19.06.01-14シベリア鉄道旅日記・雑記帳

 シベリア鉄道を旅行するにあたり、事前に調べたことや、旅行中に感じたことを箇条書にした。

・シベリア鉄道はただ大きな男が寝ているだけと、下川裕治の「ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行」で表わしている。全くその通りだ。また、古いが東京オリンピックの砲丸投げのタマラブレスの様なオバサンが横たわっていた。

 シベリア鉄道3等寝台の風景。プライバシーはなくトドが寝そべっているような感じ。
DSC_6815 (800x533)

DSC_6816 (800x533)

・シベリア鉄道でウラジオストックからモスクワまで9259kmで、6泊7日(ただし東行きは時差の関係で7泊8日)の旅である。日本の長距離列車は東海道・山陽新幹線「のぞみ」の東京~博多間の1174km。すでに廃止となった札幌~大阪間「トワイライトエクスプレス」1508kmが最長であった。また、日本最北の駅、稚内から最南端の駅、枕崎までJRを乗り継いだとしても、その営業キロ数は2972kmである。シベリア鉄道の三分の一にも満たない。ロシアの領土は大づかみに言うと東西1万1千kmだが、その90%の距離を走る。そのためモスクワと極東との時差は7時間もある。

世界の長距離列車をネットで調べると
1、ウラジオストック~キエフ 10260km
2、北朝鮮・ピョンヤン~モスクワ 10267km
3、ウラジオストック~モスクワ 9259km
4、北京~モスクワ 8984km
しかし、これ等の列車は外国人旅行者が乗れるとは限らない。北朝鮮の列車がそうである。

・鉄道のレール幅は大まかに分けると、狭軌、標準軌、広軌とわかれる。日本のJR在来線は狭軌で1067mm、阪急、京急、近鉄や新幹線は標準軌で1435mm、ロシアのシベリア鉄道は広軌で1524mmである。公式な卓球台が2740mm×1525mmなので丁度選手が立つ側とほぼ同じだ。地方の駅では跨線橋など通らず線路を越えてゆくので、その広さを実感する。

・シベリア鉄道の客車には通常1両に車掌が2人乗務している。12時間勤務で交代制と思う。朝、ハワイのムウムウの様な衣装で車掌室の前にいたのを目撃した。乗務員用のシャワー設備があり、内緒で使わせてくれるようだ。1回150ルーブル。使用した人に聞くとバケツやモップなどがあり、とても乗客用とは思えないとのこと。多分、乗務員の小遣い稼ぎのためにやっているのか。

・ドイツのメルケルに似た車掌は厳しく、カーテンなどを開けっぱなしにしていると『二ェット‼』(ダメ!!)と命令調で注意する。何か小学生の先生に叱られているようだった。

DSC_6729 (800x533)

DSC_7119 (533x800)

DSC_6832 (533x800)

・タタールのくびきといわれるモンゴル人の暴力支配の時代が259年の長きにわたって続いた。このモンゴル人の支配がロシア民族の性格にまで影響した。1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、タタール人のカザン・ハーンを捕虜とし勝利した。そして記念にモスクワのワシリー寺院が建設された。

・シベリアは当初、欧州から見た印象は暗く、寒く、しかも果てしなかっただろう。この大地はロシアにとって長い間、毛皮を採取するためにのみ存在し、特に多く生息している黒貂はパリの市場に出せば、当時の産業水準の低さから見れば震えるほどの価格で売れた。

シベリアの風景
DSC_6852 (800x533)

DSC_6919 (800x533)

DSC_6933 (800x533)

・巫女とそれに伴う宗教現象をシャーマニズムという。発生地はシベリアという説が一般的。シャーマニズムの系譜は北の方の寒い土地から来た。イヌイットからツングース、モンゴル、朝鮮、さらに南下し日本にやってきた。3世紀の卑弥呼もシャーマンであった。
      
ウラン・ウデにあるシャーマンセンター
DSC_6891 (800x533)

・ロシア帝国と表裏をなすキリスト教(ロシア正教)の方が当時の中国と比べ、民族の差異を越えてゆく普遍性がある。帝政ロシアの方が、シベリアのブリヤ―ト人に対して親切で、辛亥革命の100年前には、シベリアではブリヤート人の子供のための学校を建てられている。

・第二次世界大戦の終結を見越し『ヤルタ協定』がある。第1項は外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持される。つまりソ連の傘下であり続ける。言い換えれば、中国の影響力は及ばない。第3項では千島列島はソ連に引き渡されること。となっている。千島列島はどこからどこまでとは明示されていない。いずれにしても広大なモンゴル高原と小さな千島列島が等価値として記されている。もし日本に千島列島が返還されればヤルタ協定が崩壊する可能性がある。

・ロシアは、よく終点の町の名前が起点の駅の名前が用いられる。タタールスタンの首都カザン、シベリアの入り口ヤロスラブリ駅がそうだ。これ等の駅はモスクワ始発駅だ。

・シベリア鉄道の書籍はあまりなく、図書館から借りて読んだ本(シベリア横断鉄道・昭和57年NHK出版)によると。シベリア鉄道のロシア号は9300㎞の行程を行くうち、81回停車、そのうち20回機関車交換のため停車する。今はこのようなことはないと思う。

・シベリアはロシアの過去の暗い歴史を抱えている。それは切っても切り離せない「流刑の歴史」。この流刑の制度がはっきりと確立したのは17世紀のころだ。当時の帝政ロシアの刑罰は想像を絶するほど残酷で野蛮。チョットした罪を犯しても斬首や絞首刑だ。それよりさらに軽い罪を犯した者も灼熱の鉄の焼き印や手足の切断、舌を抜かれたりしたそうだ。

・ソビエトの時代も流刑は続いた。ソビエト政府から「国外追放」されたノーベル文学賞作家のアレクサンドル・ソルジェニツィンは「収容所群島」や「イワン・デニソビッチの一日」でも明らかにしている。また、「ソビエトの水爆の父」とも言われた反体制指導者アンドレイ・サハロフ博士は「国内追放」の処分で、シベリアの一歩手前のゴーリキー市に強制移住させられた。

・バイカル湖は言うまでもなく、「ナイアガラ瀑布」、「グランド・キャニオン」と並ぶ世界三大景観の一つである。シベリアの人達は「バイカルを見ない者は、ロシアを見たと言えない」と自慢する。バイカル湖はいくつもの世界一がある。先ず、「世界一深い湖」、「世界で最も水量の多い湖」、「世界一の透明度の湖」などである。

バイカル湖
DSC_7005 (800x533)

DSC_7023 (800x533)

・イルクーツクの町の歴史はイワン・バハボアがコサックの一団をひきいて、ここを冬の屯営地としたことから始まる。そしてここから東シベリアのロシア化を進めた。
                
・ウラン・ウデは、モンゴル人民共和国の国境までわずか200㎞。ここから分岐し、鉄道は南下してモンゴルの首都ウラン・バートルに至る。ブリヤート自治共和国の首都ウラン・ウデとはブリヤート語で「赤い川」の意味。その赤い川とウダ川がモンゴルに発し、バイカル湖にそそぐセレンガ川の合流点にできた町だ。17世紀にコサックの冬営地としてできたこの町は、毛皮や、モンゴルからのお茶の集散地でもあった。日本軍がシベリア出兵した時、駐留したこともあった。

コサックの建物
DSC_6888 (800x533)

・ソ連時代のシベリア鉄道を利用する外国人はモスクワから極東への旅はハバロフスクで乗り換えナホトカに到着した。ウラジオストックは軍港のため外国人は入れなかった。

・ロシアのシベリアに関する諺、「シベリアでは、400kmは距離でない、マイナス40℃は寒さでない、プラス40℃は暑さでない、ウオッカ4本は酒でない」というのがあるらしい。

・ロシアの小話で節酒令施行後は離婚が増えた。理由は、何しろウン十年ぶりにシラフで女房の顔を見てショックを受けた手合いが多いため。

・ロシア男性の平均寿命が66歳と低いため、5分の2が一度も年金をもらうことなく亡くなる計算だ。日本の平均寿命は男性80.98歳、女性87.14歳(2016年)と過去最高を更新中、正確な比較は難しいが、ロシアの経済改革には平均寿命を延ばすことは必須の政策だと思う。

・昔、懐メロで近江敏郎や林伊佐緒が歌う「ハバロフスク ラララ ハバロフスク ラララ ハーバロフスク~♫」という歌「ハバロフスク小唄」があった。多分、「異国の丘」と同じく、シベリア抑留者が捕虜収容所で歌っていたのだろう。シベリアの各地には帰国できずに亡くなった抑留者の墓地がある。戦死でなく強制労働で死んだ人は、さぞ無念であっただろう。

・ヨーロッパの先進国は資源を求めてアジアやアフリカを目指したが、ロシアは帝国主義進出に出遅れたためヨーロッパの東端から極東まで押し寄せた。おかげで今では日本から2時間足らずで飛行機に乗ればヨーロッパの香りがするロシアの田舎町に行くことができる。

・ウラジオストックは、人口は60万人程度の港町であり、また、軍事都市でもある。ソ連崩壊までは外国人は勿論一般人にも解放されていなかったそうだ。そのためか、今は「C56潜水艦博物館」や「要塞博物館」など軍事的な博物館がある。勿論、今も軍港としても重要な港町だろう。ウラジオストックの名称は「東方を支配する町」を意味する。その通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市である。かつては非常に規模の大きな日本人街があり、1920年頃(大正9- 10年頃)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本とロシアの交流は非常に活発に行われていた。町には浦潮本願寺などがあり、日本人による商店や企業が多数進出。現在のウラジオストク市内では、日本から輸入した日本車が9割程度だ。それら日本車は右ハンドルの中古車が数多く走っており、その比率はおよそ8割以上。

・ロシア人の生活は市場やスーパーを覗いてみると日本と比べ物価は安そうだ。1ルーブル≒2円の為替レートで計算すると、バス代は19ルーブル(約40円)、野菜や果物は、夏場は地元で取れた物が販売されるが、冬場は中国からの輸入に頼っている。日用雑貨はほぼ中国製。たまたま見たロシア製の食用油は国際価格であり、1ℓの向日葵油は87ルーブル(約180円)であった。ロシア人は、夏場はダーチャ(別荘)に出かけて週末を過ごすといわれているが、革命以後は長らく飢餓状態であり、工場労働者は郊外の土地を分配され食料を生産するために小屋を作って畑作業をしたのが始まり。日本の別荘と異なり優雅なものではなかったそうだ。今も多くの人がそういう暮らしをしている。ただし、若い人は週末に自分の車でダーチャに出かけバーヴェキュウなどを楽しむという。街でロシア人の親娘を見ていると、シャラポアの様なスリムな娘がとても似つかない体格の母親と歩いている。ビフォアー・アフターは俄に親娘と信じがたい気がする。小生の腰周りの3倍もありそうなオバサンと日本人の老婆と見比べると日本人は栄養失調の難民の様な気がする。男性は、あまりファッションに興味がないのかダサい感じ。若い女性は精一杯お洒落を楽しんでいるようで中国と同じだ。あの広大な国土に人口1億4千万人の人口は如何にも少ないと感じる。中国と足して2で割ればと勝手なことを考えた。

・極東での戦争で、その兵力の移動に大きな力となったのは、シベリア鉄道だ。日本や欧米の軍事専門家たちは、シベリア鉄道の輸送能力を単線とその長さで無視していたが、ロシアは大胆にシベリア鉄道を西行のみを走らせることにした。つまり、満州方面に向かった車両はその場で遺棄した。そして次々に新造した車両に物資と兵員を載せ送り込んだ。

・日露戦争の講和後、捕虜の身分から解放されたバルチック艦隊の司令長官ロジェストブェンスキー提督はウラジオストックからシベリア鉄道でハルピンに向かい、その後中国の狼子窩を経由し、サンクトペテルブルグに達した。要した日にちは20日。

・日露戦争後、ロシアの軍法会議でロジェストヴィンスキーは無罪であったが、官位は剥奪された。旅順要塞の司令官ステッセルは死刑の判決を受けたが、その後減刑され、シベリア追放となった。彼は老いの身で紅茶の行商人になり、古びたトランクを手にシベリアの町をさまよい歩いたそうだ。

・ロシア人の若者を見ていると入れ墨をしている若者が多い。小生の様な老人には理解しがたい。日本の若者もこのような傾向があるが、日本は場所によっては入場禁止の様な所(プールや温泉等)もある。

駅で見かけた女の子の入れ墨と現地ガイドのミカエルの入れ墨(イルクーツクの市章)
DSC_7212 (533x800)

DSC_7214 (533x800)

・シベリア鉄道で一般的なロシア人の食事は、専らカップ麺を食するようだ。試しにロシア製のカップ焼きそば?風のパスタを食べてみたが、まずくはなかった。列車内には『サモアール』という湯沸かし器があり、100℃前後のお湯が24時間使用できるのでカップ麺やコーヒー、紅茶などの飲食は簡単にできる。

車掌室前のサモアールと日本から持参のインスタント食品
DSC_7237 (800x533)

DSC_7044 (800x533)





16.06.07-14シベリア鉄道旅日記・その2

6月7日(金) 時差調整-1時間(日本とは-2時間)
 8時発の列車で16時20分イルクーツクに到着。ウラジオストックからは4104km。
イルクーツクはシベリアの文化・公共の中心地だ。モスクワ文化の影響か『シベリアのパリ』と呼ばれる。ウラン・ウデを出発し、およそ2時間後に、車窓からバイカル湖が見える。200km以上、3時間近く湖畔に沿って走る。

3時間近く車窓から見たバイカル湖
DSC_6939 (800x533)

DSC_6914 (800x533)

DSC_6918 (800x533)

DSC_6933 (800x533)

イルクーツク駅
DSC_6948 (2) (800x533)

DSC_6949 (2) (800x533)

DSC_6950 (800x533)


  イルクーツクと日本の関わりは、18世紀(天明2年=1782)伊勢から江戸に向かう途中の商船「神昌丸」が暴風により遭難。船頭の大黒屋光太夫ら数名がアリューシャンに漂着。光太夫らはその後、ロシア人に助けられカムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経てイルクーツクにやってくる。光太夫ら3人は露都ペテルスブルクはじめ各地を見聞し、寛政4年(1792)日本に帰るが。新蔵と庄藏の二人はそのままイルクーツクに残り、ロシア正教に帰依した。二人はロシアに最初に帰化した日本人である。また、ロシア革命後のシベリア出兵時には日本軍進駐の最前線にもなった。第二次大戦後は日本人抑留者の収容所が設けられ、数多くの抑留者が強制労働に従事させられた。

 バガヤベリンスキー聖堂はイルクーツクで最も古い建造物の一つ、その建造年代は1692年。一見目立たない教会だが、中はロシアらしい独特の壁画が存在する。
DSC_6953 (2) (533x800)

 スパスカヤ教会は18世紀にできた、ロシア正教の教会。白壁と緑色のドームのコントラストが美しい。正面には戦没者を祀った永遠の火がとされている。
DSC_6957 (533x800)

DSC_6959 (533x800)

 アンガラ川沿いには美しい町並みがある。また、イルクーツクは日本と関りが深く金沢市と姉妹都市でもある。
DSC_6964 (800x533)

DSC_6963 (800x533)

DSC_6952 (800x533)

『金沢通り』という通りがある 
DSC_6971 (800x533)

兼六園の『ことじ灯篭』のレプリカ
DSC_6970 (800x533)

大黒屋光太夫の顕彰碑
DSC_6973 (800x533)

DSC_6975 (800x533)

 ロシアや中国では軍事的なものが多く展示されている。国威発揚のためなのか、街中でごく普通の建物のそばに戦車やミサイルがあった。日本では到底考えられない光景だ。
DSC_6984 (800x533)

DSC_6987 (800x533)

DSC_6989 (533x800)



6月8日(土) 時差調整-1時間(日本とは-3時間)
 午前中はバイカル湖観光。バイカル湖は先住民の言葉で『豊かな海』意味するそうだ。バイカル湖は深海が陸封され淡水化した。湖となってから2500万年たつ最古の湖。ロシアの世界遺産であり、水量は地球上の淡水の約20%を占める。面積は3万1500㎢、琵琶湖の50倍程度。最深部は1680m、透明度は約40m、淡水湖では世界1、2を争う。

 バイカル湖博物館は、1階は水族館、2階は地学、生物学、生態学の展示が充実している。ロシア語が読めた方が何倍も楽しめると思う。ただ展示の仕方や設備は古く、水族館は日本と比べるとガラス(樹脂)の部分が小さく貧弱に感じる。

魚のように見えるが、バイカル湖に生息するアザラシ(ネルパ)
DSC_6999 (800x533)

 バイカル湖博物館の近くのチェルスカイ山はロシア連邦イルクーツク州にある山。ハマル=ダバン山系のコマル山脈に属す。山名はシベリア探検家ヤン・チェルスキーに因む。友人とバイカル湖をバックに個別に記念撮影。
DSC_7025 (800x533)

DSC_7026 (800x533)

山頂からバイカル湖を望む
DSC_7023 (800x533)

DSC_7024 (800x533)

山頂付近には残雪が
DSC_7030 (800x533)

バイカル湖の観光はこのチッポケな船で行く。湖上は風もあり非常に寒かった。シベリアを体感。近くの湖畔に上陸しシベリア鉄道の支線を見学。
DSC_7000 (800x533)

シベリア鉄道の視線にある蒸気機関車と客車
DSC_7013 (800x533)

DSC_7014 (800x533)

民家なのか小屋なのかわからないが・・・
DSC_7009 (800x533)

 湖畔近くにあったシベリア抑留者の日本人墓地。小生の友人の義父もシベリア抑留経験者なので他人事とは思えない。
DSC_7036 (800x533)

DSC_7034 (533x800)

DSC_7032 (800x533)

 夕刻の16時過ぎにイルクーツクから1850km先のノボシビリスクに向かう。(ウラジオストックから5194km)。夕食は食堂車で済ます。駅の待合室は意外と立派だ。

駅待合室
DSC_7041 (800x533)

DSC_7042 (800x533)

食堂車
DSC_6812 (800x533)

夜の10時頃に夕日が沈む
DSC_6820 (800x533)


6月9日(日)
 シベリア鉄道での食事は初乗りの場合はランチボックスの様なものを提供される。しかし、原則は各自が自分の好みで手当てする。庶民は経済原則に従い食堂車や車内販売を敬遠し、駅の構外の露店やキオスク,コンビニで調達することとなる。

乗客の食事用に販売する露店のオバサンやおじさん
DSC_6804 (800x533)

DSC_6807 (800x533)

日本から持参のインスタント食品。結構役に立った。
DSC_7044 (800x533)

途中、クラスノヤルスクに停車したので、近くのキオスクで食料を買い込む。
DSC_7169 (800x533)

DSC_7168 (800x533)

 クラスノヤルスクでエニセイ川にかかる鉄橋を渡る。
DSC_7047 (800x533)

DSC_7061 (800x533)


 ノボシビリスクには夜の19時39分着。ノボシビリスクはロシアのほぼ中心部に位置する。1893年にオビ川にかける鉄橋工事のために、この町は造られた。そして1925年に『新しいシベリアの町』を意味するノボシビリスクと名付けられた。
 オビ川に造られた人造の貯水湖のそばには茨城県の筑波研究都市のモデルとなった科学研究都市アカデミーガラドクが建設され、シベリアの科学・文化の中心となっている。ここは札幌市と姉妹都市でもある。

ノボシビリスクの駅舎
DSC_7060 (800x533)

DSC_7062 (800x533)


6月10日(月) 時差調整-1時間(日本とは-4時間)
 ノボシビリスクを1日観光する。

駅前に建つレーニン像
DSC_7070 (2) (800x533)

駅前で見かけた日本の中古車
DSC_7064 (800x533)

西シベリア鉄道歴史博物館は、シベリア鉄道建設の歴史などを詳しく紹介した博物館
DSC_7076 (800x533)

DSC_7078 (800x533)

 ニコライ礼拝堂は街の中心地に建っている。ロマノフ家300年記念に建てられた。ノボシビリスク市制100年記念に際し、1993年に再建された。

ニコライ礼拝堂 
DSC_7080 (800x533)

アレキサンドルネフスキー寺院
DSC_7083 (3) (800x533)

DSC_7088 (533x800)

DSC_7085 (533x800)

銅像はロマノフ王朝最後の皇帝ニコライとその息子
DSC_7089 (533x800)

 20時20分にノボシビリスク駅から3303km先のモスクワを目指す。
 
ノボシビリスク駅
DSC_7068 (800x533)

DSC_7103 (800x533)

DSC_7100 (800x533)

DSC_7098 (800x533)

ノボシビリスクを過ぎるとオビ川の鉄橋を通過する。さすがに大きな川だ。
DSC_7093 (800x533)

DSC_7096 (800x533)


6月11日(火) 時差調整-1時間(日本とは-5時間)
 ノボシビリスクからの途中はパラディンスカヤ平原が600kmに渡り広がっている。風景は相も変わらずシベリアだ。シベリア鉄道の車窓風景は何時間も変化がないが、一方日本の車窓風景はまるで箱庭を見ている感じだ。やはり、ロシアは巨大な国土を持つ国と実感する。

石油基地が近くにあるのかローリー貨車を多く見かける
DSC_7121 (2) (800x533)

 途中駅のエカテリンブルクで一時停車。駅舎の破風の表示は、左からヨーロッパ・エカテリンブルグ・アジアとなっている。ユーラシア大陸の中心という意味か。
DSC_7130 (800x533)

DSC_7130 (2) (800x534)

DSC_7119 (533x800)

DSC_7118 (800x533)

 シベリア鉄道の線路わきにはキロポストという標識がある。それはモスクワからの距離が表示されている。1km単位で表示があり、更に100mごとに1~10の数字が表示されている。このキロポストは列車の窓から眺めると一瞬のうちに遠ざかってしまう。動体視力が必要だ。モスクワから1777KM地点にこの『オベリスク』がある。ウラル地方の中心地エカテリンブルクを越えると『ヨーロッパ・アジア・オベリスク』が見えて来る。塔の西側表面は『ヨーロッパ』、東側表面は『アジア』と表記されている。

 この『オベリスク』の写真を撮るため事前に食堂車に陣取りシャッターチャンスをうかがう。キロポストを確認しながら何度も練習。寸前に東行きの貨物列車が通過し視界を遮られたのであわやこれまでかと思ったが無事に通過してくれた。

連写のおかげで何とか車窓越しに撮影できた。
DSC_7154 (2) (800x533)

かすかに東側の表示がアジアと読める
DSC_7148 (3) (800x533)

日没は夜の10時頃、日の出は朝の4時前で白夜に近い感じだ。
DSC_7113 (800x533)

DSC_7179 (800x533)



6月12日(水)
 ウラル山脈を越えると車窓もアジアからヨーロッパになったことを感じる。それは丸太小屋のような住宅からレンガ造りの住宅が見え始めたことだ。

DSC_7196 (800x533)

DSC_7219 (800x533)

シベリア鉄等の踏切をよく見ると侵入できないよう鉄板のバリアーが立ち上がっている。
DSC_7197 (800x533)
 
 ペルミの駅で一時停車。駅前の広場はトロリーバス、路面電車、バスなどが発着している。露店ではロシアの飲み物クワスを売っている。八百屋と思しき店で李を購入。

ペルミ駅
DSC_7164 (2) (800x533)

跨線橋を渡らずショートカット
DSC_7231 (800x533)

トロリーバス 
DSC_7170 (800x533)

路面電車は林の中に消えてゆく
DSC_7172 (800x533)

食料を調達
DSC_7167 (800x533)

ロシアの伝統的な飲み物『クワーズ』
DSC_7165 (800x533)

ペルミを過ぎてボルガ川を通過する
DSC_7198 (800x533)

DSC_7200 (800x533)

段々街らしくなってきた
DSC_7203 (800x533)

キーロフを通過して終点モスクワに15時58分に到着。「あ~っ、ついに到着」といった感じだ。
DSC_7240 (2) (800x533)

DSC_7238 (800x533)

モスクワゼロポイント
DSC_7241 (533x800)

DSC_7242 (2) (800x533)

DSC_7246 (2) (800x533)

地下鉄でホテルに向かう。久し振りにホテルで爆睡。
DSC_7247 (800x533)

DSC_7250 (800x533)

   

6月13日(木) 時差調整-1時間(日本とは-6時間)
 18時55分発のフライトまで、モスクワの市内観光。

 ホテルは元モスクワオリンピック選手村、ホテルからの眺め
DSC_7259 (800x533)

DSC_7261 (800x533)

ホテル近くの土産物店
DSC_7263 (800x533)

DSC_7264 (800x533)

ホテル近くの地鉄駅
DSC_7265 (800x533)

地下鉄を利用しクレムリンへ
DSC_7266 (800x533)

DSC_7269 (533x800)

DSC_7270 (533x800)

DSC_7271 (800x533)

DSC_7282 (2) (800x533)

 世界の三大広場といわれる広場は、中国の『天安門広場』、モスクワの『赤の広場』、イラン・イスファハンの『イマーム広場』がある。これらの広場は全て世界遺産である。赤の広場は世界二位の大きさだ。
DSC_7285 (800x533)

DSC_7287 (800x533)

DSC_7298 (2) (800x533)

DSC_7290 (800x533)

 ワシリー寺院は、1551年から1560年にかけて、イヴァン4世(雷帝)が、タタール人のカザン・ハーンを捕虜とし勝利したことを記念して建立した。ロシアの聖堂でもっとも美しい建物のひとつと言われる。1990年にユネスコの世界遺産に登録された。
DSC_7288 (2) (800x533)

DSC_7292 (3) (533x800)

 グム百貨店は赤の広場を挟んでクレムリンの城壁の反対側にある長い大きな建物がグム百貨店である。モスクワの観光名所にもなっている。ソ連時代からの国営百貨店。今は民営のショッピングモールといったところか。
DSC_7293 (800x533)

DSC_7294 (800x533)

  赤の広場にある『レーニン廟』の見学をしたかったが、前日が『ロシアの日』で、大掛かりなイベントがあったため、後片付けのため入館できず残念!。。。ボリショイ劇場前のカール・マルクス公園ではマルクスの巨大な像があった。例によって気難しそうな男の像だ。
DSC_7303 (2) (800x533)

夕刻空港に向かう。モスクワ・ソウル間のフライト8時間45分。
DSC_7306 (800x533)


6月14日(金)
ソウルに9時40分に到着。15時20分の関空行きに乗り継ぐ。そして関空から羽田に。ソウルでの乗り継ぎの便まで時間があり、いろいろ探検。さすがハブ空港なので、仮眠室、シャワールーム、マッサージ室、韓国文化を各種体験できるコーナーなどがそろっていた。
DSC_7307 (800x533)

仮眠室
DSC_7308 (800x533)

マッサージ室の向こうはシャワールーム
DSC_7309 (800x533)

DSC_7311 (800x533)

 関空に17時15分に到着。更に羽田行きのフライトは21時50分発。羽田着は10時50分。帰宅したのは12時を過ぎていた。二日がかりの長ーい乗り継ぎであった。


 今回の旅行で感じたことは、ロシアは巨大な国土を持つ国(1千7百万㎢で日本の45倍)だが、人口が1億4千万人と非常に少ない。車窓から眺めていると人を見かけることはほとんどなかった。また、シベリア鉄道では対向する貨物列車がほぼ5分間毎にひっきりなしに通過することだ。ほとんどが貨物列車でざっと数えていると貨車は70輌ほどである。シベリアにはハイウェーもなさそうなので鉄道は極東とヨーロッパを結ぶ重要な物流機能を果たすシステムと実感。そしてシベリアを体感したのは泊まったホテルは全てスチームが入っており夜間は暖房していた。

19.06.01-06シベリア鉄道旅日記・その1

 極東のウラジオストックからヨーロッパのモスクワまでシベリア鉄道全線走破の旅。
パスポートをチェックする車掌さん。やさしいようで厳しい。ゴマをすって『スパシーバ(有難う)』という。
DSC_7119 (533x800)


6月1日(土)
羽田発7時10分のANAで関西空港へ。関西空港で友人のO君と合流し、KALでソウルへ。とりあえず本日はソウル泊。

 羽田に7時10分のフライトは想定外の早起きでキツイ。
DSC_6666 (800x533)

DSC_6668 (800x533)

ソウルの漢江越しに国会議事堂とビル群を望む。空気はPM2.5のためかはっきりしない。
DSC_6669 (800x533)

DSC_6670 (800x533)
 ホテルの近くには例の少女像があった。韓国全土の至る所に鎮座しているのか。本当に厄介な隣人だ。
DSC_6674 (800x533)


6月2日(日) 時差調整+1時間(日本とは+1時間)
 ソウルから午前便でロシアのウラジオストックへ。ウラジオストックはロシア語で『東方を征服せよ』という意味らしい。19世紀から20世紀初頭にかけて帝政ロシアの積極的な極東政策で建設された町だ。そしてシベリア鉄道が遥かモスクワにつながる町でもある。この町は港町でもあるが、坂が多く、神戸や長崎を思い出させる。そういえば今年の4月24日に北朝鮮の金正恩委員長がこの駅にやってきて、ロシアのプーチン大統領と会談している。
 1891年(明治24年)ロシア皇太子ニコライは滋賀県大津市の路上で津田三蔵巡査に切り付けられた。いわゆる大津事件。ニコライは事件の20日後にウラジオストックでシベリア鉄道ウスリー線の起工式に参加している。日本の一巡査に危機感を抱かせるほど日本にとってロシアの南下政策は脅威であった。クリミア戦争(1877-78)の敗北がロシアの南下の矛先をアジアに向けさせた。日露戦争の開戦は1904年2月である。シベリア鉄道の全線開通は、それに遅れること7カ月であった。

ソウルからKALでウラジオストックへ約2時間40分の旅
DSC_6676 (800x533)

DSC_6678 (800x533)

 『アルセーニエフ博物館』は沿海地方の歴史地理、生物、鉱物、また戦争や宇宙開発について展示している。また、シベリア鉄道建設当時の展示もある。2階には日本関係の資料があり、当時のロシアと日本の関わりがわかる。博物館は街の真ん中にある。アルセーニエフの現地通訳兼パートナーがデルス・ウザーラだ。
DSC_6689 (800x533)

DSC_6682 (800x533)

DSC_6684 (800x533)

DSC_6683 (800x533)

DSC_6687 (800x533)

 『鷲の巣展望台』は市内で最も見晴らしのよい高台にある。標高192m。眼下には金角湾の全景が広がり、右手に客船ターミナルやウラジオストック駅、軍港に係留されている軍艦が見える。また、対岸にはゴールド―ビン岬が望める。
DSC_6711 (2) (800x533)

DSC_6700 (800x533)

DSC_6710 (800x533)

 『聖アンドレイ教会』は小さなロシア教会だが、中は煌びやかなイコンで埋め尽くされているそうだが、中を見学しようとしたらミサか何かをやっていて、見学はできなかった。すぐそばにはニコライ二世の凱旋門があった。ソ連時代は帝政を否定するため破壊されていたが、近年復元された。
DSC_6702 (533x800)

ニコライ二世の凱旋門
DSC_6706 (533x800)

近くには潜水艦博物館がある
DSC_6709 (800x533)

昼食を取ったレストランのオバサン。善良なるロシア人という感じ。
DSC_6680 (800x533)

 ウラジオストック発の列車の時間が迫って来たので駅に急ぐ。駅の構内にはニコライ二世のレリーフ像があった。ソ連時代では考えられないことだ。
DSC_6714 (800x533)

DSC_6717 (2) (800x533)

 駅舎前に建つレーニン像。北大のクラーク博士像ではない。
DSC_6715 (533x800)

  シベリア鉄道の東の起点ウラジオストック駅から9259km先のモスクワへ。これは日本最北の駅、稚内から最南端の駅、枕崎までJRを乗り継いだとしても、その営業キロ数は2972kmである。シベリア鉄道の三分の一にも満たない。ロシアの領土は大づかみに言うと東西1万1千kmだが、その90%の距離を走る。今晩は、とりあえずハバロフスクへ766kmの旅程。勿論、車内泊。

二等寝台の通路 二等寝台のコンパートメント内部は2段ベットが対になっている
DSC_6724 (800x533)

 二等寝台は4人のコンパートメント。たまたま同室に2人の老婆とシェアーすることに。異性と同室になったが、老婆なのでときめくことはなかった。それは彼女たちも同じで、老人男性2人にときめかなかったと思う。
DSC_6725 (533x800)

 食堂車
DSC_6723 (800x533)


6月3日(月)
 かつての東清鉄道が分岐するウスリースクを通過し、ウスリー川最大の支流ホール川にかかる鉄橋を渡り、朝8時半にハバロフスクに到着。2015年3月にハバロフスクからウラジオストックまでシベリア鉄道で旅したことがあり、懐かしく感じた。
 アムール河畔に開かれたハバロフスクは、1649年に探検家のエロフェイ・ハバロフに因んで命名された。

ハバロフスク駅 
DSC_6732 (533x800)

駅前のハバロフ像
DSC_6733 (533x800)

 郷土博物館は1896年に設立された博物館。極東や沿海州に関する歴史、風俗、自然についての資料も多数展示されており、デルス・ウザーラの展示もあるはずだったが、残念ながら月曜日で休館。そのかわりにアムール川クルーズに乗る。
DSC_6734 (800x533)

 隣の施設には陸軍幼年学校の生徒が見学中。
DSC_6736 (800x533)

 アムール川展望台。アムール川の中国名は黒竜江、ロシアと中国の国境である。清国の時代1858年に国境を定めた璦琿条約は中国の黒河で結ばれた。

アムール川河畔
DSC_6738 (800x533)

DSC_6754 (800x533)

旧アムール鉄橋の記念館
DSC_6762 (800x533)

アムール川にかかるシベリア鉄道の橋、上段は自動車専用道。
DSC_6760 (800x533)

DSC_6758 (800x533)

 ウスペンスキー教会とスパソ・プレオ・ブレジンスキー教会はハバロフスクを代表する二大教会だ。どちらもカラフルで美しいロシア正教の教会。

ウスペンスキー教会
DSC_6743 (800x533)

スパソ・プレオ・ブレジンスキー教会
DSC_6765 (800x533)

スパソ・プレオ・ブレジンスキー教会付属の神学校
DSC_6769 (800x533)

 アムールスキー通りはハバロフスクに2本ある並木通りの一つで、文化と憩いの公園から駅へと続く美しい道だ。そこからハバロフスク市民の台所の市場を覗いてみる。物が豊富でソ連崩壊のころの状況は嘘のようだ。
DSC_6746 (800x533)

DSC_6747 (800x533)

DSC_6750 (800x533)


6月4日(火) 時差調整-1時間(日本とは0時間)
 朝の8時40分のシベリア鉄道でブリヤート共和国のウラン・ウデを目指す。ハバロフスク⇒ウラン・ウデ間は2884kmと距離も長いので2泊3日の鉄道旅だ。そもそもシベリア鉄道はウラジオストック⇒モスクワ間は9259kmで世界有数の長距離の鉄道である。この鉄道に乗り続ければ6泊7日(下りは時差の関係で7泊8日)でモスクワに到着する。ウラジオストックとモスクワ間の時差は7時間。昨年の8月まではシベリア鉄道の運行管理は全てモスクワ時間で行われていた。従い、ウラジオストックから出発する時間はモスクワ時間で表示、切符の販売も、走行中の車内も全てモスクワ時間。こんな不便なことが実施されていた。

アムール川を渡る 
DSC_6783 (800x533)

DSC_6772 (800x533)

線路わきにあるキロポストはモスクワまでの距離を表示している。
DSC_6788 (800x533)

 途中駅の停車時間は30分あり、駅の構外に出かける。乗客目当ての露天商がしきりに列車内で食べる軽食?を勧める。乗客も食堂車や車内販売より安価なのでこちらを選択。
DSC_6804 (800x533)

DSC_6807 (800x533)

DSC_6799 (533x800)
         
1等寝台の客車 さすがに静かだ 
DSC_6814 (800x533)

3等寝台の客車 プライバシーは無い
DSC_6816 (800x533)

DSC_6817 (800x533)

 車窓の風景は、小高い丘、林、草原、川とほとんど変化はない。ただ林に沈む夕日は非常に美しい。
DSC_6843 (800x533)

DSC_6795 (800x533)

DSC_6796 (800x533)

DSC_6793 (800x533)

DSC_6820 (800x533)

6月5日(水) 
 巨大な凍土、湿原、草原(ステップ)、森林(タイガ)がもう一つの青い天体のように広がっている。黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』の世界を彷彿とさせる。目指すウラン・ウデは遊牧民の世界だ。清朝の時代はモンゴルの一大本拠地は当然、モンゴル高原だ。ここは中国の支配下に置かれ続けたが、ブリヤート・モンゴル人のみは境界より北方に遊牧していたため、その規範から免れていた。清朝の官民の悪質な収奪の及ばぬ地にいた。彼らはバイカル湖周辺の広大な草原を自分たちのOLOS(国家)と称していた。
  帝政ロシアの時代、キャフタに運びこまれた茶の中で、紅茶や緑茶といった高級茶は1年以上かけ、サンクトペテルブルグまで運ばれた。値段は茶2kgが馬1頭というほどまで跳ね上がった。
 1727年に結ばれたキャフタ条約により、清国とロシアには本格的なゲートが開き、活発な交易が始まった。ラクダや馬橇に乗せられて茶葉が冬の原野をシベリア、そして遠く、サンクトペテルブルグまで運ばれていった。シルクロードを彷彿とさせるロマンチックな風景を連想させるが、実際は過酷な雪原を行く命がけの旅。今でもモンゴル、新疆、チベットそしてシベリアで愛飲されている磚茶は『万里茶路』が開設された最大の産物だ。
  現代ロシアでは80%以上は紅茶が飲まれている。産地もインド、スリランカ、ケニア等世界中から集められている。日本でロシアンティーと言えば紅茶にジャムを入れて飲むといわれているが、ロシア人に聞けばジャムを入れて飲む習慣はない。ジャムをわきに添えて舐めながら飲む人はいるとのこと。

 途中駅で停車中に食料を調達する。別に買わなくても食堂車で済ますことができるが、節約と好奇心でつい現地の人と同じ行動をとる。買ったのはバナナとパン(ウズベキスタン風ナン)で300円程度であったが、大きすぎて、皆でシェアーする。

DSC_6832 (533x800)

DSC_6826 (800x533)

DSC_6834 (800x533)

列車でロシア人と親しくなる。まるで人形のような子供たちだった。
DSC_6854 (533x800)

DSC_6858 (800x533)

DSC_6859 (800x533)



6月6日(木) 時差調整-1時間(日本とは―2時間)
 朝の8時45分にウラン・ウデに到着。ウラン・ウデはブリヤート共和国の首都である。モンゴル経由で中国に向かう支線の起点でもある。バイカル湖以東のザバイカル地域では数世紀にわたり、チベット仏教が信仰されていたが、公式の宗教として認められたのは18世紀になってからのこと。街を行くモンゴル系の人を見ていると日本人と錯覚しそうである。因みにウラン・ウデからモンゴルまではバスで12時間、鉄道なら24時間かかる。

 ウラン・ウデの駅はブリヤート共和国の首都らしくモンゴル風の建物で、現在改装中であった。この町一番の広さを誇る『レーニン広場』は閑散としていた。また、レーニンの巨大な首の像が有名らしい。

ウラン・ウデ駅
DSC_6867 (800x533)

レーニン広場
DSC_6876 (800x533)

レーニンの首像
DSC_6873 (2) (800x533)

額から頭にかけて似ていると言われた
DSC_6874 (800x533)

ザバイカル民族博物館は、ブリヤート民族ばかりでなくシベリア地方の様々な民族伝統的住居移築した屋外博物館。ブリヤート民族のゲル(テント)、コサックの住居エヴェンキ族のテント、チベット族の寺院や教会などが展示されている。

鹿皮のテント 
DSC_6879 (800x533)

コサックの教会
DSC_6887 (800x533)

シベリア商人の住宅
DSC_6889 (800x533)

  ブリヤート人の聖地イボルギンスキー・タッアン寺はチベット府仏教の総本山である。タッアンとはロシア語でチベット仏教寺院という意味だ。境内には本堂や宿坊、書庫、マニ車などが立ち並んでいる。ブリヤート共和国内にはタッアンと称する寺院はここ以外にもあるらしい。
DSC_6908 (800x533)

DSC_6901 (800x533)

仏教大学の校舎
DSC_6904 (800x533)

  シャーマンセンターでシャーマニズムについて学ぶ。ブリヤート・モンゴル人の神話では祖先は、女シャーマンで3人の男の子を産み、その内の末子オリホンが聖なる湖バイカルのほとりに棲み、湖畔で白鳥が天女に化けて歌うのを見た。やがて天女は羽衣を脱いで水浴を始めたすきに、オリホンは羽衣を盗み彼女を妻とした。この羽衣説話(白鳥処女説話)は古朝鮮や日本の琵琶湖北岸の余呉湖や駿河の田子の浦などにもある。この天女はチンギス汗の孫娘の化身であったという。チンギス汗の孫娘の化身ならこの神話の時代は14世紀ぐらいで、ブリヤート人集団の成立は存外若い。
  シャーマンセンターは工事現場の様な土地に建てられていた。展示物もたいしたことがなく、説明してくれたシャーマンも若くて茶髪でピアスをしていた。チョット期待はずれでがっかりだった。
DSC_6891 (800x533)









プロフィール

Whitedevil

Author:Whitedevil
FC2ブログへようこそ!
2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
05 | 2019/06 | 07
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる