19.05.23横須賀・三笠記念艦

 吉村昭著の『海の史劇』を読んでから、一度、横須賀にある戦艦三笠の記念艦に行きたいと思っていた。丁度天気もいいので出かけてみた。

東郷元帥の銅像と戦艦三笠
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三笠の復元モニュメント 
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 JR横須賀駅を降りて、三笠記念公園に向かう途中に幕末に軍制改革や横須賀製鉄所建設に携わった小栗上野介忠順と同じく日本の近代化のため横須賀造船所の設立に貢献のあったフランス人技術者レオンス・ヴェルニーの顕彰碑があった。

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 そもそも戦艦三笠はロシアの極東進出に危機感を抱いた明治政府が、英国ビッカース造船所に発注し、明治35年(1902)竣工、同36年連合艦隊の旗艦となった。そして同37年に黄海海戦、同38年日本海海戦を戦っている。大正15年に軍縮会議で廃艦となり、過去の栄光を称えるため記念艦となった。第二次大戦後はGHQの指示で甲板上にあるすべての設備を取り払い、ダンスホールや水族館となったという。その後、昭和36年に改めて復元され現在の記念艦となっている。

7つの窓は操舵室の窓
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操舵室内部
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操舵室の上は最上艦橋で東郷以下参謀たちが立ち並んで指揮をとったところである
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最上艦橋は高々畳6畳程度の広さであり、有名な三笠艦橋図(14名)からは想像できない狭さだ。
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 三笠には当時の軍服が陳列されていたが、いくら明治の人が小さいとはいえ、14人の男たちが艦橋にひしめく様は、それにしても窮屈であったと思う。日露戦争末期には徴兵基準が伸長4尺8寸(147cm)まで引き下げられていた。

 船内は限られたスペースなので非常にコンパクトに設計されている。

長官公室
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長官寝室
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長官バスタブ
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士官室
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海図室
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軍艦旗室
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15センチ副砲 
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中甲板内の展示室
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正面は30センチ砲2門
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軍艦旗
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 ポーツマス条約を締結し、明治38年10月23日に連合艦隊の勝利を祝う凱旋観艦式が明治天皇を迎え横浜港沖で行われた。戦艦『敷島』『朝日』をはじめ160隻が集まったが、その場には『三笠』はなかった。そのわけは三笠記念艦では触れられていないが、不都合な事実があった。明治38年9月8日、修理中の戦艦三笠は佐世保港で火薬庫が爆発し沈没。死者は251名で日本海海戦の死者(107名)の2.5倍であった。爆発原因は自然発火でなく、数名の水兵が火薬庫の通路に忍び込み酒を飲んだ。彼らは酒の代わりに、発光信号用のアルコールを盗み出し、アルコールの臭気を抜くために火をつけた。その火が容器からあふれたアルコールに引火し火が広がったものだ。


 帰路は横須賀名物の『海軍カレー』を食べた。明治時代に軍人が脚気で死亡することが多く、カレーを食べることで海軍は脚気が無くなったという。今でもカレーは各自衛艦によりレシピが違うそうだ。全体的にスープカレーでなくドロッとしている。理由は船が揺れてもこぼれないようにということらしい。潜水艦は毎週金曜日にカレーがでるそうだ。この理由は、海中に潜っていると何曜日かわからないので、カレーが出ると金曜日ということ。

 JRの横須賀駅の手前の港には護衛艦が停泊している。よく見ると『184』のナンバーが確認できた。帰宅後調べてみると、これは『いずも』であり、現在、F35戦闘機が着艦できるように改修を検討しているようだ。改修すれば、まそしく『空母』となる。専守防衛を旨とする国是でどうして空母が必要か疑問に感じる。

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19.05.07鎌倉文学館・三島由紀夫展

 やっと大型連休が終わったので、鎌倉文学館に出かけ、”三島由紀夫『豊饒の海』のススメ”を見学する。

 この『豊饒の海』は4部にわって構成されている。第一巻「春の雪」、第二巻「奔馬」、第三巻「暁の寺」、第四巻「天人五衰」である。長編で時間を追って物語が進むが、途中で時間がジャンプしたりするので、少々長すぎて食傷気味であった記憶がある。

 三島由紀夫は意外と小柄で、学徒出陣世代であったが戦地に行っていないそうだ。それに運動神経がからきしダメだった。そのコンプレックスか、ボディビルで体を鍛えていた。結構ナルシストなのかもしれない。

文学館前に掲示されていた三島由紀夫展のポスター 
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鎌倉文学館(元前田侯爵邸)
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門から文学館に至るアプローチはなかなか素敵に風景
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三島由紀夫は自身の写真について結構、意識して撮っている  
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 文学館の庭園は11日(土)からバラまつりが開催される。少し早いが、どの程度咲いているかを確認する。見ごろは来週中ごろ以降と思われる。

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 先日、保坂正康氏の『続 昭和の怪物七つの謎』を読んだが、三島由紀夫が第一章で取り上げられていた。今日の三島由紀夫展は非常に興味があり、面白く感じた。












19.05.02妙本寺学僧・仙覚

 最近書店に行けば万葉集に関する書籍が平積されている。理由は『令和』の引用元が万葉集であるためだ。たまたまタウン誌で妙本寺と万葉集の関わりが取り上げられていた。

 そもそも万葉集が編纂されたのは今から1200年ほど前。漢字の音を日本語にあてた『万葉仮名』で書かれているため、後の時代の人々は訓点を付けなければ、読むことができなかった。約4500首のうち、鎌倉時代になっても訓点の無かった152首につけたのが、妙本寺を拠点に活動した仙覚という学僧だったそうだ。その生涯については詳しいことは分かっていない。13歳から万葉集研究を始めたらしい。鎌倉幕府第4代将軍頼経の命を受け1246年に訓点をつけ終えた万葉集を献上。現在の研究や出版物のベースになっている『西本願寺本写本』として伝わっている。ただこうした功績を知る人はほとんどいない。今は妙本寺の境内に『万葉集研究碑』がひっそり佇んでいる。

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 妙本寺の開山は日蓮、開祖は比企能本、創建は1160年の由緒ある寺だ。総門を過ぎ、境内に入れば深山幽谷の世界だ。階段を上ると二天門となる。

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 二天門からはまるで額縁に収められたような祖師堂が見える。

二天門
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祖師堂
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 二天門には持国天と多聞天(毘沙門天)がにらみを利かせている。この仁王の二天に因み二天門と名付けられた。

持国天
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多聞天
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帰路、妙本寺そばの民家のブロック塀には『令和』の落書き?  9歳の作品には見えない。
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自宅近くの竹やぶには筍から成長した竹が姿を見せていた。そのうち、初夏になりそうだ。

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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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