19.01.30高浜虚子のゆかりの地を巡る

 今日はNPO法人鎌倉ガイド協会の福田さん指導のもと高浜虚子のゆかりの地を訪ねた。

 高浜虚子は明治7年(1874)愛媛県松山市で生まれる。15歳のころから文学に興味を持ち河東碧悟道の紹介で正岡子規に師事する。虚子の号は子規が命名。雑誌『ホトトギス』の後継者となり夏目漱石の小説『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』等を世に出した。
 明治・大正・昭和を通じて、国内のみならず海外でも俳句講演や句会を開催するなど俳句を世に広め、自身も膨大な作品を残す一方、次女の立子ほか多くの俳人を育てた。昭和29年に俳人として初めて文化勲章を受章した。

 明治43年から約50年鎌倉で過ごし、鎌倉を詠んだ多くの句を残している。享年85歳。戒名は『虚子庵高吟椿寿居士』。墓所は寿福寺。

江ノ電の由比ヶ浜駅近くの家は現在近親者が御住い。庭のみ鑑賞。
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江ノ電の踏切わきに虚子の句碑がある
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線路越しに自宅が望める
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 近くの道には『是より東海道』の道標がある。こんなところに東海道かと、チョット眉唾。DSCN3360 (600x800)

ここから少し鎌倉駅方面に戻ると御成小学校がある。校門の表札は子規の筆によるもの。
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墓所のある寿福寺は鎌倉五山の第三位。ここには多くの作家や文化人の墓がある。また、北条政子や頼朝の墓もある。
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文人の墓には大佛次郎や虚子の名も
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虚子の墓はやぐらの中にあった
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 寿福寺から二階堂にある『鎌倉虚子立子記念館」に向かう。ここは平成13年9月、虚子の孫・星野椿、ひ孫・高士を中心として閑静な二階堂の住宅地に会館。会館には虚子の直筆による短冊や掛け軸のほか、立子の愛用品などが展示されていた。

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素敵な庭にはいろいろな句碑がある
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 今日は殊の外寒い一日であった。俳句や短歌それに文学も疎いのでガイドの福田さんの説明もなんとなく右から左へ消えてゆく感じだった。俳句に興味ある人や俳句を詠む人にとっては素晴らしい一日になったと思う。小生には猫に小判。記念館で『投句用紙』を頂いたが、そのままポケットにしまい込み自宅でゴミ箱へ。












19.01.10.-21台湾雑感

台湾で12日間旅をした。その間に感じたことや記憶に残ったことを箇条書に記した。

熱帯で咲く花『バウヒニア』が咲いていた
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台湾最南端の鵞鑾鼻灯台
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台湾東海岸の三仙台
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太魯閣の風景
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・台湾の民主化の起点は1988年だった。蒋経国が戒厳令の解除や政治活動や報道の解禁を決意し、「時代が変わり、環境が変わり、潮の流れも変わった」と語った年だ。おかげで、血を流さずに民主化できた。

・台湾は、16世紀にポルトガル人が「イラ・フォルモサ(麗しき島)」とよく知られる感嘆詞ともに世界に知られるようになった。訪れてわかるが、花の無い冬にもかかわらず、ブーゲンビリアなど熱帯の花が咲き乱れている。花好きの人はたまらないだろう。

・馬英九は外人の超エリートだ。蔡英文は、屏東という台湾最南端にある県にルーツを持つ。父親は客家人、母親は福建系。父方の祖母は先住民族のパイワン族だ。客家、福建、原住民という台湾土着の三つの系統を持つ。彼女は台湾大学法学部、米国コーネル大学、ロンドン・スクール・エコノミストで博士号取得。

・台湾は日本と1972年、米国と1978年まで国交を持っていた。中華民国は国連設立のメンバー。日本と国交がない国は北朝鮮。どこが異なるのか?台湾は国際承認以外では国家承認の要件を満たしている。国際的に承認を得られていない国はパレスチナなどがある。台湾は中華民国という国名がある、総統や国会議員も選挙で民主的に選ばれる、ニュー台湾ドルという通貨がある、盛況な軍隊もいる。明らかに『国』である。

・日本は台湾を二度捨てた。一度目は1945年の敗戦による引き上げ。二度目は1972年の中国承認による国交断絶。それでも台湾人は日本が好きだ。日本人は台湾人に答えているか、疑問だ。

・映画で「湾生回家」は台湾生まれの日本人が台湾を訪れる話をドキュメントしたもの。この映画を見ると涙が止まらなくなる。これは日本人だけでなく、台湾人も同じと思う。庶民が国家に翻弄され引き裂かれた歴史。

・蒋介石は終戦後、「以徳報怨」を以て日本に接してくれた。日本人は蒋介石に対しなんとなく好ましい人と感じる。しかし、台湾国内は暗黒の時代であった。因みに台湾国内には蒋介石の像が4000体もあるそうだ、日本の二宮金次郎像をはるかに凌駕する。こんなに作っても誰も敬意を払わない。

・1947年の2・28事件で沖縄の人達が、台湾人に間違われ殺戮された。日本人は戦後の混乱のため、あまり知られていない。台湾も不都合な歴史がある。

・国民党と民進党の違いは、国民党は経済優先、民進党は政治優先。従い、大陸から嫌がらせの様に経済関係を悪化させられれば民進党はつらい立場になる。中国は台湾独立を絶対に阻止するつもりなので、次の総統選挙は混乱するだろう。

・国民党政権時代、大陸反攻については「一年準備、二年反攻、三年掃討、五年成功」と言われたが、実現しなかった。もともと大陸から逃げて来たので、たんなるスローガン。亡命政権の戯言。

・2012年に行われた東日本大震災の追悼式典で、外交関係のない台湾を除外した。国民感情からは途方もない金額200億円の支援をしてくれた台湾を外したことは恥ずべき行為。安倍政権や外務省の役人は恥を知るべき。

・鄭成功の時代に38年間にわたりオランダ人が台湾を支配していたが、鄭成功がオランダ人を追い出し、それにとってかわった。そして、全軍が屯田兵となった。そのような農地は『営』と呼ばれ、現在も地名として残っている。歴史的に台湾が最初に独立した時代。

・終戦により、マッカーサーは日本に対し、中国大陸の蒋介石に降伏するように命じた。当時蒋介石は重慶に居た。彼は先発として陳儀を台湾に派遣。彼はアジア型の政客で、在任2年で台湾を私物化した。後に陳儀は死刑になったとも。

・昔、帝国大学は東京にしかなく、明治30年代に京都に設立された。その後、仙台、福岡、京城(ソウル)、台北の順に設立。阪大はずっと後になる。日本政府は台湾や朝鮮半島を無理しても一流の地にしたかったのか。

・蒋介石は戦後大陸にやってきた。2千万人の人口に対して大陸からやってきた人は10%。彼らが支配階級となった。1947年に暴動が起き、全島に戒厳令をしいた。解除されたのは1987年で、40年間しきっぱなし。通常は短期間で地域も限定されるが、世界的にも珍しい。随分、無精な政権だ。日本の2.26事件は東京限定で1週間の戒厳令。

・蒋介石の銅像の前に『天下為公』とあった。中国の王権が『公』であったことは一度もなく、毛沢東や蒋介石も、彼らにとって、自国は私物であった。大陸から乗り込んできた中華民国は、憲法停止と戒厳令施行という非立憲的態度で台湾人に臨んだ。台湾人はゆえなく逮捕され、裁判によらず処刑された。

・台湾統治の基礎を作ったのは、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造等である。余談だが、江の島に児玉神社がある。乃木神社や東郷神社に比べ気の毒なほど貧弱だが、台湾統治に対する敬意か山縣有朋の歌碑や後藤新平による顕彰碑、などに交じって台湾製糖や台中市の灯篭があるのも面白い。また、日露戦争の203高地攻略でなくなった兵を慰霊する、203高地の石でできた『爾霊山』という慰霊碑もある。そして驚くことに蒋介石の児玉を顕彰する詩碑もある。

・辛亥革命の父、孫文は客家の人である。毛沢東と共に中国革命を起こした朱徳や鄧小平もそうだ。また、洪秀全も同じだ。革命家が多い。

・阿里山は天下の名勝だ。玉山の前衛をなし、標高が、1800~2400mもあり、連峰として18峰を数える。樹齢1000年、2000年という檜が至る所にある。日本の巨大木造建築物も台湾の檜のお世話になっている。

・八田與市の銅像を見ると顎の丈夫そうな、更に骨の頑丈そうな風貌で、作業ズボンをはき、腰を下ろして現場を見つめている。視線の向こうは烏山東ダムの珊瑚潭の水が広がっている。本当に好もしい銅像だ。珊瑚潭のほとりに八田與一と妻外代樹(とよき)の墓がある。與―の命日は、5月8日で毎年この日に嘉南農田水利会の人々により墓前祭がいとなまれる。故人は国籍人種民族を超えた存在だ。

・サッポロがアイヌ語であるように『たかお』ももとは山地人の地名だった。清朝以前タカオ社からきている。『打狗(タアカオ)』という漢字を当てた。日本統治時代に高雄へ変更。日本の影響の大きさに驚く。

・地球は自転している。そして春分の日は正午に赤道付近に垂直に照り付ける。夏至の時には北回帰線上に太陽が来る。赤道を挟み北回帰線と南回帰線に間の地域が熱帯だ。東部太平洋側の花蓮県の瑞穂郷と豊浜郷に北回帰線が通っている。また西部台湾海峡側の嘉義市、嘉義県水上郷にも北回帰線が通っており嘉義市の南郊に、その北回帰線が通っていている。

・台湾の原住民は単一の民族でなく、諸族は互いに言語が通ぜず、文化も異なる。漢民族の文化になじんだ者を熟蕃という。なじまない者を生蕃とよんだ。日本統治時代は高砂族とよび、戦後は『高山族』とよぶそうだ。今は山地人・山地同胞という安定したよび方があるが、山地同胞のほうは自らを『原住民』と呼ぶことを主張し、現に『原住民』が一般化している。

・1943年に高砂族(アミ族)のスニヨン(日本名・中村輝夫)が特別志願兵として日本陸軍に入隊し、モロタイ島に上陸。しかし、モロタイと島の残存部隊には終戦のポツダム宣言受諾は伝わらなく、皆ばらばらになり、彼だけが島に取り残された。終戦から29年経った1974年12月にインドネシア共和国によって発見された。騎兵銃はよく手入れされていたらしい。この目出度い話で困惑したのは妻だった。彼が出征の時すでに身ごもっていた。その後男児を出産。彼女は夫の帰りを10年待ったが、終にあきらめ別の男の婿を取った。その婿も仰天したはずだ。その婿はスニヨンが残した妻子を養って21年が立っていた。そして彼は黙って家を出た。72歳だった。まるで浦島太郎の話のようだ。スニヨンは中華民国国民としてふさわしい李光輝という名をつけられた。台湾に帰国した彼は詰めかけた報道関係者の質問は一切わからなかった。言語として理解できたのは日本語とアミ族の言葉だけだった。余談だが、横井正一氏は1972年、小野田寛郎氏は1974年3月に発見された。

・ポツダム宣言は1945年7月に26日ポツダムで米国トルーマン、英国チャーチル、ソ連スターリンにより会談した。会談後、蒋介石に連絡し同意を得て宣言成立。『日本占領』という条項があり、連合国の占領下に置く。もし、蒋介石が日本の九州や四国を占領していれば歴史はどうなっていたか。

・日本が統治時代における最後の反乱『霧社事件』は1930年に起こった。台湾人は日本の官憲をひそかに『土皇帝』と呼んでいた。それほど警官たちに対する反発や憎悪があった。

・1895年に日本統治が始まって花蓮港庁は処女地に近かった。商店街を見ると山田洋二監督の『寅さん』に舞台になりそうな感じの街だ。

・台湾は、原住民を除くとボートピープルでできた無主の地として時を過ごした。漢民族はあくまでもあとからやってきた人達。そして外省人は最後にやってきた人。

・台湾人を統治するため、台湾人のアイデンティティを日本人に替えていく「皇民化政策」が盛んになった。そのため、神社が数多く創建された。神社は領台当初、鄭成功を祀る「開山神社」が台南に設けられた。終戦時には台湾には230社に及んだ。

・台湾の総督。①樺山資紀、②桂太郎、③乃木希典、④児玉源太郎、⑤佐久間左馬太、⑥安東貞美、⑦明石元二郎、・・・・⑲安藤利吉 1985年から50年間に19人が総督の地位についた。平均すると2年強であり、あまり長いとは言えない。1895年に日本統治が始まる。北白川宮能久はマラリアにより台南で客死。



19.01.10-21台湾旅日記・その2

1月16日
 今日は東港から一路南下し、台湾最南端の鵞鑾鼻(ガランビ)岬に向かう。台北からは約500kmの位置だ。途中に現台湾総統の老家があるというので寄り道する。家のある場所は楓港の一隅にあった。ただし、蔡英文総統は台北生まれのはずなので。正しくは父君の家である。この地に住む人にとっては誇りなのだ。余談だが、蔡英文の祖父は屏東県枋山郷楓港の客家の旧家であり、祖母は獅子郷のパイワン族の末裔である

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 此処から鵞鑾鼻(ガランビ)岬へ。鵞鑾鼻は恒春半島南端で中央山脈の末端部でもある。台湾海峡と太平洋が接し、バシー海峡を挟んでフィリピンに対峙する。風か強いためか樹木が大きくならず横に広がっている。なんとなく伊良湖岬のような感じだ。

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 鵞鑾鼻(ガランビ)岬から太平洋側を北上する。明治政府の琉球処分。台湾植民地などアジア侵略政策のきっかけになったとされる「牡丹(ぼたん)社事件」で殺害された宮古島島民を弔う墓が、台湾屏東県東城郷にある。日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する。日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)台湾出兵を行った
 なお、当時の社会環境と先住民の風俗習慣からみた場合、理由なく部落の領地に侵入してきた者は、必ず部落法の制裁を受けることになっていたのであり、現代的な観点で当時の行為を断罪すべきでない、とする見解もある。

牡丹社に行く途中に清国が築いた城門かあった
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「大日本琉球藩民五四名墓」と記載されていた 
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鳥居らしきものもある
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54名が埋まっているらしい土饅頭
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 牡丹社事件の記念公園では、台湾にとっては不都合な事件であったので記念碑は文字を消されていた。国民党政権は戦前の日本統治の痕跡を亡くしたがっているようだ。

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 夕刻、今日の宿泊地の知本温泉に向かう。台東より西南に16km。知本渓の右岸に湧く出湯。古来、プユマ族の人々はここを神水と称していた。漢人はプユマ族の呼称に従い『ていぽん』と呼び、日本人も『ちぽん』と呼んでいたらしい。ここは数年前に大雨よる被害で渓谷沿いのホテルが軒並み川の中に崩れていった報道があった。


1月17日
 知本温泉から花蓮までが今日の行程。途中、路上で『釈迦頭』という果物がこの辺りの名産とか。非常にクリーミーで甘い。まるで常温のアイスクリームを食べるような感じ。我々の運転手は台北の実家に2ケース宅配の依頼をしていた。

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 ここから三仙台へ。台湾を代表する宗教的自然景観の一つに数えられ、海浜植物の生態研究における重要な拠点であるほか、宗教的物語と想像性に富んだ場所である。海水の浸食によって作られた特殊な地形には、原住民のアミ族と漢民族によって宗教的な伝説や逸話が数多く残されており、その中には神話によく見られる表現方法を用いた起源に関する説明が見られるほか、異なるコミュニティの信仰や信念も具体的に表現されているそうだ。アミ族と漢民族それぞれの歴史的・文化的影響による表現上の違いが見受けられる。三仙がここを訪れたという物語には、中華圏に伝わる道教文化と八仙が海を渡った伝説が反映されており、台湾全域に広く伝わり、人々の心に深く根付いているという。風景だけを観れば琵琶湖のようだ。

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 八仙洞は地質景観と先史遺跡を両方持っている。台東県長濱鄉三間村から海に面した崖の上にあって、自然に形成された十数個の海蝕洞窟がある。これらの洞窟は元々海面にあって、現在は150メートル高さの山壁に散らばっていて、これは東海岸プレートが上昇したプロセスの中に、波に海蝕された柔らかい部分。八仙洞には各海蝕洞窟へ行く歩道があり、その中に最大な洞窟は靈岩洞,最高な洞窟は崑崙洞、高さは130メートルで、そのほかには乾元洞、朝宸洞、海雷洞、潮音洞、永安洞、水簾洞等がある。洞窟はほとんど祭り場として作られていたので、洞窟の名前も宗教の意味が含まれているそうだ。 八仙洞は重要な先史遺跡で、非常に豊富な旧石器時代先陶文化が発見されて、「長濱文化」と呼ばれるようになって、これは現在まで台湾において最古の先史文化遺跡で、極めて重要なので、国家一級遺跡と定められているそうだ。

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 至る所に洞窟がある。  中に入るととてつもなく大きな洞穴だ。
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 アメリカ人作家ヘンリー・ミラーの『北回帰線』という小説があったことを思い出したが、台湾には東部太平洋側の花蓮県の瑞穂郷と豊浜郷に北回帰線が通っている。また西部台湾海峡側の嘉義市、嘉義県水上郷にも北回帰線が通っており、日本統治時代より北回帰線駅という貨物駅があった。その駅の隣には北回帰線の記念碑がある。

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 花蓮の街の直ぐそばに慶修院という日本真言宗の寺院がある。今年で102年を迎えるそうだ。もともと徳島の吉野川流域の人達が移民し開墾した土地だ。

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  花蓮は台湾東部の中核として栄えた都市。日本統治時代に築港が進められた。1939年(昭和14日)に第1期工事を終え、工事は戦後に受け継がれた。もともと、この一帯はアミ族の人達が多く住んでいた。文献によると1878年から漢人の移住が始まった。漢人は台南・高雄から南端を経由し、台東を経てやってきた、台湾では漢人の最後の移入を受けた都市である。



1月18日
 今日は一日台湾観光の定番、太魯閣観光だ。総面積は9万2000ヘクタール。行政区画上は花蓮県、台中県と南投県に属している。 公園内の太魯閣渓谷(タロコ渓谷)は、立霧渓が大理石の岩盤を侵食して形成された大渓谷。奇岩怪石と水の美しさゆえ、台湾の中でも特に人気のある観光地である。 「タロコ」の地名は流域の台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとも、高名な頭目の名に由来するともいう。 50年前に訪れた時は台南から中央山脈を突き抜ける『東西横貫公路』を一日かけて訪れたことを思い出した。

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1月19日
 花蓮からまっすぐ10数km北上する。左側は山、右側は海。戦前からこの道はあったらしいが、人を寄せ付けないような厳しさがある。ほとんど全てが片麻岩と大理石でトルコブルーの海に落ち込んでいる絶壁は地上の高度と同じ深さで海面下からでているといわれている。中でも台湾10景の一つにあげられている清水断崖は最高地点が海から800mあり、蘇花公路で最も美しい場所だ。

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  清水断崖からさらに北上し、蘇澳へ向かう。1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
  残念ながら管理のほどはあまり良くなかった。いくら美談でも他国の人を救うために台湾原住民が犠牲になった話は・・・・
戦前は、当時の満州から李香蘭が、やってきて映画『サヨンの鐘』を撮影した。また、歌手の渡辺はま子がレコードを吹き込んでいる。

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  サヨンの鐘の記念碑から、近くの海岸沿いにある媽祖廟に向かう。海の安全を守る神である媽祖廟は根強い民間信仰がある。媽祖というだけあり、男性の僧侶は見かけなかった。日本のお寺と比べ原色の鮮やかさに圧倒される。1階は赤い媽祖、2階は玉の媽祖、3階は黄金の媽祖であり、資金が潤沢にあるようだ。

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3階からは蘇澳漁港が良く見渡せた。
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 蘇澳駅が近くにあったので立ち寄る。駅舎は残念ながら当地時代のそれと異なり、新しく改修されていた。駅の中に入ると日本の銚子鉄道と姉妹鉄道の関係とのことだった。

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  蘇澳から更に北上し、宜蘭に向かう。宜蘭には日本統治時代は宜蘭神社があった。国民党政府は日本時代のお寺以外は破壊や痕跡を消す政策を取ったため、今は忠烈祠となっていた。参道の下には戦車が飾られていた。

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 宣蘭設置記念館。日本統治時代の1906年に当時の行政長官「西郷菊次郎」(初代宜蘭県長)の官邸として建設された。敷地面積800坪、建坪は74坪。 『設治』とは、「官を設けてまつりごとをなす」の意から来ている。 現在は歴史館 。奥に位置する「宜蘭文學館」は、日本統治時代の1906年に「乙等官舎」として建てられた木造建築であり、その後、1926年から「農林学校校長官舎」として使用。さらに、2004年に修復され、現在は「宜蘭文学館」として一般公開されている。

 先ず宜蘭長官官舎は平屋づくりで機能的な印象。トイレと風呂は面白い。庭もほどほどで好もしいサイズ。

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西郷の官邸近くの土手には彼を称える顕彰碑があった。

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 今日の宿泊先は礁渓温泉。電車を降りると駅前すぐに温泉街がある。 そんなアクセスのいい温泉地、台湾ではかなり少数派。礁渓温泉がまさにそれ。宜蘭県礁渓郷にある台湾でも数少ない平地部の温泉。湯量も多くて最高の感じだった。



1月20日
  今日は最初にバスで十份へ。やっぱり一番に九份を思い浮かべると思うが。「千と千尋の神隠し」の舞台となったということで日本人の定番観光スポットになっている。それは願い事を書いて『天燈』を上げるという行為。いい大人がと思ったがやってみればなかなか楽しい。願い事はちょっと地味だが、『現状維持』と書いた。この歳になると気力・体力・経済力が確実にダウントレンドだ。これを少なくとも現状で止めたいという願い。
比較的すいている場所で願い事を書き、火をつけて天空にあげるのは、人家が密集しているので、台湾鉄道平渓線の線路上である。時々、列車がやって来るのでスリル満点。

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  この平渓線の十份は、幻想的な風景が広がるスカイランタンフェスティバルが行われる中心地。個人でスカイランタンを上げることができる。「十份」という九份と並んで非常に人気の高い観光スポットがある。ただ十份は九份と同様に台北地下鉄MRTが通っていない。台北市内から少し離れた場所にある関係で、ツアーやタクシーを利用しない場合は台湾鉄道のローカル路線平渓線を乗り継いで行く必要があり、アクセス方法がやや不便だ。
  十份から瑞芳まで台湾鉄道平渓線の列車に乗る。この平渓線は日本の江ノ島電鉄と秋田の由利高原鉄道と姉妹鉄道契約を締結している。平渓線の切符を日本のそれぞれの鉄道に持ってゆけば無料で乗れるという。本当かどうかわからないが、一度、江ノ電に確認してみよう。

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  列車に乗って十份から九份に向かう。ここは観光客でにぎわっている。レトロな雰囲気の映画館があり、おしゃれな喫茶店や映画『悲情城市』の舞台となったロケ地もあり、退屈しない。そして九份は昔金鉱山の街でもあった 。

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 午前中は十份と九份の観光を終え、台北に行く。台北で『故宮博物館』を見学する。いつものことだが、ここの目玉展示品の一つは玉でできた『白菜』と『肉形石(豚角煮)』だが白菜は台東の花博に貸し出し中。そして肉形石もオーストラリアに貸し出されていた。気を取り直し玉や仏像、珊瑚などを鑑賞。正直なところ日曜日ということもあり観光客が多くくたびれた一日だった。

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今日の宿泊先は圓山飯店だ。ゆったりとくつろげるのはさすがだ。部屋からベランダに出ると基隆川が望めた。

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1月21日
 今日は日本帰国の日。アッという間の12日間だった。フライトが午後便なので、午前中に圓山飯店から徒歩で行けるところを地図で探していたら、『忠烈祠』があり、出かけてみる。丁度歩いて15分程度。

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衛兵をよく見るとまだあどけなさが残る若き兵士。
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 日本への帰国便は松山空港なので市内の比較的中心地にある。1時間程度離れた桃園国際空港は成田空港のようで少々不便だ。
 今回の旅は気候的にも暖かく申し分なし。そして台湾人は穏やかで優しい感じがした。それに、今回は11泊のうち温泉が8泊あり、これも最高であった。命の洗濯をした感じ。










19.01.10-21台湾旅日記・その1

 最初に台湾に行ったのは1967年3月だ。当時は蒋介石総統の統治時代で戒厳令下(87年解除)であった。街には「大陸反攻」、「三民主義統一中国」「母忘在莒(故郷を取り戻すことを忘れるな)」というスローガンが至るところに掲げられていた。街を歩いていると突然、防空演習が始まりビルの中に退避させられたこともあった。台湾の金門島では大陸から偶数日に砲弾が撃ち込まれ、台湾からは奇数日に大陸に砲弾を撃ち込む、一種のゲームのような戦いが繰り広げられていた。その後は何度か台湾を訪れたが、直近は2014年4月であった。この年に「ひまわり学生運動」が起こり、民主化の要求が広がった。そして2016年に総統選挙で国民党の馬英九から民主党の蔡英文に政権が変わった。台湾も激動の世紀だ。
 
 東アジアの日本を取り巻く国の中で、台湾は東日本大震災に正式な外交関係のない日本に対し、とびぬけて多い200憶円もの義援金を送ってくれた。それにもかかわらず、日本政府は中国に遠慮したためか、2012年に行われた東日本大震災の追悼式典で、外交関係がないとして台湾を除外した。政府及び外務省の役人のセンスを疑う。


1月10日
台北の松山空港からすぐ近くの新北投温泉到着。ここは半世紀前に訪れたことがある。その時はチャイナドレスの若い女性を各旅館に配達?するバイクがにぎやかに走っていた記憶がある。当時はタイと台湾が行儀の悪い日本男子のユートピアであった所だ。さぞ台湾の人は複雑な気分で眺めていたことと思う。今は全く当時とは異なり、立派な温泉保養地である。ミシュランの三ツ星の観光地だ。あの和倉温泉の加賀谷が支店?を出している。

松山空港、今はほとんどが桃園空港発着
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新北投では大勢の人が足湯を楽しんでいる
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中国人に対し日本のおもてなしを楽しんでもらうことが売り
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日本で言うところの『地獄谷』かDSC_5796 (800x533)

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大正12年、昭和天皇が皇太子の時代にこの地を訪れている
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温泉博物館の畳部屋
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パワーストーンの『北投石』 日本には同様のものとして秋田県の玉川温泉で産出される。
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1月11日
総督府 台北市の中心部にそびえる様に建つ中華民国総統府。竣工は1919年(大正8)3月。今年で丁度100年を迎える。以来、台湾の最高統治機関として君臨。終戦後も機能はそのままで、現在も台湾の最高統治機関として現役の行政庁舎だ。庁舎のシンボルである中央塔は60mの高さがある。建物内部の見学は、日本語ボランティアによる説明を受ける。
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建物の中庭から中央塔を眺める。総統府の建物は上から見ると『日』の字になっているそうだ。中庭から見るとライトが付いている部屋がある。多分、蔡英文総統の部屋か。
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総統の執務机 
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元製薬メーカーのエーザイに勤めていたというボランティアの日本語ガイドによる説明
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 蒋介石が1975年に死去した際に全国民の哀悼の意を表すことを目的とする紀念堂の建設を決定。蒋介石生誕90年に当たる1976年10月31日に起工式が催され、1980年3月31日に完成。蒋介石逝去5周忌の4月4日に併せて落成式が盛大に行われ翌4月5日に一般公開されたたそうだ。当時は大陸の毛沢東(1976年死去)に対し、台湾は蒋介石の時代であった。そして毛沢東の死去に伴い一時代が終焉した。

 毎日午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前9時より警護及び毎時交代儀式が行われている。儀仗隊交代式は台湾観光の名物となっている。なお、儀仗隊の交代儀式は、水曜日は午前10時から午後6時まで、それ以外の日は午前10時から午後4時まで、1時間ごとに行われている。何か観光目的以外に感じない。

中正紀念堂(記念堂)
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正門
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蒋介石像
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衛兵が交替し建物に戻る
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丁度、台北市で昼食時となり、『鼎泰豊』の本店で昼食をとる。店の前は席の空くのを待つ人で渋滞。隣の席には日本から修学旅行で台湾にやって来たという高校生の集団。自分の高校生時代と比べ時代は変わったと痛感する。

鼎泰豊の本社ビル
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鼎泰豊前からは『101ビル』が見える
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 食後は台湾の東西南北のほぼ中心の『東埔温泉』に向かう。途中、桃園にある桃園市忠烈祠に立ち寄る。桃園は台北から半時間の距離にある。近くには空の玄関・中山国際空港がある。台北と新竹の中間に位置している。この街には台湾で唯一、本殿と拝殿を擁した神社の遺跡が残っている。勿論、現在は神社としてではなく、桃園忠烈祠と改められている。
 忠烈祠は国民党政府が造営したもので、国軍兵士の英霊を祀る場所として定義されている。さながら台湾版の靖国神社だ。ここは外来政権である国民党が人々に『国民』精神を強要し、国家への忠誠を誓わせた場所。1938年に台湾の人々を日本人に替えようとした『皇民化運動』が推進されていた。その意味からも複雑な歴史を持っている。たまたま、工事改修中で神社の中には入れなかった。

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 桃園から国道1号線と3号線をひたすら南へ。新竹市、苗栗市、台中市、彰化市を過ぎ、東に方向を転じ阿里山系の麓の東埔温泉へ。ここはガイドブックには載っていないと思うが、ひなびた温泉のホテルが数件ある。温泉につく途中に『集集駅』があり、日本の統治時代そのままに保存されている。台湾中部地震で大きな被害を受けたが、ほとんど元の状態に復元されたそうだ。今もレトロ調の駅を見るために大勢の台湾人が訪れる。目をつむると「紙芝居」の拍子木の音が聞こえてきそうな感じだ。

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1月12日
昨日は東埔温泉で久しぶりに日本風の温泉を満喫。ブヌン族の集落はトンボ社と呼ばれていたが、清国統治時代に『東埔』と表記が与えられた。日本統治時代に、甲状腺腫に罹った者が、この湯を飲用するうちに全治したということで、名湯の称号を得た。早朝に温泉街を散歩する。日本のひなびた温泉街そのもの。

温泉街の光景  
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桜が咲いている
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ブーゲンビリアは満開
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 東埔温泉から日月潭に向かう。日月潭は台湾南投県魚池郷に位置する湖。台湾で最も大きな湖である(ダム湖を除く)。湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。略称は明潭(みんたん、日と月の合字で明)。途中の路傍に新高山の登山口にあたる道標があり、思わず写真を撮る。新高山は現在、玉山と称する。戦後は国民党政権になり、日本の統治時代のものは極力なくす方針だったが、なぜか残った。

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 そして日月潭にある九族文化村博物館というテーマパークを訪れる。南投県魚池郷に位置する九族文化村は、創立者が台湾の先住民文化を保存し、観光事業の発展と、先祖の張達京氏が先住民たちを慰撫し豊原を開発したことを記念して建設された。1986年7月27日より正式に「九族文化村」の名で、台湾先住民をテーマとした。米国のディズニーランドに匹敵する大・中・小型のアトラクションで毎年百万人以上の来園者数を数え、最高で一年間200万人という歴史的記録も達成している。

日月潭
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少数民族の住居の様子
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少数民族の家の周りには猪の顎の骨が飾られているDSC_5869 (800x533)

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香港の国花『バウヒニア』が咲いていた
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悍な顔の少数民族の土産物店の親父
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ロープウェーから見た日月潭
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 日月潭の南畔の山裾に玄奘寺がある。1965年に建立された唐代風様式の建物。寺院の中には、西遊記で有名な三蔵法師こと玄奘の霊骨が祀られている。玄奘は、長い歳月をかけインドよりたくさんの教典を持ち帰り、仏教の発展に貢献した人物で、インドでの様子を記した石碑も置かれている。寺院の前には、土産物店が軒を連ねる。余談だが、戦前の南京の慈恩寺にあった遺骨を日本軍が持ち去り、埼玉県の慈恩寺に安置した。戦後は中国に返却すべしということで、国交のあった台湾の仏教界に返還した。そのため台湾に遺骨の一部が残る。

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1月13日
 2泊した東埔温泉から阿里山に向かう…阿里山は、鉄道、森林、雲海、日の出と夕霞の五大奇観で有名な山。一帯は国家風景区になっていて、特に阿里山駅から祝山線に乗って見に行く山頂のご来光は、睡眠を犠牲にしてでも見る価値のある絶景だそうだ。「世界三大登山鉄道」のひとつとされる阿里山森林鉄道と阿里山の自然環境は、世界遺産でもおかしくない。残念ながら台湾は国連の加盟国ではないためユネスコに参加できず、阿里山は世界遺産ではない。台湾の悲しいところだ。阿里山系の最高峰が玉山は、戦前は新高山と言われていた。そして当時日本最高峰で富士山より高い3952m。太平洋戦争の発端となった『真珠湾攻撃』の暗号が、『ニイタカヤマノボレ』であったことも有名。新高山は緯度的にハワイ諸島と同じなのでこの暗号が使われたという説がある。写真で見ると富士山と異なり連峰である。

道中は彼岸桜の様な桜が満開だ
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途中、玉山は見えなかったが、それに連なる山が見えた。阿里山や玉山の観光道路が整備されているが、土砂崩れのため交通規制されていた。
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 途中、『夫婦樹』という大木があったが、台風のため夫の大木が倒壊していた。夫人の方の大木は健在であり、現実の社会のようだ。東埔温泉から玉山の登山口に向かう。登山口には国家公園管理局の事務所があり、入山には届け出が必要。管理事務所で玉山のビデオを鑑賞する。これで登った気になり、阿里山に向かう。

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 阿里山にはクマやシカそれに猿が生息している。そして紅檜の大木が鬱蒼と茂っている。阿里山の鉄道駅はさすがに豊かな木材を活用していた。
 阿里山の開発に貢献した『琴山河合博士旌功碑』がある。阿里山の檜は密度が高く、樹齢600~700年の老大樹が多い。切り出された木材は主に日本に運ばれ、東大寺大仏殿の垂木や橿原神宮の拝殿、靖国神社の神門、東福寺の拝殿、三島大社の総門などにも用いられた。

野生の猿
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阿里山駅
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駅舎は木材がふんだんに使用されている
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阿里山の山中
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河合博士の顕彰碑
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神木駅から阿里山駅まで森林鉄道に乗る
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 阿里山から本日の宿泊先の関子嶺温泉に向かう。ここは台湾嘉義市近郊にあって、台南市白河区に位置する温泉。日本統治時代には、草山温泉(現在の陽明山温泉)、北投温泉、四重渓温泉と並び、台湾四大名湯に挙げられた。珍しい泥湯の温泉としても有名。美肌効果もあると言われる温泉はドロドロではなくさらっとした浴感。泥状の沈殿物を顔や体に塗ってパックを楽しむことも可能。おかげで疲れが取れたような気がした。



1月14日
 今日は烏山頭水庫に立ち寄り、その後、一路南の屏東東港を目指す。先ずその前に関子嶺温泉の近くにある『水火同源』という珍しい場所に寄り道。其処は天然ガスが噴出し、おまけに水がわき出ているところだ。

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右奥には天燃ガスが燃えている
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 そして烏山頭水庫へ。台湾南部には広大な平野が広がっている。日本統治以前は、この地は不毛の地であった。降雨に極端な偏りがあり、水利を得にくく、荒野が広がっていたそうだ。日本統治時代に八田與一技師が台湾中部を流れる濁水渓から水を引き、これによって斗六、西螺、虎尾、北港などの地を灌漑した。残りについては、官田渓からの上流に烏山頭ダムを設け、更に曾文渓から2123mの地下水道を設け、1億5千万㎥の貯水をする。これによって、平原の南側に給水した。と資料に記載されている。
 この一大事業は1920年(大正9)に始まり10年の歳月を要した。この『嘉南大圳』によって台湾南部は一大農業地帯となった。

 余談だが、八田は昭和17年に同様の土木工事で、フィリピンへ向かう途中、船が米軍の魚雷攻撃により沈没、絶命。現在、烏山頭ダムを見渡せる高台に八田技師の銅像が置かれている。これは戦後、国民党政府による破壊を免れるため、30年にもわたって倉庫に隠されていたそうだ。彼の奥さんも、彼の死を悲しみ、烏山頭ダムで入水している。残念な話しだ。

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記念館横のダム湖
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八田與一の社宅が復元されている
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庭は夫人の像
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庭のバナナ
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官舎の茶の間
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官舎の書斎
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八田與一の像は作業着姿で座り込み烏山頭水庫を眺めている。正装していないのが彼らしい感じがし好もしい。
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八田の目の先には鵜山東ダムが広がる
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ダム建設で使用した機関車
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 ダムの湖畔にはこの工事でなくなった人たちの慰霊碑がある。130数名の名が死亡した順に名が刻まれている。台湾人や高砂族、日本人の区別なく公平なのが好ましい。毎年5月の竣工式のあった日に慰霊祭が行われる。八田與一が台湾人から愛されているのはこのようなことか。

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 烏山頭水庫から台南市の鎮安堂に立ち寄る。鎮安堂は飛虎将軍廟(正式名称:鎮安堂飛虎将軍廟)と呼ばれ、台湾台南市安南区同安路127号にある民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている。日本の軍人がこのように祀られているのはちょっとした驚きだった。大陸の中国では考えられない。

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 さらに南下し、NHKのグレートネイチャーで放送された『月世界』というところに立ち寄る。其処は台南市の南部にある田寮というところにある。台湾人に聞いても知らないという答えが返ってきた。来て見て分かったことだが、この程度の山岳地形は中央アジアに行けば、万とあると思う。チョットがっかりだ。

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 月世界から屏東市の竹田に寄り道。ここは日本統治時代の鉄道駅があり、今もレトロな駅舎が残っている。また、すぐそばには池上文庫という図書館がある。ここは戦前池上博士が軍医として駐在していたところで、戦後も足しげく通われ日台の文化交流に尽くされた人。建物には『亜細亜最南端の日文図書館』と記されていた。

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 今日の最終目的地の屏東東港だが、そもそも屏東は『帝国最南端の都市』と言われた。南国情緒あふれる都市で、ヤシが街路樹として植えられた。随所にガジュマルやマンゴー、龍眼などがみられる。
 かつて東港は中国大陸と交易で栄えたが、高雄港の整備で衰退した街でもある。夕刻に到着したので、東港の魚市場に立ち寄る。これまでは山の中の温泉地であったので、新鮮な魚介類を満喫した。



1月15日
 今日は東港から小琉球に向かう。東港の沖合15kmの位置にある孤島。航海上の要衝で欧米人はランベイ島の呼称を用いていた。美しい隆起サンゴ礁の島で『琉球龍宮』などという美称も存在した。島全体がサンゴ礁でできている。
 何よりも素晴らしいのは望海亭から崖下を見るとアオウミガメが悠々と泳いでいるのが望見できる。

このようなチッポケなフェリーで向かう
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有名な花瓶岩
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ウミガメが泳いでいるのが見える
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島の中には無理やり作ったと思われる観光名所がある
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さすがに南国なので、ガジュマルの大木が至る所に生えている
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多分漁業を生業にしている人が多いのか、お寺には若い熱心な信者を多く見かけた。
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