18.11.29鎌倉やぐら探訪

今日はNPO法人鎌倉ガイド協会のM氏と晩秋の紅葉が映える扇が谷と瓜が谷を巡る。扇ガ谷には約300基のやぐらがあり、瓜が谷には石塔・石仏など装飾性豊かなやぐらがある。まず、北鎌倉駅に集合し、瓜が谷を目指す。折しも絶好の紅葉だ。

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【瓜が谷のやぐら】 北鎌倉の東西に広がる東瓜が谷と西瓜が谷がある。名前はもと円覚寺の正続院領で、瓜園(円覚寺菜園)があったということらしい。また、源頼朝の乳母・比企の禅尼が瓜園を作ったとの伝承もあるらしい。化粧坂に通じる交通の要衝の地でもある。一般には瓜が谷やぐらと言えば東瓜が谷を指し、西瓜が谷(通称十四やぐら)と区別される。

【西瓜が谷やぐら】 別名「十四やぐらら」。森全体が遺跡とみられ、かつては寺院があり、埋蔵品も多いと思われる。十四やぐらは鎌倉時代後期の造立。故人の追善供養のため、初七日から七日毎に五輪塔を造り、後に一周忌などの法要で増築したらしい。中央の大型の塔(四十九日法要)には梵字の一部が残っていた。

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【東瓜が谷】 5穴あり、1号穴は大型やぐら(約20畳)で「地蔵やぐら」とも言われている。壁面彫刻の種類も多く一級のやぐらと評価されているそうだ。

やぐらに行くには獣道のような道を歩く
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突然斜面にぽっかりと穴が開いている
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穴(やぐら)は20畳ほどの広さで中には地蔵菩薩像がある。このやぐらの先の葛原が岡付近は、鎌倉時代は刑場があったらしい。このやぐらの山稜部では、荼毘所の跡が発掘されている。壁面には龕と納骨穴がある。

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瓜が谷の見学を終え、それ以外のやぐら等を探訪へ。

【葛原岡神社】創建明治20年(1888)  祭神:日野俊基 俊基は後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒そうと企てた公家の一人。このことが事前に漏れ囚われたが、再びチャレンジし、再度捕まり、この葛原が岡で処刑された。死に際し「あきをまたで葛原岡に消ゆる身の露の恨みや世に残るらん」という悔しさありありの辞世の句を残している。創建当時を考えると天皇の神格化を意図したものだろう。

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境内には十月桜が満開   
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日野俊基の墓
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葛原岡神社の近くにある錢洗弁財天に立ち寄る。

【銭洗弁財天宇賀福神社】 祭神:本社→市杵島姫命 奥宮→弁財天 頼朝が夢のお告げで西北の谷に泉を見つけ岩窟を掘らせ、宇賀福神を祀り、その水を使って神仏の供養を行った。
その後、五代執権北条時頼が、頼朝の信仰を受け継ぎ、「辛巳」「なる」「かねの日」がすべての人々に福徳をもたらすというとした。以来銭洗水は鎌倉五水の一つとして天下に聞こえ参拝者が絶えることがなくなったそうだ。
宇賀福神社は、修学旅行生や遠足の児童生徒が大勢押しかけてにぎやかになっている。神社に入るには道路沿いから隧道を通り抜け、境内に至るが、道路ができる前は山の斜面であったと思われる。なぜなら隧道の上にやぐらが存在している。道路ができている現在では道路からやぐらまで7~8mの高さがあり、今は供え物を置くのは不可能だ。

境内に至る隧道
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隧道上にやぐらがある
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洞窟内は紙幣やコインを洗う人で満員
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境内にある滝 
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元々、弁財天は蛇が神のお使いをするということで、弁天さんの石像の下半身は蛇の姿だ。また、洞窟内の神様を祀った祠の隣には籠が置いてある。お賽銭を入れるものでなく、蛇の好物である卵を入れる籠だそうだ。あまり知れ渡っていないのか、卵のお供えはなかった。

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【源氏山】 銭洗弁天から近くの源氏山に向かい。昼食(と言ってもコンビニのおにぎり)を食べる。標高は92mの低い山。源氏山公園には源頼朝像がある。彼の肖像画や木像はいろいろあるようだが、多分、彼の30歳くらいの銅像だ。公園の周りの紅葉は今が見ごろ。

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【化粧坂】 北鎌倉からの通常のハイキングコースは化粧坂を登って源氏山に至るが、その逆で化粧坂を下り、海蔵寺を目指す。
化粧坂の由来は平家の大将の首をここで化粧し、首実検をしたという。また、一説にはこの化粧坂は交通の要衝の地であり、化粧を施した女性を抱えた店が多くあったとか。更に、木が勢い良く茂っていたので木生え(きはえ)と言われていたからだ言う説もある。

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【景清の牢】 化粧坂から海蔵寺に向かう山道の途中に景清の牢というやぐらがあった。屋島や壇ノ浦で勇ましく戦った平家の侍大将で、生き残り、ここに押し込められていたと伝えられている。後で知ったのだが、景清の物語は歌舞伎や文楽でも有名とのこと。

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【海蔵寺】 寺の由緒書きには 山号寺号:扇谷山海蔵寺 宗派:臨済宗建長寺派 創建:応永元年(1394)  開山:心照空外(源翁禅師) 開基:上杉氏 となっていた。 
余談だが、心照空外(源翁禅師)は「九尾の妖狐伝説」で、岩に化けた狐を倒すため、金槌で岩を砕いて倒したという僧侶。確か那須で「殺生石」の伝説がある。この僧の名が源翁で金槌のことを別名「げんのう」というようになったといわれている。一つ賢くなった。
元は建長5年(1253年)に宗尊親王の命により藤原仲能が伽藍を再建したらしいが、1333年鎌倉幕府滅亡の時に全焼したそうだ。仏殿には本尊の薬師三尊を始め、十二神将や開山像などが安置されている。庭園は建物内から拝見すると禅宗様式で非常に美しいと感じる。

山門の手前には「底抜けの井」がある
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薬師三蔵像
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境内のやぐらの中には墓石がある
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庭園よく手入れされ美しい。
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境内の裏には鎌倉十井の「十六の井戸」がやぐらの中にある。今も滾々と湧き出ている。
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【浄光明寺】 海蔵寺から浄光明寺に向かう。浄光明寺は閑静な住宅地にあり、その先は行き止まりであった。
由緒書きによると 宗派:真言宗泉涌寺派 山号寺号:泉谷山浄光明寺 創建:建長3年(1251) 開山:真阿(真聖国師) 開基:北条長時 とある。
北条氏の帰依が篤く、また鎌倉公方の保護を受けた。本尊の阿弥陀三尊は国宝である。寺の裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相の墓があった。 

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阿弥陀三尊像 
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地蔵菩薩像(矢拾地蔵)
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境内には多くのやぐらがあり今も墓所である。
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網引き地蔵は境内のやぐらの中にある。地蔵には正和二年(1313)と刻まれている。昔、由比ガ浜で漁師の網にかかって引き上げられたため「網引き地蔵」と呼ばれている。同様に「網引き地蔵」と呼ばれるものが材木座に光明寺にもあった。

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冷泉為相の墓
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浄光明寺の墓地は『東林寺跡やぐら」と呼ばれ創建・廃絶などは不明だが、今は檀家の一般墓地となっている。それらの中には「船底形天井やぐら」(切妻づくりの屋根で、奥壁に柱の跡や梁を渡した穴がある)やアパート式やぐらというべき一階と二階が数個の龕に分かれているものがある。

船底形天井やぐら
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アパート式やぐら
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今日は天気にも恵まれたので気持ちがいい。テーマ通り、『やぐら』をキーに北鎌倉からハイキング。満足できる1日であった。それにしても歩数計を確認すると2万歩を優に超えている。ア~、くたびれた。








18.11.25塩野七生講演会

芸春秋社主催塩野七生さんの講演会に行ってきました。

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 驚いたことに会場は500人程度で満員の状況。結構ファンがいるのが分かった。内容はリーダー論や、男性論が中心。内容については十分満足、久しぶりに、ホテルオークラまで出かけた甲斐があった。氏は御年81歳で、時々、名前が思い出せず出て来ないのは、小生と同じ。然し、ズバッ、と切り捨てるのはさすが。チャーミングなお婆さんだった。

 ギリシャ・ローマ時代は男性の時代なので、アレキサンダー大王、カエサル、スキピオがいい男なので、どうしても書く対象となった。彼らは規格外の男で非常に魅力があるとのこと。

 リーダーについては、先が読め、非情で孤独な決断をできる能力が必要。そして誰からも慕われるのが条件。従い、お友達を回りに集めるタイプ(例えば安倍晋三)はNG。あくまでも、孤高の人。

 中国の人民日報から『ローマ人の物語』について翻訳出版のオッファーがあったそうだ。15巻を2巻程度に圧縮し、印税は中日友好のためタダにして欲しいという条件。即座に申し出を断った。

 歴史小説は歴史的資料をベースに表現、歴史学は歴史資料のみ。小説を読んでいて、うっかり歴史と勘違いする場合がある。小生は司馬遼太郎氏のフアンであるが、司馬史観といわれる解釈については、あくまで小説と理解しいているつもり。

 とりあえず、秋の夜長をもう一度、氏の本を読み返してみようかな。

18.11.15-21中国湖南省紀行

 10年以上前になるが、湖南省には上海駐在時代に長沙の『馬王堆漢墓』(BC2世紀)を見るために出かけたことがある。そして長沙から足を延ばし、韶山の毛沢東の生家と張家界を訪れた。今回は久しぶりに張家界を中心に世界遺産である天門山国家森林公園、鳳凰古城、老司城、袁家界自然保護区、武陵源、黄龍洞などを旅した。


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  成田から張家界までは上海浦東空港で国内線に乗り継ぎ、ほぼ1日の時間を要した。

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  翌日、ホテルから天門山に出かけた。天門山は張家界市内より南へ10km離れた所に位置している。263年(三国呉永安6年)に強い地震があり、ポッカリと山腹に穴が開いた。呉景帝孫休は、これは吉祥の兆しだと思い、「天門山」の名を授けたとされる。1992年7月、国務院は天門山を国家森林公園に指定。1518mの山頂までは999段の階段があるが、ロープウェイで登ることができる。当日は点検作業で休止中。別の手段としてエスカレーターがあり7度乗り換えて頂上へ行くことができる。2006年にロシアの戦闘機がこの天門山の穴を通り抜ける離れ業を披露したことがある。

  然し、空模様はあいにくの雨模様。登山用のカッパを着用し覚悟を決めて登り始める。

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  雨でなければこのような風景を見ることができる。(写真は借り物)
天門山

張家界天門山

  エスカレーター内は雨でもOK 。

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それ以外の風景は霧が立ち込め視界不良。雨のため階段を使わずに済んだが、ガッカリで残念。
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 天門山の翌日は280km離れた『最美の古城』といわれる鳳凰古城に出かける。
 中華人民共和国成立以前の百年余り、鳳凰はずっと湘西苗区の政治、経済、文化の中心であった。全県の半分以上の人口は土家(トウチャ)族と苗(ミャオ)族である。現在、県政府のある町は依然として20世紀初めの歴史的景観を維持している。ゆったりと流れる沱江沿いには吊脚楼が特徴的な昔ながらの家々が軒を連ねている。古い建物ばかりだが保存状態は良く、評判通りの美しい街並みが見られる。

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  民家の建物は「うだつ」があり、江南地方の建物に似ている。
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  街の中には中国の作家・瀋従文の記念館がある。彼の恋愛小説は有名だそうだ。大抵の中国人は知っているようだ。小生はこの街にきて彼の名前を知った。彼の死1988年以前にはノーベル文学賞にノミネートされていたそうだ。後のノーベル文学賞受賞者の莫言氏はコメントを待越している。氏は「もし、1988年に亡くなった作家・瀋従文氏が生前ノーベル賞を受賞していたら、どんな衣装を着て授賞式に参加しただろう」と。残念ながら莫言氏は中国政府から軟禁状態にあり授賞式には参加できなかった。
 瀋氏の作品は自然を背景にしたものや、軍隊時代のもの、恋愛を描いたものが多いため、きっと文化大革命の時代は苦労されたことだろう。

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  代表作「辺城」
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  鳳凰古城の街中を沱江が流れている。この川は洞庭湖を源とし、長江に流れ着く。ゆったりとした川だ。また、吊脚楼が特徴的な昔ながらの家々が軒を連ねている。古い建物ばかりだが保存状態はとても良く、評判通りの美しい街並みだ。街の中はさながら中国版時代劇のセットのような趣、迷路のように続く石畳の路地を歩けば一気にタイムスリップした気分を味わえる。

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 さらに、街中を探索すると、中華民国時代の国務総理を務めた熊希齢の寓居かあった。今は記念館として開放されている。先の瀋従文とともに熊希齢も少数民族出身であったと思われる。

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  沱江の両岸を見ていると江南地方の蘇州や杭州の風景を感じる。中々素晴らしい。
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  鳳凰古城で宿泊したので、夜にホテルを出て散歩すると沱江沿いはライトアップされていた。昼間見た風景とは異なり、別世界の感だ。

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  鳳凰古城から20kmばかり北西に行くと貴州省の省境に『南方長城』がある。この長城は明代に南方からの少数民族の侵入を防ぐための防御用城壁である。北京や甘粛省にある長城は遊牧民族の侵入に対するもので巨大で圧倒的な感じがするが、この南方長城は控えめな感じがする。メインの観光地でないため、観光客は見当たらず寂しい長城であった。たまにはこのような観光地があってもよいと思う。

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  鳳凰古城で都合2泊したが、武陵源等の観光のため張家界市に戻る。張家界は2泊し、じっくり楽しむ。天気も良さそうだ。先ず、張家界から3時間ほどの所の老司城遺跡に行く。老司城遺跡は中国永順県東の霊渓河畔にあり、現在中国で最大規模、最も完璧的に保存されている、歴史が最も長い古代土家族の都市遺跡である。老司城遺跡は中国で2015年世界文化遺産選ばれた。

 老司城の記念博物館の展示品はかなり見ごたえのあるものであった。
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 真ん中の人物か土家族の王様  DSC_5495 (800x533)

 老司城は基礎部分を残すのみ
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  土家族は荷物を運ぶときは背中に駕籠を背負う、孫も同じ。
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  『鶏爪果』という果物、味は甘く、中々美味。然し、食べれる部分は少ない。
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  老司城から近くの『寶峯湖』に向かう。寶峯湖は武陵源風景名勝区の索渓峪保護区にあり、遊覧船で湖を観光することができる。湖では少数民族の土家族が日本の古代の歌垣の様に男女が即興の歌を唄い求婚するという。歌えなければ一生独身かと気になる。

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  男性が唄い、女性か唄い返す。のどかな風景を演出
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  船上からは静かな自然や山水画の世界が。中国人が好む水墨画の世界を感じる。
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今回の旅行のメインイベントは『武陵源観光』だ。中国の数ある世界遺産の中でも、特徴的な奇観を楽しめる湖南省張家界の武陵源景区。ここは2009年公開の映画『アバター』のモデルにもなった場所で、深い霧の中に巨大な石柱がニョキニョキとそびえ立つ摩訶不思議な世界。入山する際に指紋を登録する。入山カードと指紋照合で4日間の入山が可能だ。

先ず、袁家界へ。張家界森林公園の北に位置して標高1000メートル余り。周囲は断崖絶壁の絶景が続き、山頂へは『天子ロープウェイ』で上る。上から下を眺めると幽玄の世界が広がる、下から上を眺めると首が痛くなるほど高くそびえ立つ峰々が広がり、シャッターを押す手が止まらない。天候に恵まれなかった日が多かったが、この日は絶好のトレッキング日より。

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赤い橋は『天下第一橋』で並立した峯が崩れて橋となった。
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2009年公開の映画「アバター」の舞台となった『乾坤柱』。
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往路はロープーウェイで山に登ったが、帰路は2002年に完成した「百竜天梯」というエレベーターを利用。世界で最も長い屋外エレベーターだ。330メートルの距離を僅か1分で下る(登りも同じ)、エレベーターから外が見えるのは1/2程度だ。
断崖絶壁にエレベーターを設置する発想はさすが中国と思う。日本人ならこのような発想は浮かばないだろう。

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武陵源の金鞭渓谷に行くと野猿の群れがいた。よく観察すると人間によく似ている。特に餌を要求すこともく日本の猿比べるとおとなしい感じがした。

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  張家界大峡谷のガラス吊り橋は湖南省張家界大峡谷観光地にある。通行の道でありながら、観覧、展望台の機能も果たし、地上300mのバンジージャンプも体験することが出来る。ガラスの上に立つと下界の様子がわかり、足がすくむ。この透明なガラス吊り橋は長さからにして、高さからにして、全て世界一。しかし、カメラの持ち込みだけでなく、ガラスの上を歩くためストックや杖の持ち込みも禁止されている。また、布製の靴のオーバーシューズを穿くことが義務付けられている エレベーターもそうだが、この橋も中国的発想のたまものだ。時々、日本のテレビ番組でも放送されており、この橋がそうなのだと納得。。

カメラが持ち込みOKなら、このような写真が撮れた。(写真は借り物)
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張家界最後の観光は鍾乳洞の『黄龍洞』だ。黄龍洞は、世界自然遺産として登録された張家界武陵源景勝地からおよそ5kmのところに位置する大きな鍾乳洞。他のカルスト地形と同様で石灰岩が地下水の浸蝕により何万年もかかって形成された典型的な鍾乳洞だ。鍾乳洞の全長は約60km余りもあるそうだ。黄龍洞は、1983年に発見され、その類を見ない規模と特異な景観で、「中国一の鍾乳洞」と称されている。

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歩く部分は少なく、どちらかというと船に乗って遊覧する鍾乳洞だ。今年の春にタイでサッカー少年たちが2週間も洞内に閉じ込められて救出された事件があったが、照明の無い洞内では、さぞ恐ろしかっただろうと思った。

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鍾乳洞内はカラフルに照明されているが、非常に中国的で原色の証明であり、折角の自然の景観が台無しのような感じがする。残念だ。洞外には大きな水車が回っていたが、特に水車の動力を利用している風でなく、単なるオブジェのようだった。

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旅行の復路は上海で一泊し、翌日に成田便で帰国。
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 今回の旅行で感じたことは、中国政府が観光に非常に力を入れていることだ。特にハード面にはすごく投資をしている感じがした。ただ、イタリア等西欧の観光地と違い、元の状態や自然をそのまま残すという感じでないことが、非常に中国的と感じた。また、観光地には中国人の観光客が多く、熱気を感じる。丁度、昭和の時代の様な感じがした。中国は行くたびに変化し、新しくなっていた。


18.11.04高徳院国際フェスティバル

 今日は、天気が万全とはいえ無いが、高徳院で国際フェスティバルが開催されるというので、野次馬気分で出かけてみる。

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 気のせいか、いつもより外国人が多いような気がする。アムネスティやユネスコの展示もあったが、如何にも手作りで素人ぽっく、チョットしょぼい感じがする。これでは高校の学園祭の方が活気がある。

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 やはり人気があると感じたのは、ハロウィーンではないか゛鎌倉ということで武士のコスプレ。写真を撮ればインスタ映えするのだろう。

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 昔からの日本の遊びも外国人には新鮮なのかもしれない。

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 高徳院の国際フェスティバルはあまり知られていないイベントなので観光客も少なく寂しい感じがした。野次馬が外野席でとやかく言うのは反則たが、もうすこし宣伝活動をしたほうがいいので゛はないか。










18.11.01吉屋信子邸

  今日は吉屋信子邸が一般開放されているので、長谷を散歩がてら訪れる。

  吉屋邸玄関 
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  庭から見た住宅
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  吉屋信子は資料によれば1896年(明治29年)に新潟市の県庁官舎で生まれ、栃木県で少女時代を過ごす。父・雄一は下都賀郡長を務めた人物であるが、頑固な男尊女卑的考え方を持っており、信子は内心反発を感じていた。栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)に入学した際、新渡戸稲造の『良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。』という演説に感銘を受け、そのころから少女雑誌に短歌や物語の投稿をはじめる。日光小学校の代用教員になるが、文学への道を捨てがたく、卒業後に上京して作家を志し、1916年(大正5年)から『少女画報』誌に連載した『花物語』で人気作家となる。その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー。1919年(大正8年)『屋根裏の二處女』では、自らの同性愛体験を明かしている。
  1923年(大正12年)1月吉屋の公私を半世紀に渡り支えることになる門馬千代と運命的な出会いをする。1928年(昭和3年)、千代を伴い満州、ソ連経由でヨーロッパに渡り、1年近くパリに滞在した後、アメリカを経由して帰国した。太平洋戦争開戦直前には、特派員として蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナムなど)も訪問している。これらの経歴を見ると、当時の社会では考えられないほどの『飛んでる女性』だった。

  その吉屋邸は数寄屋建築の第一人者である吉田五十八に、『奈良の尼寺のように』と設計を依頼したと伝えられている。建屋そのものは、昭和10年に東京の牛込区砂土原町で完成したものである。その後、昭和37年にこの鎌倉に移築された。
  建物は一階平屋で、応接室、和室、寝室、書斎、台所があり、まさに尼寺の様な簡素な住宅である。

  和室
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 応接室
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  書斎
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  南に位置する庭は和室と応接室から全貌が見ることができる。特に豪華な感じがするわけでもないが、自然な品を感じる庭だ。
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   先月2日に台風24号が日本に上陸した影響で多くの植物が塩害の被害にあった。吉屋邸も例外でなく、槇の木は、葉っぱが漬物状で枯れる寸前の状態であった。よく見ると幹に『メネデール』という木の栄養剤か薬かわからないが、幹に2本差してあった。
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  吉屋邸を出てから住宅街を散歩していると、サクラの花が咲いているのを発見。
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  今年の紅葉は例年と比べて期待できそうな感じがしなかった。



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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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