
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当日は新年度なのか、大統領の演説があり、博物館の職員はテレビにくぎ付け
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ゾロアスター教のアフラ・マズダの像、衣服が朽ちて体のみの像
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中央アジア、シルクロードの道標。ヒトこぶラクダとフタこぶラクダが混在
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ゾロアスター教の十字(水、空気、火、土)をあらわしている。
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ゾロアスター教の祭壇
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 次に訪れたのはドシャンべ・タジキスタン国立博物館だ。ここは石器時代から現在までを展示した博物館で2013年にオープンした4フロアーから構成されている。

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ザラズム遺跡の壁画(オリジナル)
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ゾロアスター教の十字(水、空気、火、土)をあらわしている。
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ゾロアスター教経典(良き考え、良き言葉、良き行い)
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 博物館の見学を終え時間があったので近くのバザールを見学する。ドライフルーツや蜂蜜、スイカ、メロン、向日葵油などが豊富に出回っている。価格は総じて安価。

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19.08.20-28中国新疆・中央アジア旅日記その1

 つい数年前までは新疆や中央アジアではロバ車が干し草を運んでいたが、今はトラクター。チョット残念な気がする。

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8月20日(火)
 成田発の大韓航空704便(13:55発)でソウルに向かう。ソウルで同じく大韓航空833便(19:10発)で中国新疆ウイグル自治区のウルムチへ。ソウルの乗り継ぎで2時間半ほど時間を費やす。今年の6月にここで5時間近くを費やしたので第2ターミナルについては熟知している。然し時間的にはちょっと中途半端だ。
 昨今の日韓関係からソウル行きはガラガラと思っていたが、意外にも満席であった。主な乗客は中国人。多分、日本観光後にソウルから山東省や中国東北の都市へ帰るのだろう。

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 ソウルから大韓航空機で5時間ほどかけてウルムチへ。日にちが変わる深夜にウルムチに到着。上空から眺めているとイルミネーションがすごく華やか。まるでラスベガスかと思うほどであった。ウルムチで中国への入国手続きをするには、指紋登録認証がある。見ていると係官がパスポートの生年月日をチェックし、かなりの高齢者は不要だ。指紋が摩耗し、読み取りにくいのか高齢になるとテロリストのリスクが下がるからか不明。



8月21日(水)
 ウルムチから南方航空6805便(11:15発)で中国最西端の町カシュガルへ。北京は東経120度、カシュガルは東経75度。丁度45度の差があり、時差を計算すれば3時間。しかし中国政府は北京時間しか認めず全中国を北京時間で統一している。
 午後はカシュガルの町を観光。カシュガルまで来れば中国というより、中央アジアという感じだ。しかし、20年前から都合6回目のウイグル自治区だが、ますます中国共産党の管理が厳しく息苦しさを感じる。3日ほど前から寒波?が新疆にやってきて北部のイリでは雪が降ったそうだ。おかげで涼しくて助かる。

ウルムチ空港
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カシュガル空港
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 エティガールモスクは新疆最大のモスクというだけではなく、中国最大のモスクでもある。このモスクは1442年頃に建てられ始め、その後何度か改修されて現在の様相になる。このモスクは南北の長さが140メートル、東西の長さは120メートルで、正殿、礼拝堂、教経堂、アーチ及び他の建物から構成され、濃厚な民族的雰囲気と宗教的色彩を放っているイスラム教の古い建築物だ。2001年6月25日、エイティガールモスクは明朝の古い建物として、全国重点文物保護単位に登録された。

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モスクの道は監視カメラが一杯 
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レストランに入るにも荷物チェクが必要
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 職人街はカシュガルの定番観光地。手作りの日用雑貨品をこの『職人街』で産直販売している。覗いていると見習工が一生懸命に親方の指示通り働いている。日本では見かけなくなった光景。ここも以前と変わって工房が激減、代わりに観光客向け土産店が目につく。

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職人街で治安維持にあたる自警団はスマホゲームに熱中していた
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 職人街で見つけた男の赤ちゃん用の夜間におしっこをベッドの下に流す道具? 日本の夜間頻尿の老人にも使えそうな気がした。
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 職人街からアパク・ホージャ(香妃)の墓に向かう。彼女は清朝の乾隆帝の妃の一人であった。とても芳しい香りで魅了したらしい。死後、北京からカシュガルに遺体が運ばれた。香妃の墓所はさながらインドのタージマハールを連想させる。以前はこんな感じではなかったと記憶している。モスクの隣にあって、一般の墓地にも隣接していた。

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8月22日(木)
 今日は終日、天山の真珠と言われるカラクリ湖を観光。ここは標高3645mなので富士山の9合目ぐらいか、山一つを越えればキルギスやタジキスタンだ。カシュガルからカラクリ湖に至る途中にゴングール峰(7719m)が見える。そしてカラクリ湖の先にムスターグ峰(7546m)を望む。ムスターグ峰の向こうはパキスタンとの国境、クンジュラーブ峠(4733m)がある。ここは2年前にパキスタンから入国したが、麻薬の検査やデジカメの画像全てチェックをされたり、また、なぜかポリオのワクチンを飲まされるなど、嫌な思い出がある。

街道沿いの食堂には食材がつるされていた
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メロンはうまくてジューシー
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ゴングール峰が見え始める 
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ラクダの群れに遭遇 
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途中のダム湖に映った砂山
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昼食を取った店は、気が付けば部屋の隅に監視カメラが付いていた。
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草原にはヤク(毛牛)の群れが
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天候が急変しムスターグ峰は見えにくくなった
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8月23日(金)
 今日は、中国とキルギスの国境、トラガルト峠(3752m)を越える。玄奘が天山山脈を越えたのはペダル峠と言われている。この峠は、今は国境としては機能していない。今はペダル峠のやや西にあるトルガルト峠が国境だ。トルガルト峠に至るまでは何度も検問所を通過し、セキュリティチェックを受ける。まさに検問街道の趣だが、国境を越えキルギスに入国すると当たり前だが、検問は全くない。そして天山山脈のナリン(2370m)で宿泊。

 キルギスの独立当時(1991)は民主的でリベラルという立場をとっていた。他国に先駆けて経済と土地所有権の全面的な私有化を図った。そして『中央アジアのスイス』になることを目指した。しかし、政治家の汚職事件や、大統領の強権化で『中央アジアのスイス』のイメージからは程遠い。

荒涼とした荒れ野を峠に向かう。
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キルギス側からのトラック
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検問所で検査を待つトラック、道路雪化粧。
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トラックごとX線検査を受けるそうだ
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中国国境の標識
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キルギス側の入国審査はいたってシンプル 
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税関倉庫
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 トルガルト峠からキルギス側に入ると中国とは別世界だ。海抜3530mのチャルレール・クル湖が天山山脈を背にして見える。スイスのような光景。

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キルギスは遊牧の国、馬、牛、羊は草原でのびのび草を食んでいる。
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 シルクロードの遺跡タシュ・ラバットはかつてシルクロード交易で使われていた宿泊場所だ。シルクロードの交易隊が使っていたタシュ・ラバットのような宿泊場所をキャラバンサライという。タシュ・ラバットに残る石造りの遺構の中は寝室やキッチンなどいくつかの部屋に分かれており、シルクロード交易の雰囲気を直接感じられる

シルクロードのキャラバンサライ遺跡のタシュ・ラバット
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キャラバンサライの屋上の様子、各穴から最高を取る
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8月24日(土)
 イシククル湖の南岸を通り、カラコルへ。かつて玄奘がたどったイシク・クル湖の面積は琵琶湖の9倍だ。この湖に流れ込む川は何本もあるが、この湖から流れ出る川はない。10万年以上存在している湖なので、底には水没した遺跡がいくつも残っている。湖の色は吸い込まれるように青い。『キルギスの海』と言われるのももっともだ。この湖は熱湖とも呼ばれる。極寒の冬でも凍らない。また、この湖の標高は1609mである。

 ナリンからカラコルへの途中にナリン川を渡る、小さい川だが結構急流だ。この川は途中でシル・ダリア川に合流しアラル海にそそぐ。
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 さらに街道を進むと家畜の土曜市が開かれていた。価格は、羊は100ドル程度、牛は500~2000ドル程度、馬は800~2000ドル程度らしい。
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途中で、スカスカという奇岩の渓谷に立ち寄る。赤い岩肌の奇妙な凸凹の山だ。
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 イシク・クル湖は天山山脈の山々が見えるはずだが、天候の加減で、なかなかはっきりとは見えなかった。
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8月25日(日)
 カラコルから湖岸沿いの街道を西に15kmほど山の方に向かう。海抜2200mの所にジェテイ・オグズという温泉地があり、巨大な赤土の岩肌をした奇妙な凸凹の山がある。ジェテイ・オグズとは「7頭の牛」という意味だそうだ。

ジュディ・オグス
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 山の上に登ると如何にも中央アジアの少年と馬が休憩していた。また、冠雪した天山山脈の山には氷河を見ることができた。
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日本のJICAの支援によるキルギス物産のショップ。中々、おしゃれな店だった。
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 カラコルには小さな博物館がある。中に入ると11世紀に作成されたというユーラシアの地図があった。東を上にして丁度真上に日本が描かれていた。日本では平安時代。

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 正三位一体協会は木造の教会である。日曜日ということもあり敬虔な信者が集まっていた。自転車に乗った悪ガキ少年も教会の敷地から出るときは、神妙に十字をきっていた。笑ってしまう光景だった。

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 ブルジョバリスキーの墓。19世紀末にプルジェワルスキーはロシアの探検家でモンゴルから青海へラクダと馬だけで1万2千キロ踏破し、その記録が世界各国に翻訳され、名声をあげた。カラコルまで来て玄奘が超えたベダル峠を越えようと思っていた。しかし、カラコルの街で休憩している最中に、山の清水を生で飲んでしまった。身長198cm、体重150kgの巨体の彼も腸チフスにかかり、40度を超える高熱に苦しみ、生涯を終えたそうだ。プルジェワルスキーの遺体は、「イシク・クル湖の見える所で、探検服のままで、解剖をせずに埋めてほしい」という生前の希望通りに埋められた。

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 ドウガンモスクは木造で作られた中国風のモスク。凡そ150年ほど前に中国で回族が宗教的に迫害されこの地に逃れてきた。彼らの拠り所としてモスクを建てた。通常のドーム屋根はなくミナレットも低い。まるでお寺のような感じだ。

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夕食はキルギスの民俗音楽を鑑賞
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8月26日(月)
 キルギスから国境を越えてカザフスタンのアルマトイへ向かう。カザフスタンの特徴は中央アジア諸国の中でロシア系住民のウエイトが高く、地政学的にもロシア連邦と地理的にも連続している。ナザルバエフの最大関心は政権のカザフ化を徹底して進め、モスクワとの関係を良好に保つことである。ロシア国内のロシア系住民に北部の分離をそそのかさないようにすることである。首都をアルマトイからロシア国境近くのアスタナに移したことでも明白だ。

 約80km先のカザフスタン国境に向かう道中は天山山脈がよくも見える。真夏なのに冠雪している。
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家畜を放牧しているが、羊などは車窓から眺めると川のようだ。
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キルギスからカザフスタンに入るが、国境のイミグレーションは非常にシンプル
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 チャリンキャニオンはアマルトイから東へ200km、国立公園にあるユニークな峡谷。ミニグランドキャニオンとも呼ばれている。
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 タルゴ列車にてウズベキスタンのタシュケントへ。カザフスタンではスペイン製のタルゴが高速列車として走っている。『一帯一路』の実現を図り、中国との直通を便利にするために標準軌から広軌の軌間可変車軸が検討されている。

カザフスタンのアルマトイ駅 
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8月27日(火)
 朝の9時過ぎにイミグレ手続きを行う係官が列車に乗り込んでパスポートチェクや出国スタンプを押してくれる。その後30分程度して、今度はウズベキスタンの入国手続きだ。麻薬の持ち込みや外貨の持ち込みはうるさいほどチェクされる。そして午前11時54分にタシュケントに到着。

列車の通路
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コンパートメントは2人用で2段ベッド洗面設備が付いている
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タシュケント見学。タシュケントはウズベキスタンの首都である。ウズベキスタンの人口3千2百万人の内、280万人がタシュケントに暮らしている。

タシュケント駅
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8月28日(水)
 ウズベキスタンから国境を越えタジキスタンのホジェンドへ。この3日間は毎日国境を越えたことになる。タジキスタンの人口は850万人程度だ。ホジェンドはキルギスとウズベキスタンとの間に挟まった場所に位置している。

 国境に向かう途中にアングレインの日本人墓地を訪ねる。ウズベキスタンには8か所の日本人墓地があるそうだ。シベリアから中央アジアに移送された人々はさぞ苦渋をなめさせられたことと思う。墓守の人から聞いた話だが、我々が今年最初の日本人墓参だそうだ。墓所には『不戦の誓い』や個人名の墓標がある。漢字が不明なものはロシアのキリル文字で表示。

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 ウズベキスタンとタジキスタンの国境はいたってシンプル。出国と入国手続きには1時間半ほどで終わった。ただ、タジキスタンの対応の方が非常にフレンドリーな気がした。

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国境からしばらくするとシル・ダリア川のそばを通る
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 ホテルまでの途中、タジキスタン通貨のソモニに両替のため銀行に立ち寄る。待っているとタジク族のオバサンに記念写真を頼まれる。非常に友好的な民族だ。10US $=972ソモニ

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