シルクロード紀行(その7)

アドリア海に浮かぶステファン島
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5月15日(火)晴れ
 今日は一日中、クロアチアのドブロクニクで過ごす。この町の旧市街は1979年に世界遺産として登録され、『アドリア海の真珠』とも称せられた美しい町。この町の起源も古くはローマ時代から、ビザンチン帝国時代に保護領となり、その後ベネチアの保護領となった。小国のため、オスマン帝国やオーストリア・ハンガリー帝国の支配をうけた。また、ユーゴスラビア時代を経て独立後にセルビアのユーゴスラビア人民軍によって攻撃された。旧市街は、内戦前は5500人いた住民は現在1500人と言われている。旧市街にはミサイルが当たったが幸い不発弾で事なきを得たこともあったらしい

旧市街は城壁に囲まれている。城壁は上に登り一周できる。約20ユーロ也、高い!DSC_4639 (800x533)

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 とりあえずホテルからロープウェイに乗り高さ415mのスルジュ山頂に登る。頂上には石で造られた十字架がある。内戦時には破壊されたが、現在は修復されている。

山頂から旧市街が一望DSC_4653 (800x533)

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山頂に建てられた十字架
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聖ブレイズ、フランシスコ会修道院とその内部DSC_4683 (800x533)

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旧市街のメインロード プラッツア通りDSC_4681 (800x533)

マリン・ドウㇽジッチ広場DSC_4684 (800x533)

ドブロクニク・カテドラルDSC_4691 (800x533)

内戦時にミサイルが命中、幸い不発弾だったDSC_4667 (800x533)

ドブロクニクの旧市街は路地の街でもある、そこには生活の匂いがする
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クロアチアはネクタイ発祥の地である。ネクタイの博物館があったDSC_4687 (800x533)

 ドブロクニクは日本と異なり石の街だ。従い耐用年数が長く、1000年経っても変わらないところがある。木と石とどちらがいいか、難しい。





5月16日(水)晴れ
 今日は480km北西のクロアチアの国立公園で世界自然遺産のブリトビチェを目指す。左に美しいアドリア海を眺眼ながら進む。
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 1時間ほど走ったところでクロアチアとボスニアヘルツェゴビナの国境に着く。ここの国境通過は日本人ということで簡単に通過。ボスニアヘルツェゴビナはアドリア海に面した領土は9kmばかり、ここがなければ内陸国だ。

クロアチア側DSC_4711 (800x533) (2)

ボスニアヘルツェゴビナ側DSC_4712 (800x533) (2)

 あっという間にボスニアの領土は終了。再びクロアチアに入国。今度は通過にパスポートのチェックもなかった。随分いい加減なものだ。しかし、クロアチアはシェンゲン条約に加盟していないのに・・・。元はどちらもユーゴスラビアの国、しかし20年前には内戦があり、お互いなんかわだかまりがあるかもと心配する。以前、旧ユーゴスラビアの国々に旅行したことがあるが、民族、人種、宗教がそれぞれ異なり、様々な組み合わせの人々を一つにまとめた、故チトーは偉大だったと、旧ユーゴの人達も思っているだろう。

再びクロアチアに入国
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再びクロアチアを走ると、今度は湖や、運河のような風景に出会う。絶景!
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 昼前にスプリットの町に着く。ここはギリシャ時代から栄えた町だが、4世紀ローマ時代のデオクレアヌス帝が引退し隠居した町である。彼はいろいろな改革をしたにもかかわらず、キリスト教徒を弾圧したことでヨーロッパの人(特にキリスト教徒)にとっては、あまり評判は良くない。彼の跡を継いだコンスタンチヌㇲ帝はキリスト教の国教化を図ったことで逆に賢帝と称えられる。皮肉なものだ。
 スプリプトの町は世界遺産である。デオクレアニス帝の宮殿や街が往時を偲ばせてくれる。宮殿の地下(当時は1階)は元は倉庫になっていたようだ。海から直接、食料やワインなど運び貯蔵した。また、オリーブ油の製造もしていたようだ。

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建設当時の様子
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地下倉庫(元は地上の倉庫)の様子
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オリーブ油を搾る石臼DSC_4738 (800x533)

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油は上から流れてくるDSC_4733 (800x533)

中世になると教会を中心に大きな町となった
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 街は17世紀にオスマントルコから防衛するための城塞がある。現在はその城壁を利用し住宅や民泊用の施設になっている。港にはクルーズの船が停泊しており、ドブロクニクほどではないが、観光地として賑わっていた。街から少し離れたところには円形劇場や水道橋が今も残っている。
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街の中心に教会の鐘楼がある。中世の街の道路は狭く、軒を連ねている。
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 鐘楼(入場料約3ユーロ)に登ると街を一望できた。クロアチアに来て思うが、鎌倉市のお寺と比較すると入場料が高く感じられる。最も現地通貨のクーネで要求されるが、両替をしていないため、ユーロで支払う。公共トイレも1ユーロ要求された。

鐘楼からの眺めは抜群
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 ユーゴスラビアの解体で、ユーゴを構成していた国や民族の特徴をスロベニア人に聞いたところ、ムスリムは頭が固く融通が利かない。セルビア人は民族浄化を掲げて内戦を始めたミロシェビッチの印象が強い。クロアチア人はセコイ。モンテネグロ人は怠け者。マケドニア人はヒトがいい。という感想であった。
 スプリットの町から北のプリトビチェを目指す。約3時間で到着。5400mの長いトンネルを通過したあたりから明らかに気温は下がった。道路標識も「鹿に注意」や「熊に注意」とあった。途中の風景も素晴らしい。

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5月17日(木)晴れ
 今日の午前中は世界遺産『プリトヴィツェ湖群国立公園』のトレッキングである。ここは1979年に世界遺産に指定された。16の湖と92の滝がエメラルドグリーンの幻想的な景観を作り出している。一帯の地質は主に白雲岩と石灰岩のカルストからなり、このことが際立って特徴的な景観が生まれる素因となっているそうだ。丁度、中国の世界遺産『九寨溝』によく似ている。今回の旅行ではシルクロードやイグナチオ街道など『道』にこだわった史跡巡りが中心で、トレッキングの様なものがなかったので良い気分転換になった。と言っても高々4時間半であったが。

 プリトヴィツェ湖群国立公園は秋の紅葉のシーズンは最高だろうと思う、春の新緑も美しい。水量は十分だった。2度ばかり渡し船の様な船に乗り、対岸に渡る。野鳥の鳴き声を聞きながら整備された木道を歩く。

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落差78mの滝
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国立公園のボラティアガイドと
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 午後からクロアチアの国境を越えスロベニアの首都リュブリャナを目指す。スロベニアとの国境も比較的簡単。しかし、我々の前には大型観光バスのアジア人団体の入国で時間を取られ、結局30分ほど待たされた。
 
 スロベニアはヨーロッパアルプスの南端に位置する国で、1991年にユーゴスラビアからいち早く独立を果たしている。人口はおよそ200万人。首都はリュブリャナ。首都と言っても人口30万人程度の小さな町。オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったため、ミニ・ウイーンのような町。泊まったホテルのティールームにオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリザベートの肖像画があった。勿論本物。オーストリア政府から返還して欲しいとの要請があるらしい。ホテルの宿泊者には、秋篠宮夫妻、エリザベス女王、クリントン大統領夫妻と娘のチェルシー等が泊まったという。夕食はホテルの近くの『スシママ』という店で寿司と刺身を食べる。2か月ぶりの日本食、感激!

エリザベートの肖像画DSC_4859 (800x533)

 旧ユーゴスラビアから独立した国の中では一番ヨーロッパ的と感じた。また、独立に際しても10日間だけの戦闘で済んだようだ。従い、町そのものが美しい。





5月18日(金)晴れ
 午前中はリュブリャナの街を散策。この町は緯度的には北海道の稚内あたりに相当する。北にはアルプスがそびえる。1時間程度でウイーンに着くという。オーストリア・ハンガリー帝国の面影があり、歩いて回れるサイズの街。また、建物はアールヌーボ調のものが多い。丘の上に目を向ければリュブリャナ城が目につく。お城まではケーブルカーがあるようだ。

リュブリャナ城
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泊まったホテル
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街のシンボル3本橋
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川沿いにある魚市場は大きくはないが商品は豊富で清潔
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広場のバザール サクランボやネクタリンが旬のようだ
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アールヌーボ調の建物、高い建物がなく統一されて美しい、もちろん電柱などはない
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 アメリカのトランプ大統領のファーストレディ、メラニヤさんはスロベニアの出身。母親が縫子さんをしていた時に、メラニヤさんが子供服のモデルになったそうだ。その後はシンデレラストーリーのような人生。しかし、トランプ大統領はスロベニアでは人気がない。従い、メラニヤさんに対してもいい印象はないらしい。
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 1946年にチトーはこの建物(現在はリュブリャナ大学)のバルコニーでユーゴスラビア社会主義連邦共和国の建国を宣言した。
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 リュブリャナ市内観光の後、ヨーロッパ最大の『ボスイトナ鍾乳洞』の見学に向かう。市内から1時間ほどの距離だ。 鍾乳洞はピウカ川の透明な水が何百万年もの歳月をかけて石灰岩を削り、不思議な色と形をした全長21kmにも及ぶ鍾乳洞を形成して出来上がった。見学は地下の洞窟中心まで約2kmをトロッコ列車に乗って進む。そこからは徒歩で1.5km、その後は往路とは違った道を約2kmトロッコ列車で戻る。洞窟内は摂氏10度ということで、1時間以上洞内にいると体の芯まで冷える。

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 ボスイトナ鍾乳洞の見学を終え、スロベニアの国境を越え、イタリアへ。かつての西ローマ帝国の首都ラヴェンナを目指す。380kmの行程。






5月19日(土)晴れ
 今日は折角のラヴェンナなので一日観光する。元々ラヴェンナはローマ帝国崩壊後、6世紀に東ローマ帝国のユスティアヌス皇帝が外征でローマ帝国時代の旧領を取り戻し、都をローマからラヴェンナに移し、西ローマ帝国の首都とした。そのためラヴェンナの街はビザンチンの影響を受けた建物や文化が多く残っている。

ホテルから歩いたところに『ポポロ広場』がある。ここはベネチアが支配していた時代の広場でポポロとはpeopleの意味。ギリシャ・ローマの時代からヨーロッパは「市民」というべき意識があり民主主義の根幹をなしていると思う。ポポロ広場の隣に6世紀前半に建設されたサンビターレ教会がある。ここのモザイク画は一見の価値がある。

ポポロ広場 奥の建物は市役所
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サンビターレ教会
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 サンビターレ教会は、外見は簡素な建物だが、内部のモザイクが素晴らしい。教会がキリスト教を布教する際、当時は識字率が低かったため、絵による説明が必要だった。そのためモザイク画が発達したのだろう。

 八角形の建物の中は見事なモザイク画がある。『8』はキリスト教では縁起のいい数字らしい。8を横向けると無限大(∞)となり、永遠の意味を持つ。
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 サンビターレ教会の敷地内に『ガッラ・ブラキディア霊廟』がある。ガッラ・ブラキディア霊廟は5世紀に既に建設された。こちらは霊廟で墓である。こちらも外見は簡素だが、中は豪華なモザイク画で装飾されている。
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 ラヴェンナのサン・フランチェスコ聖堂は、9世紀後期ローマ時代のスタイルで建てられた。モザイクの床を持つ水没した暗渠のために聖壇の下は池のようである。
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 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は、美しいモザイク画が残ることで有名。信者の洗礼に使われた洗礼盤と洗礼を施す台が残っている。大きな洗礼盤は、さながら日本の初詣の神社の賽銭箱のような気がした。

サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
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聖母マリアの絵
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キリストの絵
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洗礼盤は巨大な賽銭箱の様、殆ど10、5、1セント
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洗礼を施す台
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 ダンテは政治信条によりフィレンツェから追われ、ラヴェンナで晩年を過ごした。ラヴェンナもダンテを保護したことも有名な話。そして有名な『新曲』をこのラヴェンナで書き上げた。今でも、イタリアは国語の時間に必ずダンテの新曲を学ぶそうだ。ダンテの墓はラヴェンナの聖フランチェスコ聖堂のすぐ横にある。余談だが、当時のラテン語は小文字がなかった。従い全て大文字、さぞかし読みづらかったと思う。

ダンテ(1265年- 1321年9月14日)の墓
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ランプの油は生地フィレンツェから毎年贈られる。また、フィレンツェから遺体の返還を求められているそうだ。
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ラヴェンナの街を歩いていると有名人の名前を通りの名前にしているものがある

ダンテ通り
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ボッカチオ(デカメロンの作家)通り
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 後3年で『ダンテ没後700年』を迎えるラヴェンナの町は今ダンテの関係のイベントが目白押しのようで。ポスターを多く見かけた。
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ラヴェンナも今日一日限り、明日はいよいよ最終ゴール地点のローマを目指す。







5月20日(日)晴れ
 今日はラヴェンナからシルクロードの旅の最終ゴール地点であるローマを目指す。370kmの行程。とりあえず2時間ばかり走ったところにルビコン川がある。

 カエサルは紀元前49年にローマの辺境の地、ガリアへ総督として赴く。これは、次々と改革を行なうカエサルを、ローマの支配層が疎んじた結果の左遷だったという話もある。 それでもカエサルはきっちり仕事をしてガリアを平定。 名指導者の勢いは止めることができない。勝利したカエサルは軍を伴ってローマを目指す。ローマに入るには武装解除をすることが習わしで、それを無視すれば、すなわち共和国に対する反逆とみなされた。しかしカエサルはポンペゥスのクーデターの噂に接し、武装解除せず、ルビコン川を渡ってローマに凱旋した。その際、賽は投げられたといったと伝えられている。後年、『ルビコン川を渡る』と『賽は投げられた』という言葉は、その後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断・行動の表現として使われている。ルビコン川の実物を見てチッポケ過ぎてチョットがっかりだった。多分2000年前は大河だったと思う。

ルビコン川にかかる橋
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ルビコン川はこんなに小さい
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橋のたもとにある標識
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橋を渡ったところの標識
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 橋の標識にaC49となっているが、一般的には紀元前はBC、紀元後はADと表示される。aCとはイタリア語で「アバンテ クリスト」というらしい。遺蹟などがどうして紀元前の年代がわかるのか疑問に思っていたが、当時の煉瓦はローマ人2名の執政官の名前が刻印されているからだということらしい。

ルビコン川にかかる橋
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川のそばにある掲示板にはかつての資料が掲示されていた
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カエサルの銅像
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 ルビコン川から再び、フラミ二ア街道を走りローマを目指す。フラミ二ア街道の終点はローマのポポロ門(people gate)である。そこにはポポロ広場が広がっている。都市の門や広場の名前からもギリシャ・ローマ時代から普遍的な価値として民主主義が存在していたような気がする。

 夕刻無事にポポロ門に到着。同行者と無事にシルクロードを走破したことを祝い、シャンパンで乾杯となる。いつもならアルコールは飲まないが、今日ばかりは勢いで乾杯した。

ポポロ門
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内側から見たポポロ門
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ポポロ門の先は立派な教会があった
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5月21日(火)晴れ
 今日は一日、ローマ観光で過ごす。先ず、定番のバチカン観光。バチカンを国と理解すればシルクロードの旅では16番目の国になる。博物館とシステナ礼拝堂の入場券は17ユーロ、それに予約料4ユーロを加えれば21ユーロとなる。非常に高い。ローマはそれ以外にコロッセオとフォロロマーナの入場料も必要だ。つくづくヨーロッパは物価が高い。

 バチカンに予約をしているが、予約者の列が延々と並んでいる。これだけでも30分以上並ばされた。もし予約をしていなくてチケットを購入しようとすれば2時間近く並ばないといけないのではと思う。

バチカンの博物館に入場するため、延々と並ばされる 
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 博物館の展示品は、時の権力者(勿論、教会関係者も含む)が所有しているものを自慢のために展示したのが始まり。その後はだんだん増築し、展示スペースを増やしていった。

展示品は主にギリシャ時代の彫刻やエジプトからの戦利品が多く見られた
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 ギリシャの八百万の神も展示品としては多くみられた。キリスト教の一神教では都合が悪いのではと思うが、ギリシャの神々ではなく単なる美術彫刻として理解したのだろう。

ソクラテスの像、チョット醜男 
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博物館内は、人、人、人でいっぱい
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聖ペテロの逆さ吊りのレリーフ
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キリストの死を嘆くマリア像
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システナ礼拝堂のドームの部分 
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色大理石をふんだんに使った彫刻
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 システナ礼拝堂を出れば中世そのままのスイス人の傭兵が警護している。広場には魔法使いの様な老婆の物乞いがいた。
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 宗教は神の前では平等とか、愛とかきれいごとを言う。そして、こんなに高い入場料を取っている。観光産業と宗教は別なのか、この老婆を何とかしてやれないのかと疑問に感じる。

システナ礼拝堂
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法皇を選ぶ『コンクラーベ』で決定した時、三角形の屋根に臨時の煙突を立て黒煙で知らせる
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テロの警戒のため警備は厳重 
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凱旋門前は人が大勢
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 コロッセオは人が大勢いる。ここも予約しているが、かなり並ばされる。土日ならいざ知らず、今日は月曜日。イタリアは世界遺産が最多の国なので仕方がないのかも。

コロッセオ 
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 ローマのマンホールや排水溝には『SPQR』の標示がある。これは「Senatus Populus que Romanus」(ローマの元老院と人民)という意味らしい。凱旋門の上にも表示がある。
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 コロッセオの隣はフォロロマーナの丘がある。ここは宮殿や元老院の建物があった遺跡だ。カエサルが火葬された遺跡もある。
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 今までは比較的マイナーな遺跡ばかりを巡っていたが、今日は人が多くいつもと違い非常に疲れた。
 明日は日本に向けて出発だ。





5月22日(火)晴れ
 朝7時に食事、7時半にホテルを出発する。約1時間でレオナルド・ダビンチ空港に到着。10時20分発のKLM1598便アムステルダム行きに、ひと先ず搭乗、2時間40分のフライト。アムステルダムのスキポール空港で乗り継ぎ14時40分発のKLM861便東京成田行きに登場する。スキポール空港は成田や関空のように一方通行になっていないため、搭乗口に行くのがわかりづらい。乗り換え時間が少なければチョット焦るかもしれない。

 同行の一人のYさんはローマでもう1泊しナポリから帆船クルーズで更に10日ほど旅行を続けるそうだ。気力、体力、資金力に脱帽。昨夜はローマ最後の晩で遅くまで皆で盛り上がっていたので、旅の疲れと睡眠不足でアムステルダムまでは爆睡。

ローマのホテル
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共和国広場前の喫茶スペース
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ローマ⇒アムステルダム
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アムステルダム⇒東京成田
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5月23日(水)曇
 アムステルダムから11時間のフライト午前9時に成田に到着。自宅に電話して昼食にうどんを所望。元気で帰国できたのが何より。 自宅近くのアジサイが見ごろとなっていたのに驚く。出発したころは桜が満開だったのに。



シルクロード紀行(その6)

ボスポラス海峡から見たガラタ橋DSC_4251 (800x533)


5月8日(火)曇
 折角のイスタンブール、今日は一日観光する。先ず、フェリーに乗りヨーロッパ側に移動。ホテルはフェリー乗り場までは徒歩ですぐの位置にある。フェリーに乗るとものの10分くらいでヨーロッパ側に到着。天気の加減でデッキに出ていると少々寒い。ヨーロッパ側の景色はアヤソフィアやブルーモスク、トプカプ宮殿などがよく見える。

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4本のミナレットのアヤソフィア DSC_4240 (800x533)

6本のミナレットのブルーモスク 
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 港の近くには『オリエント急行殺人事件』の舞台となった、オリエントエキスプレスの終着駅であるイスタンブール駅がある。少々ミーハーだが、レストランに入り雰囲気を楽しむ。アガサクリスティーの肖像写真などが展示されている。古き良き時代。
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 イスタンブールはボスポラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアにまたがるトルコの大都市だ。午前中はボイポラス海峡のクルージング。アジア側にも、ヨーロッパ側にも素晴らしい光景が広がる。都合、3本の橋をくぐり黒海近くまで進む。DSC_4270 (800x533)

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橋の架かっている所は海峡の狭いところなので嘗ての砦がったDSC_4275 (800x533)

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 ヨーロッパ側でクルーズ船を降りる。東ローマ帝国時代の要塞と城壁が残っているので車窓より見学。1453年にオスマントルコのメフメト2世によりコンスタンチノープルが陥落した。その時の城塞や城壁が残っている。城壁は400年代と600年代のものらしい。然し、度重なる地震などで痛みが激しい。

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 この城壁の中にかつての『イグナチオ街道』の出発の『金の門』があるということで探す。件の門は、お掘りの中側にあり、掘りを渡る橋は既になかった。そして橋を渡ったところは墓地になっていた。罰当たりなことだが、墓の上を土足で歩き写真スポットを探す。

 特に標識もないので『イグナチオ街道』の出発の門ということはわかりにくい。お墓の向こうは金網でシャットアウト。DSC_4308 (800x533)

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 市内に戻った所で『エジプトバザール』を覗いてみる。『グランドバザール』と比べここは観光用でなく庶民の生活用だ。東京のアメ横の様な気がした。DSC_4319 (800x533)

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バザールの入り口は今でもコンスタンチノープル時代の銅板の扉が健在DSC_4322 (533x800)

 バザールから路面電車に乗ってアヤソフィアに向かう。アヤソフィアは、かつて東ローマ帝国時代の西暦360年に建設された。キリスト教の総主教座が置かれ、オスマン帝国時代には帝国内で最も高い格式を誇るイスラムモスクとして利用された歴史ある建造物 の一つ。世界遺産「イスタンブールの歴史地区」として登録されている。

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 このモスクも修復中であった。さらに最大のモスクであるブルーモスクも改装中で見学はかなわなかった。帰り道に『ガラタ橋』の「サバサンド」を食べる。DSC_4344 (800x533)

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 ガラタ橋からイスタンブールの歴史地区を眺めるとイスタンブールの活気を感じる。帰路はボスポラス海峡の海底トンネルを走る地下鉄を利用する。DSC_4347 (800x533)

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 モスクの全容DSC_4368 (800x533)

モスクの入り口DSC_4367 (800x533)

モスクに至る門DSC_4363 (800x533)

モスクの内部DSC_4370 (800x533)

オスマントルコ時代の水道橋DSC_4357 (800x533)

至る所にオスマン時代の遺跡があるDSC_4360 (800x533)

国境の町イプサラまでは延々と穀倉地帯を走るDSC_4373 (800x533)

トルコの食料自給率は問題なしDSC_4375 (800x533)

 国境の出入国手続きは特に面倒なことはない。トルコ側で同行の人が荷物を検査されたが、これもおざなりで、ポーズだけ。国境の警備もいい加減。一方、入国するギリシャ側はもっといい加減な感じがした。トルコとギリシャの国境に川が流れている。この橋が両国の緩衝地帯となっている。面白いのは、橋の欄干が国旗の色でよくわかる。トルコ側は赤色、ギリシャ側は青色だ。

トルコ側の国境検問所DSC_4381 (800x533)

パスポートのチェック後スタンプを押されるDSC_4380 (800x533)
 
トルコ側DSC_4383 (800x533)

ギリシャ側DSC_4384 (800x533)

ギリシャ側のパスポートチェックDSC_4385 (800x533)

ギリシャ側の税関DSC_4386 (800x533)

 国境を無事通過し、200km先のカヴァラに向けてしばらく走ると左側にマルマラ海が見える。2時間近く走るとエーゲ海に浮かぶサモトラケ島が良く見える。この島で現在ルーブル美術館に収蔵されている勝利の神『ニケ』の像が1863年に発見された。いうまでもなく、スポーツ用品メーカー『ナイキ』のロゴになっている。夕刻ホテルに到着したが、ホテルの前は海で、眼前に似た名前のサモサス島が良く見える。この島にある城壁はすべて大理石でできているそうだ。言い換えれば島には普通の岩がなくすべて大理石ということ。

 カヴァラの町はオスマン帝国時代の水道橋がある。その行き着くところは高台の城塞。この城塞はホテルの窓から良く見えた。風景だけで少しリッチな気分らなる。DSC_4388 (800x533)

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 今日から本格的にヨーロッパの世界に入った。






5月10日(木)曇時々雨
 カブァラから260km西のギリシャ第二の都市テッサロニキに向かう。ギリシャの中央マケドニアの首都である。ギリシャの隣国にもマケドニア共和国があるが、ギリシャは名称を使うことを認めていない。日本は国連と同様にFVROM(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)で国家承認を行っており、行政公文書における日本語の表記は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となる。バルカン半島は昔からなかなか難しい。
  途中、フィリペ遺跡に立ち寄る。オリンピア遺跡にあるイオニア式の円形建築物(トロス)であり、古代において最も優美な建築物のひとつである。紀元前338年にカイロネイアの戦いに勝利したフィリッポス2世(アレキサンダー大王の父)が、その記念にゼウスの聖域の中で唯一の円形建築物を作る。これはマケドニア王国がギリシヤの覇権を握ったことを示す意味もあった。しかし、フィリッポス2世の治世では完成させることができなかった。フィリペイオンという名称もフィリッポス2世に由来している。
また、ここは聖パウロがヨーロッパで最初に布教を始めたところでもある。そのため巡礼者が多く、ホテルにはアメリカから来た老人信者で満員であった。街のはずれにはローマ時代の城壁が残っており、それなりの雰囲気のある町だった。

遺跡は世界遺産DSC_4395 (800x533)

円形劇場の跡DSC_4399 (800x533)

聖パウロ教会の跡DSC_4400 (800x533)

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VIA EGNATIA とラテン文字が読めるDSC_4411 (800x533)

イグナティア街道の跡DSC_4410 (800x533)

 4世紀ごろに建設された劇場跡の真ん中で手をたたくと反響することがわかる。音響効果を考えて作られている。劇場はその後、剣闘士の会場としても使用されたという。
 聖パウロの教会は5~6世紀のものらしい。パウロがユダヤ教徒たちに迫害され閉じ込められた牢獄があった。こんなものは後から適当に作ったのかもしれないと、ひねくれて考えてしまう。鎌倉にも日蓮受難の牢屋とかいろいろ、うさん臭い旧跡がある。

聖パウロの牢獄DSC_4405 (800x533)

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 今日はギリシャのホテルの朝食ビュッフェで久しぶりにベーコンを見た。4月12日に中国からカザフスタンに入国して以来と思う。イスラム圏から自由になったとつくづく思う。漢字からキリル文字、ペルシャ文字、ドイツ語の様なトルコ文字と変わってきたが、今はまたキリル文字となった。読めそうで読めないのが残念だ。





5月11日(金)晴れ
 今日は一日、テッサロニキで過ごす。先ず、25km郊外のペラの遺跡に行く。かの有名なアレクサンダー大王の生誕の地でもある、古代マケドニアの首都。現在は小さな村だが、そのはずれに素晴らしいモザイク画や発掘品を保存する博物館が建っている。

遺跡の発掘場所DSC_4424 (800x533)

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2300年前のモザイク画の床が残されているDSC_4428 (800x533)

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 ペラはアレキサンダー大王が生まれ育った都だが,大王が死に,主権が大王の将軍だったカッサンドロスに移ると,カッサンドロスはテッサロニキを造って都を移した。BC4世紀のことだ。テッサロニキはビザンチン帝国の時代にはコンスタンチノープルに次ぐ帝国第2の都市として栄えた。オスマントルコの時代を経て,ギリシャ独立に至り,現在もギリシャ第2の都市として北部ギリシャの中心となっている。

 ペラ遺跡の北に博物館がある。こちらもペラ遺跡から発掘されたモザイク画などが展示されていた。当時の鎧や兜を見ていると随分小柄な体型と思われた。
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 ペラから西にあるヴェルキナ遺跡に向かう。ここには紀元前400年前後のアレキサンダー大王の父、フェリッブ2世の墓があり博物館になっている。そして世界遺産でもある。外から眺めると日本の古墳のようだ。古代の王たちの墓は、ほとんどが盗掘されているが、ここは無事だったようだ。博物館内の写真撮影はNG。

世界遺産の表示DSC_4452 (800x533)
 
日本の古墳のようだDSC_4449 (800x533)

 古墳の下に博物館があり、その中にフェリッブ2世の墓がある。そして前室の扉が展示されている。勿論空調は別でガラスで仕切られ、発掘当時の状態(温度、湿度)が保たれている。扉の上には鮮やかな色彩で様々な神が描かれている。模型で見ると全室の奥に棺室がある。副葬品は金や銀で細工されたものが多く、当時が偲ばれる。展示品のフェリッブ2世の脛あてや兜、衣装など見ていると足が不自由だったことや身長が150cm程度であったことがわかる。さすが世界遺産と思った。

 時間があったのでテッサロニキに戻り、市内を見学。市内の海に面したところにローマ時代の見張塔・ホワイトタワーがあった。また、その塔には山から続く城塞の一部つながっているようだった。

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 海辺にはこの地の英雄アレキサンダー大王の馬上の銅像があった。同じような銅像はペラの町にもあった。銅像を見てわかるが、ギリシャ時代には鞍や鐙がなく裸馬の状態で乗っていた。片手で手綱を持ちもう一方の手で剣を持って戦った。道理で剣は短い。

海辺の像DSC_4459 (800x533)

ペラの像DSC_4448 (800x533)

 最後に、「アギオス・ディミトリオス教会」を見学。ギリシャでは最大級の教会とか。ガリウス帝に処刑された聖ディミトリオスが祭られている教会。中に入ると天井の高さと聖人たちの絵画の荘厳な雰囲気で心が洗われるよう。この教会は1917年に街全体が大火災に合い、一度全焼をしたと言われている。それから信心深い人々の力で1926年から1948年の長い年月をかけて再建された。

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 テッサロニキに昨日、今日と2泊するのでYシャツをクリーニングしようとホテルの価格表を見ると1枚9ユーロだ。中東からヨーロッパに来るとホテル価格なのか随分物価が高いと感じる。ローマに近づくともっと高くなるだろう。これからは節約し自分で洗濯、そしてアイロンを借りるようにしよう。





5月12日(土)晴れ
 テッサロニキを出発し一路西北にマケドニアとの国境の町二キに向かう。180kmの距離。途中はギリシャの穀倉地帯を走る。国境近くになるとマケドニアの冠雪した山が見える。標高が高いことがわかる。道中、ワインロードや考古学ロードとの表示もあった。

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 ギリシャからマケドニアの出入国は簡単だった。パスポートのチェックのみで荷物検査はない。マケドニアは1991年ユーゴスラビアから独立した際にアレキサンダー大王ゆかりの古代王国から『マケドニア』を国名とした。隣国ギリシャは『マケドニア』の国名使用に異議を唱えて、マケドニアの悲願NATOとEUの加盟を阻止している。国連ではFVROM(マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)で国家承認を行っている。今年中にマケドニアは国民投票を実施し、国名と国旗の変更を行い、ギリシャとの問題を解決し、悲願のNATOとEUの加盟を達成しようとしている。

ギリシャとマケドニアのイミグレーション ほとんど人はいなかったDSC_4477 (800x533)

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 国境から90km先のマケドニアのオフリドを目指す。オフリドはバルカン半島の大湖、オフリド湖のほとりにあり、かつては市内に365もの教会があり、マケドニアのエルサレムと呼ばれた時代があったそうだ。10世紀末から11世紀にかけて、ブルガリア 帝国の首都であった。現在でもマケドニア正教会の大主教座が置かれている。1979年から1980年にかけて、オフリドとオフリド湖はともに『オフリド地域の自然・文化遺産』の名でユネスコの世界遺産リストに登録された。

湖畔には白鳥がDSC_4483 (800x533)

山の上には要塞が見えるDSC_4486 (800x533)

湖から『聖ヨハン・カネヨ教会』が見える。DSC_4488 (800x533)

山から見た聖ヨハン・カネヨ教会DSC_4521 (800x533)

山の上には『クレメンス教会』DSC_4490 (800x533)

『聖パンテレイモン教会』DSC_4516 (800x533)

山に登ればフィリップ2世が築いた要塞の跡が良くわかるDSC_4506 (800x533)

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 旧市街には出窓が大きく道路側にはみ出しているのが、オフリドの伝統的建築物の特徴。
そのような形の建物を博物館として開放している。街灯も建物を模したものだ。
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市街地を抜けたあたりにフィリップ2世が造った円形劇場があった。3000人収容とかで今も観光シーズンにはコンサートなどが開かれる 。DSC_4503 (800x533)

 マケドニアはアルバニアと共にヨーロッパの最貧国といわれてきた。しかし、日本の暮らしと比べると日本の方が実は貧しいと感じる。





5月13日(日)晴れ
 今日はマケドニアの隣国アルバニアに向かう。アルバニアの国境の町までたった30km。そしてアルバニアの国境の町キャバサンから150kmのデュラスを目指す。アルバニアに入り1時間時計を遅らせる。日本との時差は7時間となった。
 アルバニアは1946年に王制を廃止し、ソ連の庇護のもと共産主義国家となった。その後、ソ連の修正主義を批判し袂を分かち、中国の援助を受けるようになる。近隣諸国とは鎖国状態で、国内の武装強化を図った。従い武器は全国民に行き渡り、70万以上のトーチカも造られた。中国の改革開放政策で中国とも袂を分かち、完全な鎖国政策をとる。当然経済は疲弊し、ヨーロッパの最貧国やバルカンの北朝鮮と揶揄された。最高指導者ホッジの死により、1990年から開放政策が採られ現在に至っている。
 マケドニアからアルバニアの国境超えは簡単と思っていたが、アルバニア側で車をガレージのようなところに誘導され、麻薬がないか荷物検査をされそうになった。時間を取られるのは嫌だと思っていたら運転手が気をきかせ、パスポートリストの下に幾ばくかのユーロ紙幣を挟み、手渡し事なきを得た。現実に賄賂を公然と送るのを目撃したが、あまり気持ちのいいものではない。一遍にアルバニアの印象が悪くなった。国境は標高1000mで涼しく感じる。

ギリシャ側で国境に行く途中に馬喰とすれ違うDSC_4532 (800x533)

国境で民族楽器を売りに来た親父DSC_4536 (800x533)

ギリシャ側のパスポートチェックDSC_4533 (800x533)

アルバニア側のパスポートチェックDSC_4535 (800x533)

このガレージで麻薬云々と賄賂を要求されるDSC_4538 (800x533)

同じ被害にあったと思われる人たちDSC_4540 (800x533)

ホッジ時代のトーチカ、日露戦争時代ならいざ知らず、こんなものが役に立つか疑問DSC_4545 (800x533)

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 アルバニアのデュラスの町に行く途中、数日前の大雨で土砂崩れ、然し、片側車線通行で、影響なし。もともと交通量が知れている。DSC_4550 (800x533)

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 マケドニアは元々ユーゴスラビアの国の一部であったが、アルバニアは最初から、独立国家であった。人種的にも民族的にも異なる。マケドニア人はスラブ系、アルバニア人はインド・ヨーロッパ語族のイリリア人と言われている。言語も全く違うそうで隣国同士でも双方のコミュニュケーションは専ら英語となるそうだ。
 目的地デュラスの町はアドリア海に面しオシャレな感じがした。ただ、観光地だからか、大人や子供のロマ(ジプシー)の物乞いが多いのには閉口。ルーマニヤ、ブルガリア、ギリシャなども同じ。

 デュラスの町はギリシャの植民地であったが、ローマ時代は帝国の一部となった。紀元2世紀にアナスタシア皇帝時代に造られた半円形の劇場を見学する。ただ、この劇場は2度の地中海地震による津波で大部分が崩壊していた。元は収容数17000~20000という。
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 市内にはビザンチン帝国時代の城壁跡があり、歴史の長さを感じる。また、オスマン帝国に支配された時代が500年間も続いたので、大部分のアルバニア人はイスラム教徒となった。ただ、1967年から『無神国家』の宣言し、全ての宗教を否定した。解放されてからはあまり熱心な信者はいない『ナンチャッテ・イスラム教徒』ようだ。なぜならスカーフをまとった女性をあまり見かけない。

 イスタンブールからの『イグナチオ街道』はこのデュオの街が終着点であり出発点でもある。現在はイスタンブールと同様に『門』が残っていた。ただ、門はワインバーの一部の装飾として残されていた。そのバーの名は『Portiku』という。アルバニア語の意味はメインドア、つまりイスタンブールの『金の門』に対し『主門』とでも言うのか。

ビザンチン時代の城壁と見張り台DSC_4556 (800x533)

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『イグナチオ街道』の主門はバーの中 DSC_4570 (800x533)

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デュラスの街は港町。ホテルのプライベートビーチ、この向こうはイタリアのバーリ辺りかDSC_4574 (800x533)

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 アルバニアはマケドニアと同様EUのメンバーではない。しかし、加盟を希望しているようだ。300万人の人口のうち150万人が海外に出稼ぎに出かけている。仕事は観光産業程度で経済的には厳しい。






5月14日(月)晴れ
 今日の行程は、アルバニアのデュラスから120km離れたモンテネグロの国境に行き、国境通過後、100km先のコトルの町に行く。そこから更に50km先のクロアチアとの国境に行き、国境を通過し40km先のドブロクニクに行く。計310kmの行程。

 アルバニアとモンテネグロの国境の出入国手続きは非常に簡単。左側の窓口がアルバニア、右側の窓口がモンテネグロだ。こんな国境はみたことがない。DSC_4584 (800x533)

 アルバニアはガソリンスタンドが多かったが、理由はマネーロンダリングとか、どのような方法でマネーロンダリングをするのか不明。もともと、解放前のアルバニアは自動車が1000台ほどしかなかったそうだ。国が混乱すれば闇屋の様な奴がぼろもうけ。これは真実。

 モンテネグロのコトルの町に入る前にアドリア海に浮かぶステファン島を見る、絵葉書のよう。コトルに入っても絵葉書の風景は続く。

ステファン島DSC_4587 (800x533)

コトルの街の城壁DSC_4588 (800x533)

 コトルの町は古代ローマ時代から始まる。町が大きく成長したのは10世紀にベネチアの保護領になってからだ。地中海貿易の中継地点として発展した。

 街の丘の上には1518年建設の聖母教会DSC_4589 (800x533)

街の中心は1602年建設『時計広場』DSC_4596 (800x533)

1166年聖トリファン大聖堂
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1909年聖ニコラス教会
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1732年グルグリナ宮殿(海洋博物館)DSC_4606 (800x533)

1195年聖ルーカ教会
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 コトルの街全体が博物館のようだ。丘の上の聖母教会までゆく。少々きつい上り坂。入山料は8ユーロ也、高い!  しかし丘の上からの眺めは最高。丁度、フランスのクルーズ船が入港していた。道理で欧米人の観光客が多かった。

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 コトルからクロアチアに行くのにコトル湾を浜沿いに回ってもよいが、フェリーを使ってショートカットする。ものの10分ほどだった。フェリーは次から次に出ている。風景はフィヨルド海岸で美しい。DSC_4628 (800x533)

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モンテネグロの出国手続きDSC_4629 (800x533)
 
クロアチアの入国手続きDSC_4630 (800x533)

 モンテネグロは福島県ほどの大きさ。クロアチアは北海道と同じくらい。どちらもあっという間に隣国に至る。どちらもよく似た風景なのは共にベネチアの保護領だったからか。

 モンテネグロはまだEUに加盟しておらず現在交渉中。しかし通貨はユーロを使用。  一方クロアチアはEU加盟を果たしたが、通貨はクーネという独自通貨。バルカン半島はややこしい。



シルクロード紀行(その5)

トルコ マチカのスメラ僧院DSC_3961 (800x533)


5月1日(火)晴れ
 アジアハイウェーを西に走り、かつてのイルハン国の首都タブリーズを目指す。距離は280km。ハイウェーを走っているとガソリンスタンドの看板があり、価格をチェックする。ガソリン1ℓは約30円、軽油は約10円だ。産油国なので当然のことと思う。しかし、ガソリンを精製する施設が足らないらしい。40%を輸入に頼っているとか。自動車の価格は日本車なら2~3倍になるらしい、贅沢品には高税率をかけている。
  目的地タブリーズはイランで4番目に大きな都市だ。古来よりシルクロードの交差点として栄えた都市。そのため交易の中心地として大きなバザールがあり、世界遺産にも登録されている。

 ハイウェーを走っていると、この辺りも『丹霞地形』の様な山が続く。途中で羊飼いの少年に出会う。非常にシャイな子だった。あまり豊そうでない村の子どもで、学校はどうしているのかと心配になる。彼にしたら大きなお世話かもしれない。

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 道路沿いには薄紫の花が咲いていて、絨毯のようだ。小さい花なので残念ながら北海道のラベンダーのようにはいかない。DSC_3830 (800x533)

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 タブリーズで世界遺産のバザールを覗く。もともとキャラバンサライが発展してできたものらしい。当時の商人は1階に商品を並べ二階に宿泊したようだ。道路に面したところは宝石店が並んでいた。中に入ると香辛料、ドライフルーツ、雑貨、食肉と様々だ。ここは生活のにおいがするバザールで、観光用ではないと思う。DSC_3837 (800x533)

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 外の様子はチョットしたショッピング街 DSC_3849 (800x533)

宝石屋が多く集まるコーナーDSC_3839 (800x533)

ドライフルーツ屋DSC_3840 (800x533)
  
イスラムの坊さんもお客だDSC_3845 (800x533)

羊のお尻の肉が一番うまいらしいDSC_3841 (800x533)

豚足でなく牛足、誰が買うのか?DSC_3846 (800x533)

 時間があるので、約60km離れたキャンドワン村に行く。ここは13世紀モンゴルの来襲で養蜂を営んでいた人たちが逃げ隠れ住んだ村だ。丁度、トルコのカッパドキアのミニ版のように山の岩肌を掘って暮らしている。しかし、観光用ではなく、道には羊やヤギの糞のてんこ盛りで生活の場という感じ。800年前から今も養蜂と牧畜が主な仕事。キャンドワンとはペルシャ語で「命がけで掘る」という意味。また、「ハチの巣」の意味もあるそうだ。

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 案内してくれた人のリビングルームに掘りごたつがあった。住宅は、夏は涼しく冬は暖かいそうだ。DSC_3855 (800x533)

近くから3937mのジャム山が見えたDSC_3852 (800x533)






5.月2日(水)
 今日は延べ9日間滞在したイランからトルコに移動する。イラン側の国境の町バザルガンまでは270km。5135mのアララト山が見える。この山はアルメニアが領有権を主張しているが、当然トルコは応じない。アルメニアの紙幣にはこのアララト山が印刷されている。日本円札に『竹島』や『北方四島』を印刷するのと同じか。また、アララト山は『ノアの箱舟』が流れ着いたという伝説で有名だ。国境は標高1400mの位置にある。

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 イランの出国手続きは意外と簡単だった。緩衝地帯を過ぎて、トルコ側に行けば荷物検査もなく拍子抜け。日本人と云えばフリーパス同然の扱い。トルコが好きになる。

イランの荷物検査DSC_3887 (800x533)

緩衝地帯DSC_3884 (800x533)

  トルコに入国するとトルコ国旗が翻っている。ここからもアララト山が良く見えた。国境の周辺は露土戦争でトルコが敗北してこの辺り一帯を支配された。しばらくして日露戦争が勃発、日本が勝利しトルコ人は留飲を下げたそうだ。その時、トルコで東郷平八郎を尊敬するあまり、『トーゴ―ビール』が売り出されたという。また、トルコの軍艦エルトゥール号の遭難で和歌山の串本の人達が必死に救出作業をしたこともあり日本贔屓だ。この軍艦の将兵救出のことはトルコの教科書に掲載されているらしい。

トルコに入国DSC_3889 (800x533)

アララト山は美しいDSC_3899 (800x533)

検問中の兵士の撮影はNGのためうまく撮れないDSC_3903 (800x533)

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 途中、食事のため小さな町に立ち寄る。クルド人の町らしい。ちょっとしたバザール。30年前からこの辺りはクルド人問題でトルコにとっては頭の痛い問題だ。

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街の片隅からアララト山が見える。DSC_3906 (800x533)

この辺りも結構標高が高いDSC_3907 (800x533)

 アラス川にイルハン国の時代にモンゴル人が造った橋がある。名を『羊飼いのお爺さんの橋』というらしい。この川はジョージアを経由し黒海に流れる。橋は今も現役。DSC_3917 (800x533)

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道路と並行し走っている鉄道は知らない間にそばまで来ていた。DSC_3916 (800x533)

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 道路のそばの崖の上は13世紀に造られた城塞がある。西からは十字軍、東からはモンゴル軍が押し寄せた。まさに西洋とアジアの狭間の国トルコだ。DSC_3925 (800x533)

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5月3日(木)晴れ
 エルズルムの町から280km北上し、マチカの町を目指す。位置的には黒海の直ぐ近くの町である。タウルス山脈を越えるため、何度か峠を越すことになる。また、最初の峠(2900m)の近くにユーフラテス川の源流があった。ここからイラクを経てペルシャ湾にそそぐ。残念ながら写真は撮れなかった。

最初の峠には露土戦争でこの地域の戦死者の慰霊塔があったDSC_3930 (800x533)

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 山道をしばらく走ると、『バイブルト城』が見える。紀元前からあったらしいが、6世紀に東ローマ帝国のユスティアヌス皇帝が改修し、東ローマ帝国の東限の城塞としたそうだ。トルコ人のガイドが気を利かせ市の観光局と連絡を取ったところ、責任者が現れ、案内していただいた。城塞の上からの眺めは小さな町だが川やモスクのミナレットが美しく素晴らしかった。ちょうど我々が城塞についた時は地元の小学生が、遠足で訪れていた。屈託のない子供たちで日本から来たと知ると興味津々で近づいて来る。

城塞は現在修復中、いつまでかかるのかわからないそうだDSC_3935 (800x533)

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小学生だけでなく先生も日本人がチョット気になるようだったDSC_3939 (800x533)

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城塞の上からの眺めは素晴らしいDSC_3937 (800x533)

この川は山の間を通り黒海に流れるDSC_3952 (800x533)

 ヂガナ峠を越えるとマチカの町に出る。ここまで来ると黒海からの湿気で風景が一変し、日本の田舎のように樹木が多く目につく。時間が有ったのでマチカから20kmほど山に入り中世のスメラ僧院を見に行く。スメラ僧院は山肌にしがみつくように建っていた。それはギリシャのメテオラの僧院のようだ。日本の山岳仏教の寺のようにも思える。ただ、残念なのは、1923年にロシアの支配下から独立したトルコは事実上この修道院を閉鎖した。現在、人もおらず、道路も修復中で近寄ることができなかった。トルコ政府はイスラム教でないギリシャ正教には冷淡なのかと勘繰ってしまう。

スメラ僧院は山肌にしがみついている。僧院の谷底には川が流れているDSC_3959 (800x533)

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谷川の水は結構水量があったDSC_3958 (800x533)

山肌は花が咲き日本的な風景DSC_3956 (800x533)

 夕刻ホテルに着くとホテルの直ぐそばの警察署に機関銃を装備した装甲車3台が止まっていた。こんな平和な感じの田舎町にチョット不釣り合いに感じる。DSC_3967 (800x533)





5月4日(金)晴れ
 今日は黒海沿いを約500km移動する。先ず、北に向かいトラブゾンへ、ここで黒海に突き当たる。「タラサ、タラサ(海だ、海だ)」とトルコ人は言うそうだ。ここから西に向かう。黒海にはドナウ川が流れ着く。水質汚染の元凶らしい。黒海の塩分濃度は一般的な海の3.5%よりより薄い1.4%。因みに地中海は4%らしい。この辺りは夏も涼しく海水温も低い。1時間ほど走ったバクケレクでパン屋に入る。このパン屋はTV朝日で紹介されたことがあるとか。とにかく大きくて焼き立てのパンにバターをタップの塗り、さらに蜂蜜をどっぷりとかけて食べる。パンの価格は300円程度か。トルコ人もオープンエアーの席で食べていた。我々も同じく試食する。パンを焼くところも見学したが、非常に清潔な感じがした。

この辺りはこのようなパンが特産品とかDSC_3975 (800x533)

トルコ人たちが遅めの朝食DSC_3974 (800x533)

パン屋のオーナーがバターと蜂蜜をかけるDSC_3973 (800x533)

バターと蜂蜜たっぷりで満腹DSC_3972 (800x533)

ショーウインドウにはとにかくでかいパンDSC_3968 (800x533)

記念に店員と写真をパチリDSC_3979 (800x533)

 黒海を右に見て、北アナトリア山脈を左に見ながら西に進む。バスは海と山の間を縫うように一路西へ。風景を見ていると日本海側の鳥取県や島根県を走っているような気がする。走行中、モスクからのアザーンが聞こえてくる。イランと比べるとスピーカーで結構大きな音がする。イランは1日3回。トルコは5回。イランよりトルコの方が戒律は緩やかなのに逆のような感じがする。

 途中のギレスンでサクランボを食べる。サクランボで有名な山形県の寒河江市と姉妹都市らしい。しかし、こちらはアメリカンチェリーの様な品種だ。姉妹都市のモニュメントがあるといので探すが、見つからなかった。

 昼食は海岸近くのレストランで黒海の魚を食べる。魚と言ってもイワシやサバである。魚屋の店頭に有る魚の種類も日本と比べるとはるかに少ない。レストランで食べ残したパンをかもめが食べに来る。砂漠ばかりだった旅行は一変してしまった。
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 サムソンの町の手前にあるヤソン教会に立ち寄る。120年前のギリシャ正教会だが、今は廃墟。中に入ると見事に何もなかった。教会の直ぐそばにも灯台以外は何もなし。DSC_4002 (800x533)

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 しばらくすると、結婚記念の写真を撮りにカップルがやって来た。何を好んでこんな何もないところにと思ったが・・・写真を撮れと声をかけられる。DSC_4013 (800x533)

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 サムソンを過ぎた海辺に古めかしい船の記念モニュメントがあった。ムスタファ―・ケマル、後のトルコの父アタチルクがイスタンブールから逃れてきた船とのこと。革命も順調に成就したわけではない。DSC_4014 (800x533)






5月5日(土)晴れ
 今日の天気は快晴。一日移動せず、アマスヤの町を堪能する。この町は古代ヒッタイト時代(BC2300~1950)からの城塞がすぐ街のそばにある。登ってみると街を一望のもとに見下ろせる。紀元前3~1世紀にこの町を支配したポントス王国の王の墓を始め、セルジューク朝やオスマン朝時代のトルコのアナトリアの個性溢れる歴史の町だ。

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城塞からは街が一望できる。屋根は赤色、壁は白色で統一され美しいDSC_4030 (800x533)

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 雑草には陸棲の巻貝、つまり「かたつむり」がいる。このカタツムリはトルコでもこの地方にしかいないという。チョット気持ちの悪い生き物だ。その多いことも驚きDSC_4028 (800x533)

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 城塞を後にして町にある博物館を覗いてみる。ヒッタイト時代からの歴史がわかる博物館、あまり大きくはないが、モンゴル時代の知事のミイラ等が何点かあり興味をそそられる。

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子供のミイラと大人のミイラ。大人のミイラは大男の様な気がしたDSC_4044 (800x533)

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数珠の一部と思われるガラス製の玉。  上が説明文で下が実物(1cm程度)DSC_4049 (800x533)

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 棺桶の変遷、左はローマ時代で銅製DSC_4042 (800x533)
 
ヒッタイト時代の屈葬DSC_4041 (800x533)

 町の川沿いの岩壁にポントス王(BC3~1)の墓が5か所あり見学する。ここもかなりの坂道でトレッキングとなる。5か所を全部見学したが中には何もなかった。チョット拍子抜けDSC_4055 (800x533)

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夕食まで少し時間がありタウンウオッチングとなる。チャイを楽しむ男たち。日がな一日、おしゃべりで過ごす。チャイは30円~50円程度。DSC_4080 (800x533)

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 今日は日がいいのか結婚式と卒業式があったようだ。花嫁とおつきの少女。よく見るとイスラム式のベールだ。それにしても美人だ。DSC_4062 (800x533)

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こちらも卒業式の記念写真DSC_4078 (800x533)

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今日は久々の休養日となった。夕食後はたまった洗濯をし、明日はまたコンヤに移動だ。







5月6日(日)曇
 今日はアマスヤから南のコンヤまで560kmの行程だ。コンヤはトルコ中南部に位置する古都。歴史は古く紀元前3000年の青銅器時代から続いている。メヴラーナの旋回舞踊でも知られる。
途中のボアズカレに寄り道し、ヤズルカヤ・ハットシャシュに立ち寄る。此処はヒッタイト帝国時代の祭祀場遺跡がある。約3400年前の遺跡で世界遺産でもある。高度な製鉄技術で鋼[はがね]までも作っていたとされ、二頭の馬が曳く三人乗りの二輪戦車(チャリオット)などで周辺国を圧倒した華々しい歴史がある。現在は広大な丘陵地に数々の石でできたレリーフや建物群の基礎の跡が残されている。ヒッタイト人はその後どうなったのかわからない。青い目をしたトルコ人が末裔ともいう。トルコ人は中央アジアから来て定着した。

世界遺産の表示DSC_4086 (800x533)

大勢の兵隊のレリーフDSC_4089 (800x533)

 この大ギャラリーで最も神聖な場面が彫られており、神聖な場を演出するために塞がれたものと思われる。DSC_4090 (800x533)

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別の場所では建築群の遺跡がある。基礎部分だけだが、かなりの建物があったことに驚くDSC_4103 (800x533)

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 この写真は兵士が戦場に赴く時の出征の門というべきもの。戦争の神様が門の石柱に彫られている。門を抜けると戦場への道が開けている。DSC_4125 (800x533)

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 70mものトンネルがあり中に入ってみると、人が一人通るには十分なトンネルであった。たまたま、トルコの大学生が来ており、にぎやかにトンネル内で騒いでいた。DSC_4134 (800x533)

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 3400年前はこの辺りは森林におおわれていたそうで、その後の気候変動で森がなくなり、草原の丘陵地となった。日本の歴史ではなかなか考えられない長さと変化だ。

 ヤズルカヤ・ハットシャシュの遺跡から200kmほどのところにトルコの首都アンカラがある。アナトリア高原の中央に位置している。昨年この地で暴動が起きたため、迂回してコンヤに向かう。丁度にわか雨が降ってきて、アンカラの町ははっきりとは見えなかった。DSC_4141 (800x533)

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5月7日(月)晴れ
 今日は午後からイスタンブールに向けて列車YHTのビジネスクラスで移動だ。距離にして780km。乗車券代は150トルコリラ(約4500円)だ。チケットというよりA4の用紙に氏名と列車番号、時刻、座席番号などが印刷されている。発車時刻は12:55でイスタンブールの到着時刻は17:05であったが、イスタンブール到着は約1時間遅延した。
 午前中はコンヤの町を回ってみる。コンヤは農業の町でもあるが、歴史の町、宗教の町でもある。先ず、700年前のアラティンモスクを見学、一部修復中であるが、700年の年月を感じさせないモスクであった。

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建設当時の柱は木造であったが、現在は一部石造りDSC_4153 (800x533)

近くから別のモスクが見えるDSC_4156 (800x533)

すぐ近くには聖パウロ教会がある。聖パウロがここまで伝道に来たという。DSC_4157 (800x533)

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セルジュク朝時代のミナレットDSC_4166 (800x533)

オスマン帝国時代のモスクDSC_4163 (800x533)

 街には宗教的な建築物が多く見かける。どれもこれも由緒があるような気がする。この町は他のトルコの街と異なり、イスラム色が強いと感じる。女性が目だけ出しているベール姿が多く目につく。

 セルジュク朝時代メヴラーナのモスクは、元は墓地であったらしい、それがだんだん訪れる人が多くなり、モスクや神学校となった。メヴラーナは、元は哲学者であったが、魂の開放をめざし胡旋舞を始めた。今でもモスク内には胡旋舞をする場所とお祈りをする場所がある。
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胡旋舞をする場所DSC_4186 (800x533)

お祈りをする場所DSC_4187 (800x533)

 5年ほど前にトルコに来た時は女性が目だけ出すチャドルを身に着けた人を見かけなかった気がするが、コンヤは特に多いと感じる。アタチルクが政教分離をし、宗教から国民を解放したのに、今の政府は逆行しているのではないか。トルコにとっては残念な気がする。

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コンヤの駅からイスタンブールまでの列車はスペイン製らしい。中々乗り心地はいい。DSC_4210 (800x533)

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座席は二人掛けと一人掛けの三列DSC_4215 (800x533)

機内食の様なものが出るDSC_4211 (800x533)

 列車は約1時間遅れて目的地に到着。謝罪のアナウンスはない。トルコの列車は、いつも遅れるとか、日本では間違って20秒早く出発した列車の車掌がお詫びのアナウンスをしたと話題になったが、トルコが異常なのか日本が異常なのかよくわからない。

 今回の旅行で列車を利用したのは、中国の柳園⇒トルファン、ウルムチ⇒イーニン、ウズベキスタンのサマルカンド⇒ブハラ、イランのマシャド⇒テヘラン、トルコのコンヤ⇒イスタンブールの5回。いずれも服務員のサービス等よく、快適な列車だった。

 シルクロードの旅もいよいよヨーロッパに突入。シルクロードも唐の時代はこの地イスンブール(コンスタンチノーブル)までであったが、漢の時代はローマまであった。振り返ってみれば砂漠や峻険な山道など難所は中央アジアまでかと思う。ローマまではあともう少しだ。

 少し時間が合ったので海峡を結ぶフェリーに乗りアジアとヨーロッパを行き来する。あいにくの雨で対岸がかすんで見える。
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シルクロード紀行(その4)

テヘラン ゴレスタン宮殿DSC_3572 (800x533)




4月24日(火)晴れ
 今日はトルクメニスタンからイランに陸路移動する。アッシガバードから標高1600mのバシギラン国境に行く。国境までの道のりは山の中なので鹿を見かける。トルクメニスタンの国境での出国手続きは簡単に終了、緩衝地帯を通過しイランの入国手続きをする。荷物検査は簡単であったが、両手の10本の指の指紋を採られる。スタンプインキが少ないのでなかなかうまくできない。担当官は苦笑いしながらOKという。あまり意味のない検査と思う。結局1時間以上かかった。空は碧空で気温も低く気持ちの良い国境越えだった。国境を越えて考えたら、今回の旅行は、東アジアから中央アジア、そして中東にやって来たことになる。これからはさらに欧州へと先は長い。

トルクメニスタンの山 DSC_3504 (800x533)

イランの山DSC_3505 (800x533)

イランの国境事務所DSC_3502 (800x533)

 1979年にイランはパーレビ国王を追放し、『イスラム革命』が起こった。アメリカとは敵対関係となり、以降経済封鎖を実施され現在まで苦しい状態が続いている。当時の人口は3500万人であったが、イラン・イラク戦争などあったにもかかわらず、現在は8000万人だ。従い、若い人が多い国だ。40年前の通貨の価値と比べ1/1000に下落したという。両替をしたところUS$50は2,100,000イラン・リアルであった。これからチップや買い物の換算は少々不便だ。

 現在のイランの悩みは経済制裁もさることながら、『水』が足らないことだ。昨年はいつもの30%しか雨が降らず、水不足に陥っている。原因は異常気候もあるが、農業用水の乱用らしい。水の消費の90%が農業用とか。効率の良い水資源の活用についてJAICAが頑張っているらしい。因みに新しく建設されるホテルはバスタブを禁止しているとか。
 インターネットの状況はやはり厳しく規制している。Facebookが使えない。Facebookの使えない国は経験で、中国、トルクメニスタン、イラン、キューバだ。北朝鮮の状況はどうか知らない。

 国境からイラン第二の都市マシャドに向かう。ハラメ・モタッハル広場にはエマーム・レザーの霊廟がある。ここはシーア派の総本山というべきところだ。イスラム暦の正月が終わったところなので多くの信者が訪れていた。宗教の敬虔な場所なので写真撮影はご法度である。至る所に監視の係員がおり、ハタキの様なものをもって眼を光らせている。ただ、スマホの持ち込みはOKで、良くわからない。
 霊廟からの帰り道、地元のバザールを覗いてみる。一般の生鮮食品はなく専らサフランやスパイス、偽ブランド品、衣料品などが中心。店先から「ニーハオ」と呼びかけられる。こちらも中国人の爆買いが浸透しているのかも。

バザールの入り口 何故かホメイニ氏とハメネイ氏の肖像画DSC_3511 (800x533)

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4月25日(水)晴れ
 今日はマシャドから740km先のテヘランに移動。移動手段は鉄道。マシャド駅を11時40分に出発し、19時50分着の予定。然し、到着は20時20分で、結果は8時間半の鉄道旅となった。このようなことは珍しいことでなく許容範囲。

マシャド駅DSC_3513 (800x533)

駅のコンコースDSC_3514 (800x533)

駅のコンコースにホログラフによる3Dの鉄道の宣伝DSC_3517 (800x533)

列車名は『パラダイス号』。ファーストクラスに乗車。車掌は美人DSC_3521 (800x533)

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 マシャドを出て1時間ほど経って、最初の駅に停車。お昼のお祈りの時間とかで、20分間停車。プラットフォームにはお祈りのための『Prayer Hall』があり、信者はそれぞれ男女別々のホールでお祈りをする。

男子用ホールDSC_3527 (800x533)

女子用ホールDSC_3531 (800x533)

 イランのイスラム教徒は大きく分けると3タイプがある。Aタイプはイスラムの戒律を厳格に守り、女性の場合は黒づくめのチャドルを着ている人。Bタイプはイスラム教徒と自覚しているがその時々で守ったり、守らなかったりする人。Cタイプは宗教警察がうるさいため、女性の場合は形だけスカーフをするが、信仰はしていない人。車内で見ているとお祈りに行かない人がいる。よく見ると結構化粧をしていて髪の毛も半分以上スカーフからはみ出している。Cタイプの人は美人が多いと感じた。因みに、日本人は99%がCタイプと思う。お寺の坊さんもBタイプまたはCタイプだろう。Aタイプはオウム真理教の信者くらいだろう。

 お祈りタイムが終了し列車が出発すると。ランチが配られる。あまり、うまいと思わないが、ごはんに鶏のケバブと焼きトマト、それにヨーグルトとナンとコカ・コーラ。米国と敵対関係にあるがなぜかコーラだった。ご飯は長粒種なのでぱさぱさして食べにくい。

飲み物はランチの後でコーヒイや紅茶が出る。全てサービスで航空会社のサービスに似ていると思う。
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 列車からの眺めは延々と砂漠が続く。日本なら山や海、都会の風景等飽きないと思うが、良く眺めていると、ただの砂漠だけでなく、遠くに冠雪した山が見えたり、中国で今売り出し中の『丹霞地形』のように色がきれいな山もある。

砂漠というより土漠DSC_3533 (800x533)

遥か彼方の山は冠雪しているDSC_3542 (800x533)

『丹霞地形』の様な山々DSC_3544 (800x533)

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  風景に飽きるとシートに持たれて口を開けて爆睡。やはり長距離の移動で結構疲れが抜けない。今日はホテルでゆっくり寝よう。

テヘラン駅に到着 DSC_3562 (800x533)

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4月26日(木)晴れ
 今日はテヘランを夕方まで観光し、イランに来た以上は世界遺産のペルセポリスなどを見るため、シルクロードからは外れるが、寄り道をする。先ず、16時5分発の国内線で南に位置するシラーズを目指す。到着は19時15分だ。

 テヘラン観光はゴレンスタン宮殿と考古学博物館、そしてガラス博物館だ。
 ゴレンスタン宮殿はガージャ―ル朝の王宮として使われていた豪華絢爛なものだ。庭園はペルシャ式庭園で美しい。イランの休日は一般的な国と異なり、木、金曜日であるため今日は多くの人が街で休日を楽しんでいる。街角にはキャンディやナツメヤシのドライフルーツなどを食べろといわれる。これはイスラム教の施しの習慣らしい。意地汚く行為に甘える。街を走る路線バスは男性と女性の席が分かれており、乗り降りの扉も異なる。米国の公民権運動以前のバスの『ホワイトオンリー』を思い出す。ここは差別でなく宗教だ。

男性は右の扉から乗り降りし前方座席、女性は左の扉から乗り降し後方座席。DSC_3570 (800x533)

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 ゴレンスタン宮殿は非常に豪華で美しい。ペルシャ帝国を彷彿とさせる。特に鏡を多用しているためキラキラと輝き豪華な感じだ。

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 考古学博物館はイランの歴史のすべてを見せてくれる。紀元前6000年から19世紀に至るまでの考古学的、歴史的に重要な美術品を集めたイラン最大の博物館だ。本館はイスラム化以前、別館はイスラム化以降のものを展示している。残念ながら本物や価値のある物は大英博物館やル―ブルにあるようだ。

考古学博物館 DSC_3591 (800x533)

いろいろな展示品が豊富DSC_3593 (800x533)

ペルセポリスのレリーフを展示DSC_3596 (800x533)

塩漬けになっていたミイラDSC_3601 (800x533)

 博物館に来ていた女子学生の一行から記念写真を撮ろうと誘われる。悪い気はしない。自然と頬の筋肉が緩む。イラン人はアーリア系の人種なので日本人の美的基準ではみんな美人に感じる。日本に連れてきて『イラン48』というグループで売り出せばヒット間違いなしと思うが。

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 ガラス博物館の建物の由来は、イスラム革命以前は総理大臣の私邸であったり、貿易銀行の建物であったり、エジプト大使館であったこともあるらしい。今はイランのガラスについての博物館だ。日本の正倉院御物もイランのガラス製品がある。

博物館の建物は大きくないが素敵DSC_3610 (800x533)

 内部もかなり凝っているDSC_3609 (800x533)

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 夕刻にテヘラン空港に行く。シラーズはテヘランと比べるとかなり小さな街だ。

テヘランの空港DSC_3615 (800x533)

シラーズの空港DSC_3618 (800x533)

この数日は長距離の移動が多く、目まぐるしい感じだ。





4月27日(金)曇
 今日はシラーズ市内のナスィー・アル・モルク・モスクと郊外50km先にある世界遺産のペルセポリス遺跡などを一日中見学する。
 シラーズは、ザグロス山脈の中腹にある標高約1500mの位置にある。比較的涼しい。
まず市内のナスィー・アル・モルク・モスクに出かける、ここは別名『ピンクモスク』と言われ、規模はあまり大きくないが、非常に美しいモスク。1876年から1888年にかけて建造されたモスクは、ステンドグラスを多用し、ピンクのタイルを使って伝統的な様式でデザインされている。

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モスからすぐそばにある喫茶店でチャイを飲んで休憩DSC_3632 (533x800)

 今日は金曜日なのでバザールも休み、敬虔なイスラム教徒はモスクに出かけお祈りをしているのだろう。しかし、普通の人は休日をエンジョイしているようだ。郊外に向かう車は多い。家庭サービスなのか家族連れを多く感じる。郊外のペルセポリス遺跡には約1時間で到着。ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国時代の紀元前518年、ダレイオス1世によって建設された約450mx300mの長方形の基盤の上に築かれた神殿跡。ペルセポリスはギリシア語で、「ペルシアの都市」という意味で、西アジアの3P遺跡(ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡)の一つとして知られている。

 ペルセポリスを陥落させたアレクサンダー大王は、その財宝を運び出さすために、1万頭のロバと5千頭のラクダを使ったと言われている。謁見の間は一段高い基壇にあり、レリーフが彫られた壁に囲まれている。レリーフには諸外国からの貢物が克明に彫られ、当時の王の権力が広範囲に及んでいたことを示している。

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 広い遺跡の敷地を回っていると2500年も前によくこんなものを建てたと感心する。日本なら苔むし、朽ち果てているだろう。ここはやはり砂漠の中にある。それにしても圧巻で見終えた後は満腹の感じ。

  ペルセポリスの近くのナグシェ・ロスタムにはアケメネス朝の王墓が並んでいる。クセルクセス1世、ダレイオス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の墓がある。ここは山肌の岩を彫り墓にしている。アケメネス朝時代は西のローマ帝国とペルシャ帝国は700年間対峙し、戦争を繰り返していた。我々が習った世界史はギリシャやローマ帝国の立場から見た歴史感であり、今回はペルシャ側から歴史を見ている。

岩を彫って造った墓DSC_3666 (800x533)

ダリウス1世にローマ皇帝が降伏しているレリーフDSC_3667 (800x533)

ローマとの闘いのレリーフ DSC_3670 (800x533)

講和のレリーフDSC_3672 (800x533)
 
 シラーズ市内に入る道路には『コーランの門』があった。いわゆる関所であり、旅の安全を祈願したそうだ。現在の門はパーレビ朝時代に建て替えたもの。

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 最後に市内にある、『エラム庭園』に立ち寄る。シラーズの大学の植物園が『エラム庭園』として世界遺産に登録されている。図書館も美しい建物で噴水のある池もあり、典型的なペルシャ式庭園だ。ペルシャ人にとって最高の贅沢は常に『水』の音が聞こえること、『緑』がふんだんにあること、いつも『花』が咲いていることらしい。この庭園はこれら3点を満たしている理想の庭園だ。翻って日本の庭園の究極は『枯山水』ではないだろうか。環境が変わるとこうも違う。

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4月28日(土)晴れ
 今日は早朝にモスクのミナレットから流れるアザーン(イスラム教の礼拝の刻限を知らせる)で目が覚める。イスラム教の国に来ていると実感する。ホテルから出てみるとすぐ隣にちいさいが、こさっぱりしたモスクがあった。

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 今日はシラーズから北方のイランの真珠と呼ばれるイスファハンに移動。距離にして凡そ500km。ザグロブ山脈の間を縫って走る。テヘラン、マシャドに次ぐ3番目の都市だ。標高は1600m程度。イランは50%強が山地、25%が砂漠、残りが耕地等である。道路を走ると山と砂漠だが、たまにオアシスのあるところは緑の耕地になっている。ザブログ山脈の麓で柘榴(ザクロ)が採れる。柘榴が日本に入ってザクロという名称が付いたそうだ、正倉院の御物もザクロも遠くイランからやって来た。
 イスファハンはイランのほぼ中心に位置している。過去に二度首都となった。やはり外敵から守るには都合の良い場所なのか。

オアシスの菜の花畑はもうすぐ収穫期を迎えるDSC_3690 (800x533)

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何もない砂漠でも遠くの山が冠雪しているのがわかる。DSC_3696 (800x533)

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 イスファハンの町まで100km程度のところにキャラバンサライがあり、立ち寄ってみる。サファビー朝時代のものとか、今は当然、トラックや鉄道が物流の主役、キャラバンサライなど必要はない。従い、朽ち果てた状態で残っていた。近くにはかつて都市であった思われる遺跡もあった。そこはヤギを放牧している農民がいて外国人観光客が珍しいのか、傍にやって来た。イランを見ていると、結構観光資源があるのに活用されていない。政府があまり外国人観光客を歓迎していないのかと勘ぐってしまう。これが中国なら一大観光地になっているだろう。

かつての町は廃墟DSC_3703 (800x533)

遠くには見張台と思われる建物DSC_3701 (800x533)

かつてのキャラバンサライ、今は廃墟同然DSC_3704 (800x533)

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観光資源になるように思うが・・・  中を覗いてみるDSC_3706 (800x533)

ヤギの放牧 DSC_3712 (800x533) (2)

牧童はロバに乗り、ヤギは水場で一休みDSC_3714 (800x533)

珍しいのか少年が興味津々でやって来るDSC_3717 (800x533)

ロシア製のバイクに乗り我々を観察DSC_3705 (800x533)


 イランに入国して4日目となるが、気になっていたこと(駅やレストラン等公共のトイレの男子用トイレが全て個室である)があり、現地ガイドに尋ねてみる。答えはイスラム教では大小を問わず用を足したら必ず不浄なところを左手で水使い洗い流すとのこと。道理でトイレ内は水浸しであることが多い。これは清潔なのかちょっと気になる。
 鼻に絆創膏を張っている女性を見かけ、美容整形の話が話題になった。イラン女性はかなりの割合で美容整形をしているらしい。鼻を低くすること、唇を厚くすること、胸を小さくすることが主な美容整形。日本とは真逆で面白い。
 ホテルでエレベーターに乗って気が付いたことだが、女性が乗っていればスペースがあっても、男性は乗らない。当然その逆もある。あまり意識せずつい乗ってしまうと少し違和感を感じる。西欧のマナーとは違う。





4月29日(日)晴れ
 今日も朝からさわやかな天気だ、スケジュールは1日中、イスファハンを観光。先ずホテルから『33アーチ橋』を眺めるが、川の水は見えず干上がっていた。

ホテルからの33アーチ橋の眺めDSC_3720 (800x533)

 昨年5月の状態DSC_6880 (800x533)

気を取り直し世界遺産・ペルシャ庭園の一つ『40柱宮殿』に行く。実際の柱の数は20本だが、水面に映る柱も20本、合わせて40本となり、40柱宮殿となった。40という数字はイスラム世界では特別の意味を持つ数字らしい。サファビー朝のアッバースⅠ世の時代のもので、建物の中は様々な戦争の絵が描かれていた。

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 40柱宮殿から少し離れたところにある世界遺産の『金曜モスク』に出かける。金曜モスクとはその地域のメインモスクとのこと。このモスクは2000年以上前のゾロアスター教の神殿の上に造られた。ここは1000年以上の国の中心でもあった。イラン・イラク戦争時の1987年にミサイルがこのモスクに着弾し被害を受けた。

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 33アーチ橋の近くの『ハージュ橋』に立ち寄ると、当然こちらも水は流れておらず干上がっている。去年からイランは旱魃が続いているそうだ。33アーチ橋が見える。

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 アルメニア教会へ。第一次世界大戦でオスマントルコはアル隣国のメニア人を虐殺した。そのため、大勢のアルメニア人はイランに逃れ、住みついた。アルメニア人はアルメニア教会という独自のキリスト教会を持つ民族だ。世界で最初にキリスト教を国教にしたことでも有名。因みに、2番はローマ帝国、3番はジョージアだ。教会自身は17世紀に建設されたもの。アルメニア人の人口は600万人で、そのうち海外に300万人が暮らすという。トルコがEUに入ろうとしたとき、海外にいるアルメニア人はEU各国政府に対しロビー活動をした。フランスはトルコに虐殺の事実を認めることと謝罪を条件としたため。トルコのEU入りは頓挫した。

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 イスファハンの最後は世界遺産の『イマーム広場』だ。イスラム革命以前は『王の広場』と言われていたそうだ。中国の天安門、ロシアの赤の広場に次ぐ広さ。南北500m×東西160mの広さだ。天安門も赤の広場は政治に関する広場である。イマーム広場は政治だけでなく宗教(モスクがある)や経済(バザールを抱えている)、スポーツ(ポロの競技をする)の広場でもある。

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 周りを囲む建物は、以前はメドレッセ(神学校)であったが今は土産物店になっている。建物の裏にはバザールがあり、ウロウロしていると迷子になりそうだった。芝生には家族連れがピクニックを楽しんでいた。

 イランに来てわかったことは数字もアラビア数字でなくペルシャ語表記である。商品の価格表記は勿論、車のナンバープレートもそうだ。特に買い物の場合はアラビア数字に
読み替え、さらに為替換算をしなければいけない。インフレによる計算でゼロを数え間違うことがある。ドルで払う場合はなんとなく感覚でわかるが、リアルでおつりが出て来るので
いちいち計算が面倒で信用するしかない。

車のナンバープレート DSC_3792 (800x533)

ホテルにあった卓上カレンダーDSC_3791 (800x533)






4月30日(月)晴れ
 4月も今日で終わりだ。3月30日に日本を出発して1か月が経ったことになる。本当に月日が経つのが速く感じる。
 今日の行程はイスファハンから空路テヘランに向かい、ペルセポリスなどの寄り道から元のシルクロードに戻る。イスファハン・テヘラン間の距離は450km。9時30分発、10時10分着の短距離飛行。その後はテヘランから西に330km離れたサンジャンに向かう。
 サンジャンへの道はアジアハイウェー1号線を走る。このアジアハイウェーは国連の提唱によりできたもので、東京日本橋から東名、名神、中国自動車道を経て下関から釜山に行き、その後は北朝鮮を経由(実現していない)、し東南アジアや南アジアを通り最終的にブルガリア国境まで結ぶ国際ハイウェー。

イスファハンの飛行場 DSC_3793 (800x533)

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 サンジャンの手前50kmのところにスルタニエという町がある。1302年にモンゴルのウルジャイトがここを都とした。この町は標高1800mに位置し、イランにあっては珍しく草原が広がり涼しい、というより少し寒い。ここは緑が多く葡萄の産地でもある。

 スルタニエは世界遺産である。ウルジャイトはモンゴル人であったが、イスラム教に改宗(以前はシャーマニズム)しマシャドのエマーム・レザーの霊廟を見て自分も同じような霊廟を造りたいと思い、この地に霊廟を建てた。霊廟は八角形で外壁と内壁の厚さは10mある。八角形の角にはミナレットが8本あり、そのミナレットに登るための螺旋階段がある。その螺旋階段が建築構造学的に建物やドームを支える役目を果しているとか。その建築の独自性から世界遺産になったそうだ。螺旋階段を登ると建物の内側にバルコニーがあり、さらに登ると外側にもバルコニーがあった。

パンフレットによる霊廟の全貌DSC_3799 (800x533)

パンフレットと異なりかなり傷んでいるDSC_3795 (800x533)

内部は補修中、然し一向に修復工事をしている感じはしなかった。DSC_3798 (800x533)

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 イランは遺跡をあまり大事にしていないと感じる、これはペルシャ帝国の遺跡が多すぎて手が回らないのか、それとも、あまり観光客に来てほしくないのか、首をかしげる。

内部は修復中
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1階のバルコニー
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二階のバルコニーから眺めた風景   山が迫り緑が多い
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シルクロード紀行(その3)

タシュケントの歴史博物館 『シルクロードの地図』
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4月16日(月)雨のち晴れ
 西安から18日経ったが、始めて雨が降る。雨と言っても小雨で午前中には止んでしまった。久しぶりのお湿り。 
 今日の行程はキルギスの国境から再度、カザフスタンに入国し、西の方角300km先のタラズを目指す。
 タラズにはタラス河が流れている。この河畔で751年にアラブのアッバース朝と中国の唐と戦いアラブ側が勝利した。世界史的には一大エポック。この戦いの後、唐は衰退の一途となり西には進出出来なくなる。アラブ側はイスラム教の布教に力を入れ東に進出する。東西のバランスが751年を境に大きく変わり、中央アジアはイスラム圏となる。また、この戦争で捕虜となった唐の製紙職人がアラブ側に連れ去られ、唐が門外不出としていた製紙の技術をアラブ側が手に入れた。その後、イスラム教のコーランが普及したといわれている。

 キルギスからカザフスタンの国境は一昨日、通過したところだ。出入国手続きに要した時間は30分程度の簡単なものだった。

国境のコルダイから、ひたすら西に走るDSC_2975 (800x533)

国境のチュー川DSC_2973 (800x533)

国境の近くは数多く軍隊の監視塔があるDSC_2972 (800x533)

 途中で昼食はトラックの運転手が立ち寄るような食堂で摂る。オーナーはトルコ系のおばちゃんのようだった。料理はワンタン風のスープ、羊のスペアーリブ、ジャガイモとナンで量が多く半分程度しか食べられなかった。然し味は美味。
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 食後に用を足そうと店の裏側に行くとトイレと思しき小屋が2つあった。上のものは今にも傾き崩れそう。下のものは麦畑の方から入るが扉はない。結局、青空トイレに決定。つくづく男に生まれてよかったと思った。
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 (口直し)。一路、タラズを目指し走っていると、道端にチューリップの原種をあちこちで発見。前回見つけた原種と異なり花が大きく虫が蜜を求め花の中に沢山いた。
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 タラズの街に入る手前の丘でタラス河を見る。河を挟んで双方数万人が対峙した。唐側は丘の上に布陣していたが、チュルク系の一部族が裏切ったため、唐軍は壊走したという。日本の上杉謙信と武田信玄による「川中島の合戦」はスケール的には単なるいざこざの域を出ていないと感じる。
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丘の上にはイスラム教の霊廟があった
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4月17日(火)晴れ
 今日はタラズからウズベキスタンの首都タシュケントへ移動。距離にして320km。国境に行く道すがらチューリップを探す。やはり赤いチューリップの原種があちこちで咲いている。草原の向こうは西天山山脈。
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 天山山脈もカザフスタンを過ぎるとお別れだ。この道路は中国からヨーロッパまで通じている国際ハイウエー。まさに習近平が提唱する『一帯一路』。
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この先がカザフスタンの国境DSC_3023 (800x533)

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 カザフスタンの国境では札束を手に、怪しげな闇両替屋のオバハンが活躍。また、怪しげなものを売りに来るオバハンもいた。よく見ると植木鉢に見たことのない植物。カザフの国境からウズベクの国境出口までポーターが荷物を運んでいる。スーツケースは10個ほどだ。重量は200kg近い。皆たくましい。
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 荷物検査は比較的緩やかだが、麻薬に関するものは厳しそうだ。常に麻薬探知犬のシェパードがうろうろしている。撮影はNGだが・・・・DSC_3035 (800x533)

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 ウズベキスタンは日本の約1.2倍の面積を持ち、人口3200万人の国だ。首都タシュケントはソ連時代から中央アジア第一の都市であった。2年前にカザフスタンのアルマトイに地下鉄が開通するまではまでは唯一地下鉄のある都市でもあった。1時間時差があり、時計を遅らせる。(日本からの時差は4時間)
 国境からタシュケントまでは30kmの距離だ。今まで見たカザフスタンやキルギスと比べ緑が多いことに気づく。ヤッカサライにあるムスリム墓地の一角に第二次世界大戦後ソ連に抑留され、この地に没した日本人79名の墓地がある。とりあえず出かけてみる。
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上のお爺さんは父親から墓守を引き継ぎ、日本から勲章を授与されたと勲章を見せてくれた。下の人は息子さんで三代にわたり墓地を管理してくれている。
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 2015年に安倍総理が中央アジアを訪問した際にもこの墓地を訪れ、この親子に会ってねぎらっている。また、中山恭子元参議院議員も大蔵省退官後にウズベキスタン特命全権大使を務めたことがあり、その時に桜を植樹をしたそうで、その桜は4月の初めごろに満開であったそうだ。また 息子さんが安倍総理と握手している写真を見せてくれた。
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 ホテルにチェックインするまで時間がありウズベキスタン歴史博物館を見学する。夕方ということで来館者はほとんどおらず。スタッフのオバサンがスマホをいじっていたり、同僚とソファでおしゃべりしていている。社会主義時代が抜けていないと思った。
 展示品は旧石器時代のものからウズベク3ハン国までのものが中心でレプリカは少なく中身は見ごたえのあるものだった。
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 カザフスタン、キリギス、ウズベキスタンと中央アジアの国を回っていると、どの国も多民族国家で人々の風貌が違う。日本人に似ていたり、全くのロシア人だったり、モンゴル人だったりする。多くの民族を束ね統治するのは難しいかもしれないが、多様性が合っていいと思う。



4月18日(水)曇
今日はタシュケントからサマルカンドに移動。340kmの行程。 タシュケントから出発する前に、ホテルの近くのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場に立ち寄る。この劇場は第二次大戦後にタシュケントに抑留されていた日本人にソ連が強制労働で作らせた劇場の一つだ。1947年に完成し、1966年に起きたタシュケント大地震にもビクともしなかった。周りの建物は大部分が倒壊したそうだ。そのためタシュケントの人達は日本人をリスペクトするようになったとか。

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 劇場から少し東に行くとチムール広場がある。広場にはウズベキスタンの英雄でシンボル的存在のチムールの像がある。歴史書によるとチムールはモンゴル系の人物であり、ウズベク系の人物ではないと記載されている。然し、細かいことは言わず、自分たちの英雄ということだ。ソ連時代はここにレーニンの像が立っていたが、独立とともに像を建て替えた。この広場を中心に博物館や国際会議場などが建っている。

チムール像
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国際会議場
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 サマルカンドまでの道はあまり整備れているとは言えない。道の両側には広大な農地が広がっている。ウズベキスタンはカザフやキルギスと異なり農業大国だ。
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 国土が中央アジアの大河、アムダリヤ川とシルダリヤ川にはさまれ農業用水に事欠かない。そのためソ連のスターリン時代はこの地方で綿花の栽培を強制された。その結果、この二つの川は農業に消費され、アラル海にはほとんど流れず、アラル海はどんどん小さくなり干上がっている。まさに環境破壊の象徴。そのアムダリヤ川を渡る。DSC_3093 (800x533)

水が豊かなのか、電柱にはコウノトリの巣が見られる
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 サマルカンドに着いてウルグベク天文台に立ち寄る。ウルグベクはチムールの孫にあたるが、望遠鏡もない時代に恒星時1年間を365日6時間10分8秒と推測した。誤差は1分にも満たない。

天文台入口DSC_3104 (800x533)

天文台博物館DSC_3108 (800x533)

ウルグベクの肖像 DSC_3105 (800x533)

天文台の中DSC_3110 (800x533)

 天文台の直ぐそばにアフシャラブの丘がある、ただラクダ草が生えているだけで、生命感が感じられない。成吉思汗によって徹底的に破壊された痕跡がある。サマルカンドの町はこの丘の上に営々と築かれてきた。モンゴルの来襲の後、町が打ち捨てられたのは給水設備が破壊されたためといわれている。この丘の上に建てられた博物館を覗いてみる。

博物館の内部には様々なものが展示されている。中でも王宮の壁画が素晴らしいDSC_3119 (800x533)

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丘の上は羊を放牧していたDSC_3124 (800x533)
  
丘からはアレキサンダー大王が築いた城壁が残るDSC_3127 (800x533)



4月19日(木)曇
 今日は一日サマルカンドの観光。定番のアミール・チムール廟、レギスタン広場、ビビハニ・モスク、シャーヒズィンダ廟群、バザールなど。

 アミール・チムール廟は彼と彼の息子たちが眠る霊廟である。元はチムールの孫のために建設した廟であったが、孫が先にトルコ遠征で1403年に戦死し、チムールも1405年にチムールも中国遠征途上で病死した。
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黒い大理石がチムールの墓石 DSC_3145 (800x533)

棺は地下室にあるDSC_3149 (800x533)

 レギスタン広場は成吉思汗の来襲以後、アフラシャブの丘から移動したサマルカンドの商業の中心地となった。主要道路の交差点であったレギスタン広場は公共の広場として機能した。謁見式や閲兵、罪人の処刑なども行われた。今も、パレードなどが行われているようだ。
 レギスタン広場の奥の建物はティラカリ・メドレッセで左の建物はウルグベク・メドレッセ、そして右の建物はシェルドル・メドレッセだ。メドレッセとは神学校を意味する。

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 ビビハニ・モスクは、かつてイスラム世界で最大の規模を誇ったモスク。1399年にインド遠征から戻ったチムールは世界に比べるものがないような壮大なモスクを建設した。DSC_3163 (800x533)

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 シャ―ヒズィンダ廟群はチィムールゆかりの人々の霊廟がほぼ一直線に立ち並ぶ。訪れた時も巡礼と思われる人たちが大勢いた。サマルカンド有数の霊廟だ。
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道の両側には霊廟が並ぶDSC_3174 (800x533)

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霊廟の中に入ると墓石があるDSC_3176 (800x533)

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 霊廟から少し歩くと巨大なバザールがあり覗いてみる。ナンはサマルカンドのものがウズベキスタン一といわれ結構売れ行きがよさそうだ。その他ドライフルーツなど多くの物産が並んでいる。中には羊の足のような物もあり面白い。1週間ほど先にイランに行くので、Tシャツ2枚を買う。50,000スムで約600円なり、縮んだり、伸びたり、色落ちしてもパジャマ代わりにすれば問題なし。

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 夜に散歩に出かけレギスタン広場とアミール・チムール廟に出かける。ライトアップされていて昼間とはちょっと違った雰囲気だ。
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4月20日(金)晴れ
 今日はサマルカンドからブハラに高速鉄道で移動。260kmの行程。高速鉄道はスペインの技術とか。乗り心地は日本の新幹線のようにはいかない、結構、振動がした。列車名はアフラシャブ号。切符はパスポートNoが記載されている。

ブサマルカンドの鉄道駅DSC_3224 (800x533)
 
駅のコンコースはゆったりしているDSC_3226 (800x533)

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列車はビジネスクラスなので2人掛けと1人掛けでゆったりしている。
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ブハラ駅DSC_3241 (800x533)

 ブハラに着いてからまず、イスマイル・サマー二廟を見学。9世紀から10世紀にかけて建築された中央アジア最古のイスラム建築。日干し煉瓦でなく焼き煉瓦で造られている。DSC_3249 (800x533)

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 アルク城の辺りが古代ブハラの発祥地らしい。13世紀にモンゴル軍が来襲し、城に立て籠もった市民は虐殺された。そして城も破壊された。その後、再三外敵に破壊されては建て直した。今残っているのは18世紀のものだ。
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 ボラハウズ・モスクはハン専用のモスクで前面にクルミの柱が20本並んだテラス状の空間がある。前面の池が柱を映し出し40本の柱のように見える。
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 カラーンモスクはミナレットと繋がっていて非常に大きなモスクだ。ソ連時代は倉庫になっていたそうだ。
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 ミルアラブの神学校はソ連時代にも神学校として認められていた。現在も神学校としてアラビア語、コーラン、イスラム法などが教えられている。
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格子越しに学校の様子が分かる DSC_3286 (800x533)

お祈りの時間を表わす時計DSC_3288 (800x533)

 砂で埋もれていたマゴキ・アッタリ・モスクは1936年にロシアの考古学者により発見された。現在も穴の中からすっぽりと掘り出したようになっている。DSC_3298 (800x533)

 チョル・ミナルは4本のミナレットという意味で、トルクメニスタン人の大富豪により建てられた。4人の娘がいたとされている。ミナレットの1つには作り物のコウノトリがあり、そこに鳥が止まっていた。DSC_3304 (800x533)

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 ナデール・ディヴァンペギ・メドレッセは1622年に大臣であったナデール・ディヴァンペギにより建てられた。正面の入り口には二羽の鳳凰が鹿をつかんで太陽に向かって飛んでいる絵があり、太陽には顔が描かれている。偶像崇拝禁止のイスラム建築では珍しい。この時代はまだ、ゾロアスター教の影響が多く残っているといわれている。
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ウズベキスタンの公共バスは天然のメタンガスが燃料でタンクを屋根に積んでいる。
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4月21日(土)晴れ
 今日はウズベキスタンからトルクメニスタンに移動する。トルクメニスタンの国境まで110km、国境を通過し、アムダリヤ川、カラクム砂漠を越えマリへ290kmで計400kmの行程。マリで世界遺産『メルブ遺跡』を観光する。

 トルクメニスタンは以前、中央アジアの最貧国で独裁政治であったため、中央アジアの北朝鮮と言われたこともあった。2007年に大統領が死去し新大統領が開放路線で民主化を図ったため、6歳から18歳までを義務教育とし、無償化を実施。また、水道光熱費は無料としている。因みにガソリン代は1ℓ1.5マナットで50円程度である。

 ウズベキスタンの出国手続きは2度、パスポート検査があった。トルクメニスタンの入国は国境でビザを取得(US$55)したため、1時間程度要した。入国検査で麻薬を持っていないか、常備薬のチェックをされる。また、ドローンを持っていないかの問いには面食らった。しかし、対応は極めてフレンドリー。

ウズベキスタン国境の第一パスポートチェック DSC_3312 (800x533)

出国手続き棟への通路DSC_3313 (800x533)

国境を流れるアムダリヤ川DSC_3321 (800x533)

アムダリヤ川にかかる鉄道の橋DSC_3324 (800x533)

 ウズベキスタンを過ぎると歴史的に中国の影響はなくなる。然し、蒙古の成吉思汗の破壊はロシアまで続く。トルクメニスタンに入るとギリシャやローマ帝国の影響を感じる。この辺りが西と東の分岐点か。

 トルクメニスタンに入ると砂漠が続く、そして所々にヒトコブラクダを見かける。中国の新疆やカザフスタンはフタコブラクダだった。
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 砂漠を走っているとはるか向こうに鉄道が走っている。全て貨物列車。習近平の『一帯一路』か。砂漠の中に綿花栽培のために作られた世界一長いカラクム運河が流れている。
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 マリの近くにメルブ遺跡がある。ここは、かつてシルクロードきっての規模を誇ったオアシテ都市であった。ペルシャと中央アジアを結ぶ重要な中継地でもあった。特にセルジューク朝時代は首都として繁栄していたが、1221年にモンゴルによって破壊された。メルブは一瞬にして歴史から消え去った。メルブは古い町が捨てられるとその上にあたらして町を造るのではなく隣接したところに新しい町が造られた。現在はドーナツ状に城壁が残っている。もっとも古い城壁はアケメネス朝時代(紀元前6世紀から4世紀)のものとされている。この南方にはアレキサンダー大王時代(紀元前4世紀から3世紀)のものもある。
 また、ササン朝ペルシャ(3世紀から7世紀)のころにはゾロアスター教を始めキリスト教や仏教等様々な宗教が栄えた。ソ連時代に仏教遺跡から大仏像が発見されている。
 
世界遺産の表示
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世界遺産で放牧DSC_3351 (800x533)

キズ・カラ『乙女の城』DSC_3357 (800x533)

スルタン・サンジャール廟DSC_3376 (800x533)

この丘に登ると360度視界が広がる DSC_3369 (800x533)
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4月22日(日)晴れ
 今日はトルクメニスタンのマリから首都のアッシガバードに移動。約400kmの行程となる。移動中にラクダの群れに遭遇する。ラクダは朝に飼い主の家から出て、夕方戻って来るらしい。以前は荷物を運ぶ家畜であったが、今は専ら食肉用と毛皮、それに毛糸用にするという。

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 途中のアビウエルトという所に紀元前4千年から6千年の町があったということで立ち寄ってみる。今はただの土くれだが、かつてはかなり大きな城壁などがあり、それなりの町だったと感じた。遺跡は残念だが管理されておらず出土品や人骨と思われるものもあった。
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 アッシガバードの郊外のアナウに15世紀ごろに「バガバッド」の名で記録に現れた城塞都市がある。美しいモスクで知られ青のタイルで覆われていたモスクは1948年の地震で倒壊した。今も地元の人の信仰の場となっている。倒壊したモスクらしき物の上に来ると信者たちがお祈りをしていた。今もここは信者の聖なる地だ。

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子供の成長、良縁、病気回復、家内安全、商売繁盛、学業成就等、日本と同じような願い事をするらしい。
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家族で来ているのか、大勢で食事をとっていた。子供たちは写真を撮れという。DSC_3409 (800x533)

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 夕刻、アッシガバードに着く。トルクメニ語で「愛の町」という意味だそうだ。中央アジアのオアシスの街としては最南端に位置する。1948年の大地震の後、建設され遺跡や旧市街等はない。独立後あまり年が経っていないせいか、若い国という感じと意気込みを感じる。

 独立の塔
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2015年に安倍総理が訪問した際の記念植樹の松DSC_3416 (800x533)

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  世界には永世中立国が四つある。スイス、オーストリア、リヒテンシュタイン、トルクメニスタン。リヒテンシュタイン公国は実質上スイスの保護下にある国なので、三つであると考えた方が良い。 ちなみにスウェーデンは国際社会が認める永世局外中立国ではなく、政策として永世中立を標榜していたが、2002年に中立政策を放棄した。
 トルクメニスタンは1995年に国連総会で永世中立国と承認された。国連決議による永世中立国だ。日本人は知らない人がほとんどと思う。

前大統領の像DSC_3421 (800x533)

永世中立の塔
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4月23日(月)曇
 今日は1日アッシカバードの観光。まず、アハルテケ(汗血馬)の飼育所に行く。漢の武帝が、汗血馬という名馬がいると聞き、将軍李広利を派遣して、それを獲ようとした。その名の通り、血の汗をかくと信じられていた。飼育場で聞いたところ、ここの馬は毛細血管が細く、走れば毛細血管が膨張し、皮膚の上に浮き出るという。白馬ならまさしく肌がピンク色になる。そのあたりが正解なのかもしれない。名馬を飼育しているといわれるだけあり、トルクメニスタンの競馬で優勝したこともあり、馬形の美しさのコンクールにも優勝した馬がいた。全体にバランスの取れた美しい馬ばかりであった。2015年に安倍総理が訪問した際に金色の馬をプレゼントしたといっていた。

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 アハルテケの飼育所の見学の後は国立歴史博物館や世界遺産ニサ遺跡を見学する予定であったが、急遽アッシカバードから280kmに位置するカラクム砂漠の中央、ダルヴァザ付近にある『地獄の門』を見学することに決定。午後3時にホテルを出発する。夕刻の7時前に到着。ここは旧ソ連時代の1971年に地質調査を行った際に大きな落盤事故が起き、巨大な穴の底から天然ガスが噴出した。その時に有毒ガスが噴き出した。やむなく、有毒ガスの噴出を防ぐため点火したという。その後は現在まで燃え続けている。現在の大統領は早く火を消すように指示しているため、その内、『地獄の門』が消えてなくなるかもしれないので出かけたのが真相だ。 
 
 現地に行くには砂漠の中の道路を突っ走る。道路と並行して鉄道が走っていた。また、道路標識でラクダに注意というのが、遊牧民の国である。DSC_3459 (800x533)

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 現地に着くと十数名の観光客がいた。彼らはテントで一泊しながら観光するそうだ。我々は遊牧民のユルタ(遊牧民のテント)でバーベキューを楽しむ。羊肉、鶏肉、トマト、ピーマン、ナスビにナンである。野趣あふれる料理。
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他の観光客たちはテントに宿泊DSC_3475 (800x533)

7時頃の穴の風景 風向きで暑く感じるDSC_3464 (800x533)

人間の大きさで穴の大きさがわかる DSC_3465 (800x533)

事故当時のパイプDSC_3471 (800x533)

日が沈むと全体の熱気で赤くなるDSC_3481 (800x533)

穴のそばは迫力があるDSC_3486 (800x533)

人影が良く見える DSC_3491 (800x533)

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 突然予定を変更したのでホテルに帰還は日付が変わっていた。280kmの距離もそうだが、4WDで漆黒の砂漠を100km以上のスピードで走るのは、ちょっとスリルがありすぎ、車から降りると一気に疲れが出た。











シルクロード紀行(その2)

トルファン駅の中国新幹線
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4月8日(日)晴れ
 今日は新疆ウイグル族自治区に向けて出発。先ず、敦煌から130km北にある高速鉄道の柳園南駅に向かう。敦煌の街のシンボルである「反弾琵琶」のモニュメントを後にする、敦煌の街はオアシス都市なので緑が豊かだ。然し、街を出るといつものゴビ砂漠が続く。

反弾琵琶」のモニュメント
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ポプラの並木道が続く
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 柳園南駅の前は全く何もない。スーツケースをプラットホームに運ぶにはエスカレーターやエレベーターがない。急きょポーターを探すが、そのような人はいない。然し、駅の清掃員がポーターの上着を着こみポーターに変身。一つの荷物をプラットホームに運ぶチップは15元なり。中国的で面白い。事前の荷物検査は非常に厳しい。列車は満席で荷物棚も満杯の状態。

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 トルファンに向かう列車から見える景色はゴビ砂漠だ。700kmの道中は、たまに在来線で貨物列車が通るのが見える。新疆のエリアに入ると石油の採掘している油井が見える。今までの景色とは一変。

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在来線の貨物列車
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石油を掘削
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 トルファンに着いたら駅の公安局の詰め所に連れて行かれ、スマホでパスポートの写真を撮り、さらに本人の写真を撮り、重ね合わせて本人と確認する。その後、初めて自由の身となる。 

トルファン北駅
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 やっと、ホテルに到着するとホテルのフロントでも同じようにスマホで写真を撮られる。本当に厳重な警戒態勢だ。ガソリンスタンドで給油する場合も身分証明書が必要とか、もし好ましからざる人物なら通報され拘束されるそうだ。新疆ウイグル自治区の入出境管理は厳戒を極めている。ウイグル人の人達は、さぞ息苦しく、不愉快に感じているだろう。



4月9日(月)
 トルファンは古来より『火州』と呼ばれていた。さすがに暑い。先週いた甘粛省はダウンの上着をはおるほど寒かったのに、まさに別世界だ。今日は1日トルファンの観光で過ごす。世界遺産の高昌故城、アスタナ古墳群、ベゼクリク千仏洞、カレーズ、火炎山、世界遺産の交河故城、バザールなどである。
 9時前にホテルを出発すると近くの広場でウイグル人が100人ほど集まっていた。何かと思ったら、毎週月曜日は、中国の国旗掲揚と国歌斉唱をするらしい、参加しなければ陰に陽に不利益を被るらしい。また、漢民族に対し蔑称?のカタイ(キッタイ)等というと拘束されるとか。ウイグル人にとっては甚だ住みにくい世界だ。

 ホテルから1時間ほど行ったところに高昌故城がある。以前は駐車場から直ぐに高昌故城に入れたが、今は随分離れたところに駐車場があり、そこからカートで入場する。高昌故城の入場料は70元、カートの費用は35元、合わせて105元である。ほとんどの観光地はこのようなシステムで、観光客からお金を巻き上げる。
 高昌故城は玄奘三蔵が訪れ滞在したことがある。高昌国の王様に引き留められたが、インドから帰国する時に再訪すると約束したが、再訪した時はすでに高昌国は滅んで亡くなっ

チョット若めの三蔵法師像
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全て砂の残骸が残るのみ
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 高昌故城からアスタナ古墳群までは15分程度の距離にある。アスタナとはトルコ語で『都市』という意味らしい。中央アジアのカザフスタンの首都もアスタナである。古墳群は盛唐時代に高級官吏や豪商の共同墓地である。見学できる墓地は3か所あり中に入ると壁画が描かれている。そのうちの一つには夫婦のミイラを見ることができた。ただし、墓の中の撮影はNGである。ミイラは意外と大柄の夫婦であった。

広い砂漠に共同墓地がある
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階段を下りて墓の中に入る
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 ベゼクリク千仏洞もアスタナ古墳群から20分程度の場所にある。ベゼクリクとは突厥(チベット)の言葉で『装飾された部屋』という意味らしい。莫高窟や楡林窟のように壁に穴を掘り、仏像を祀ったり、壁画を描いた洞窟である。めぼしいものは、ほとんど英、米、独、露、瑞や日本によって持ち去られ、今は見る影もない。残っているのは単なる洞窟のみという感じだ。

観光地に行くには公安の検問が必ずある  
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カレーズを見学する道すがら西遊記で有名な火炎山に立ち寄る。真夏には50度近くなるそうだ。周りは砂漠でまさに炎熱地獄。

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 カレーズに行く前にウイグル人の農家で食事をとる。ぶどう棚の下に台があり、車座になって食事をする。ブドウを栽培し裏庭の乾燥用の建物で干しブドウを作っている。

ぶどう棚の下で食事 
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干しブドウを作る乾燥小屋
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 カレーズはイラン発祥の水道というべきものだ。山の雪解け水の伏流水の水脈を見つけ、生活や灌漑用に利用。地下に降り、水の流れに手をつければ冷たくて気持ちがいい。
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 交河故城は二つの河に挟まれた地形を堀として利用し、土地を掘って築いた街であるとともに城壁の無い街でもある。こちらの遺跡に入る場合も同じく駐車場からカートに乗って入る。勿論、見学するには身分証明書の検査がある。外国人はパスポートをチェックされる。ここは中国でただ一つ残る漢代からの都市遺跡でもある。遺跡は柳葉形の台地上に位置し周囲は約30メートルの断崖に囲まれ自然の要害をなしている。遺跡の全長は約1650メートル、幅は最大で約300メートル、総面積は約38万平方メートル。紀元前2世紀に建設され14世紀に元に滅ぼされた。ユネスコの世界遺産でもある。

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 交河故城の見学を終え市内に戻る。市内では庶民のバザールを見学する。然し、バザールに入るにも身分証明書と手荷物検査がある。これでは庶民が市場に買い物に行くにも非常にプレッシャーを感じるのではと危惧する。当然、自警団の様な見回りもある。これは強制的にやらされているのか、あまりやる気を感じなかった。

バザールにはこの柵に沿って入る
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荷物検査、身分証検査を済ませここからバザールに入る
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自警団?の巡回
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自警団の休憩DSC_2708 (800x533)

 中国政府が採っている政策は、テロを危惧しているのだと思うが、むしろ逆効果のように感じる。これでは、『新疆ウイグル族自治区』ではなく、中国の『新疆ウイグル族自治区』のように思う。街の至る所に「民族融和」、「団結」などのスローガンがあふれている。もし、自分がウイグル人なら反発するのは必至だろう。




4月10日(火)晴れ
 今日はトルファンからウルムチに移動。距離は220km。20年ほど前に世界銀行から融資を受けて、新疆で最初に造られた高速道路を行く。現在は並行して新しい高速道路を建設中。
万里の長城建設以来、中国は本当に様々な構造物を建設するのが好きだ。これば中国のGDPを押し上げる源泉だ。

現在2本目の高速道路を建設中
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 高速道路に入る場合は身分証明書(パスポート)をチェックされる。しばらく走ると右手に冠雪した天山山脈を望む。美しい光景だ。

 最高峰5445mのボゴタ山が見える。また、風の通り道か多くの風力発電機が稼働中。
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 高速道路からインターチェンジを出る場合も同様に厳格なチェックがある。市内は自動車が多く渋滞がはなはだしい。やっとのことで、新疆ウイグル自治区博物館に到着。ここでも博物館の敷地に入る前に荷物と本人チェック。そして建物に入る場合も同じだ。本当にチョット異常な感じがする。この博物館は少数民族の風俗や、歴史を展示している。また、2階には多数のミイラも展示されている。たまたま、中学生の団体が入館しており、そのやかましいこと、マナーの悪さに辟易する。愛国教育の一環だそうだが、まず、マナー教育というか道徳教育をしてほしい。

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4月11日(水)霙
 ウルムチは霙が降っていた。今日はウルムチ駅からカザフスタン国境近くのイーニンに向かう。距離は620kmあり鉄道を利用し6時間乗車。列車は軟臥でコンパートメント4人部屋。ウルムチ駅そのものは空港と見間違えるほど立派。因みにウルムチの鉄道駅はウルムチ駅以外に北駅、南駅、西駅の4か所がある。先ずウルムチ駅に入るために荷物検査とパスポートチェックを受ける。そして構内に入ると、もう一度検査を受ける。この検査でシェービングムースを没収される。周りでもライターを没収されている人がいた。テロとは関係ないと思うが、不愉快極まりない。

空港の様なウルムチ駅  
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面倒な荷物検査と本人確認
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ウルムチを過ぎて天山山脈と並行して走る。暖房が効いており車内は快適
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 約6時間乗車しイーニンに到着。想像以上に立派な駅だった。イーニンは北新疆で一番豊かな街で別名は「新疆の江南」という。そもそもイーニンの意味はカザフ語で「マルコポーロの鹿」という意味らしい。ラベンダーやリンゴ、梨の産地だ。ここはカザフ人やウイグル人が多く、人民元の呼称を「テンゲ」と呼んでいる。カザフスタンの通貨の呼称と同じだ。
 清朝時代にアヘン戦争を指揮し、敗れた林則徐は西太后により責任を取らされ、この地に左遷させられた。気の毒な話である。
 少し時間が有ったのでイリ大橋とイリ河を見学する。イリ河は全長1500kmでその内、新疆には200km流れている。残りはカザフスタンであり、最後はバルカシ湖に流れ、海には流れない。以前見たNHKの「シルクロード」はこの橋で終わっていたと思う。その当時、カザフスタンはソ連であったため、外国人の取材はここまでだったのだろう。

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 橋のたもとには公安が検問を行っていた。市内のモスクのミナレットやドームの上に新月のモニュメントをつけるのだが、民族を意識しないようにと先のとがったものに替えることを強制していた。

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 明日はいよいよ、中国から出国だ。なんとなく新疆では厳重な検問が多く重苦しい雰囲気だ。出国でなく出獄かなと思う。




4月12日(木)晴れ イーニンは風が強く寒かった
 いよいよ中国から出国しカザフスタンに向かう。先ずは100km先の国境の町ホルゴスを目指す。鉄道なら更に北のアラカンコだが、鉄道のレールの幅が、中国は標準軌、旧ソ連の国は広軌なので車両をクレーンで釣り上げ台車を変更する必要があり、時間がかかるそうだ。ビザの関係で、これ以上の中国滞在は無理。
  国境のホルゴスまではポプラの並木道を走る。所々で公安や武装警察の検問があり、チェックされる。要注意人物が逃亡しないようにということか、ご苦労なことだ。中でも国境ま近の検問所では日本の自宅の電話番号や昨日泊まったホテルの部屋番号まで書かされる。おかげで、10時半ごろに国境に到着。それから手続きや荷物検査に時間がかかる。そして最終的に、そこからバスでイミグレの事務所に到着し、再度、同じような検査が行われる。こんな厳しい国境は初めてだ。パキスタンから中国の新疆に入国した時はスーツケースの隅々まで検査されたが、今回ほどでは無かった。

 国境に向かう道路  
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天山山脈
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高速道路の検問は厳しい
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検問所には武装警察が警備している
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国境の町ホルゴスは意外と立派な街
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此処でイミグレ行のバスに乗り換える
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中国側の国境(イミグレ)
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カザフスタンの国境
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 カザフスタンの入国管理は一般的な国と同じだった。特にスーツケースを開けられることもなし。結局、中国の国境からカザフスタンの入国まで6時間を要した。入国と同時に2時間時差の修正で時計を遅らせる。イミグレのトイレに行くと中国との国力の差を感じる。カザフスタンは粗末で汚い。気を取り直し、ここから以前の首都アルマトイまで350km走る。高速道路はコンクリートでアスファルトではなかった。真夏の気温が40度を超すのでアスファルトは不向きだそうだ。

中国との国境のイリ河
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冠雪の天山山脈
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4973mのタウガル山DSC_2792 (800x533)
 
 道路沿いのリンゴの花はもうすぐ開花DSC_2793 (800x533)

 道中は漢字の看板はなく、キリル文字である。旧ソ連圏に入ったと感じる。ガソリンスタンドの表示では1ℓ 180スム≒60円程度か、産油国の強みだ。カザフスタンのナザルバエフ大統領はソ連時代から大統領を続けており、独裁政権気味なのが心配だ。しかし選挙で選ばれているので、我々がとやかく言うべきでないのかも。
 中国から出国しなんとなく自由な国に来たと実感した。しかし、以前は旧ソ連で厳しかったと思う。




4月13日(金)晴れ
 今日は一日、アルマトイに滞在。ホテルの前のバンフィロフ公園に出かける。ソ連が第二次世界大戦(大祖国戦争)の時に戦死したバンフィロフ将軍率いる28名の戦死を記念して造られた公園だ。戦勝記念碑や無名戦士の墓がある。

バンフィロフ将軍像  DSC_2807 (800x533)

記念の大砲DSC_2808 (800x533)

戦死者の慰霊碑には花が手向けられており、永遠に天然ガスの炎がある。
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 公園内には木造のゼンコフ正教会がある。ソ連時代は、宗教はアヘンということで博物館であったそうだ。今は改修中で全貌が見えない。しかし、今日はロシア正教のイースターに当たり、教会の鐘が鳴り響き善男善女の信者が集まっていた。中国は若者の信者が多いが、ここの信者は老人が多いと感じた。ミサが始まったので信者とともに「ナンチャッテ信者」のふりをし、教会内に入る。やはり真剣でおごそか。顰蹙を買わないうちに早々に教会から立ち去る。

教会は修復中。教会の正面DSC_2810 (800x533)

教会の裏面DSC_2816 (800x533)

ロシア正教の司祭と信者 イースターの宗教行事を行っていた
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公園の風景は平和そのもの
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 バンフィロフ戦士公園の東側に『カザフ民族楽器博物館』があり、入館してみる。代表的な楽器、ドンブラやコブズを始めとする60以上の民族楽器が展示されている。その中に他民族の楽器を集めたコーナーがあり、日本の大正琴が展示されていた。これには苦笑い。

カザフ民族楽器博物館  
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カザフの民俗楽器DSC_2829 (800x533)

 楽器博物館から少し離れた『国立中央博物館』に出かける。歴史資料が豊富な博物館で恐竜の化石からスキタイ人の黄金人間(実はレプリカ)などがあり、スキタイ時代の展示物は見答えがある。館内の写真撮影はNG。

国立中央博物館
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庶民の生活はいかがなものかとバザールを覗く。バザールの中は物資が豊富だ。
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 少し時間が有ったのでカザフスタン・ホテルそばのロープウェイで1070mのコクトベに登ってみる。展望台には小さな遊園地もあり、休日にはさぞ親子で楽しむのだろう。展望台からはアルマトイ市内や天山山脈が見渡せる。
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 昨日まで中国に2週間滞在していたことになるが、カザフスタンに来て感じることは高層ビルがないことと、ソ連時代のどちらか言えばヨーロッパ的な建物が多いこと。それに民族的にロシア人が20%いることなどである。漢字の看板は全く見かけない。基本的にはキリル文字だ。しかし、カザフスタン政府は脱ロシアなのか、カザフ語は国家語とし、公用語はロシア語としている。徐々にロシア語をなくす方針なのか、キリル文字からローマ字表記になりつつある。若い人はローマ字表記に抵抗はないそうだ。

 中国は火葬であったが、カザフスタンは土葬の国だ。道路沿には立派なお墓がある。見ていると、ここも階層社会か。立派なお墓とそうでないお墓が一目瞭然。

モスクではなく墓地
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4月14日(土)晴れ
 今日はカザフスタンからキルギスに移動する。国境までは210km、所要時間3時間。道中は草原を走り、標高1200mのコルダイ峠を越える。途中でチューリップの原種を鑑賞。チューリップの原産地はトルコでなく中央アジアだそうだ。

真っすぐの道を行くDSC_2850 (800x533)

草原では家畜を放牧
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チューリップの原種は球根までの根が深く30cm掘っても球根に届かない
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カザフスタンは産油国だが、草原は風がよく通るため風力発電を行っている
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中国と異なりカザフスタンとキルギスの国境での出入国の手続きは約40分で終わった。中国での6時間とは大違い。
パスポートチェクの様子。基本的に国境での撮影はNG。 国境の緩衝地帯もNG。
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金網の向こうは国境を流れるチュー川   
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キルギス側から見た国境検問所DSC_2869 (800x533)

 キルギスはカザフスタンと異なり国土は日本の約半分(カザフスタンは日本の7.2倍)で、資源も少なく貧しい感じがする。日本人とわかると『おしん、おしん』、『こんにちは』と声をかけてくる。ここでは『おしん』が日本人の代表。

キルギスは若い人が多く、人懐っこい。写真を撮れと要求される。
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 首都ビシュケクまでは国境から20kmの距離。市の中心部には『アラ・トー広場』がある。この付近には大統領府、科学アカデミー、国会議事堂、国立博物館などがある。また近くにはカザフスタンと同じく英雄の冠した『パンフィロフ公園』がある。非常に緑の豊富な街と感じた。

国立歴史博物館は改修中
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広場の立つ衛兵
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国会議事堂DSC_2884 (800x533)

キルギスの英雄叙事詩『マナス王』像DSC_2879 (800x533)

 時間が有ったのでバザールを覗いてみる。カザフスタンと異なり、バザール内の撮影はOKである。ただ、カメラを向けると嫌がる人もおり、イスラム国であると認識する。

靴の修理屋DSC_2886 (800x533)

主食のナンを売っている 1個20スム≒35円DSC_2887 (800x533)

コメは1kg 40スム≒70円DSC_2889 (800x533)

ドライフルーツDSC_2895 (800x533)

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豊富な香辛料DSC_2894 (800x533)

 市場の物資は豊富だ、日本と比べればすべてが安価な感じがする。然し、このバザールの近くには高価なブランド品を売っているショッピングモールもあり、格差を感じる。

 カザフスタンとキルギスの天山北路を見ていると、地政学的にここは、かつてモンゴルの成吉思汗が疾風のごとく東から西に向け蹂躙したことがわかるような気がした。

 ホテルの前にはドイツからバスでシルクロードを旅する人たちがいた。バスも長距離の旅行が可能のようになっていた。後部はベッドルームのようだ。DSC_2902 (800x533)

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 ディナーは市内のレストランでキルギスの民俗音楽を聴きながら食事だ。日本のアイヌ人の民俗楽器?の様に唇に当てて震わせながら音を出すのが珍しい。
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ホテルで現地の人の結婚式に出くわした。みんな人懐っこい
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4月15日(日)晴れ
 今日は首都ビシュケクから郊外の『中央アジアの真珠』と呼ばれるイシククル湖に向かう。途中、玄奘三蔵も訪れたという世界遺産の『アク・ベシム遺跡』と同じく世界遺産の『ブラナの塔』に立ち寄る。行程は往復460kmなり。
  キルギスは国土の半分は山といわれている。首都のビシュケクも標高800mに位置している。イシククル湖の標高は1600m、北側にはアラ・トー山脈、南側には天山山脈がそびえている。まさにスイスのような感じだ。途中の道路にはキルギスならではの光景がある。

馬、羊、牛などの家畜の放牧が盛んで人間の数より家畜の数の方が多いのではと思う。DSC_2913 (800x533)

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 先ず、アク・ベシム遺跡に立ち寄る。ここにはシルクロードに関する6世紀から12世紀の遺跡がある。然し、素人目には単なる草原の中の土饅頭としか思えない。629年に玄奘三蔵がインドに向かう途中、イシククル湖を通り、ここで突厥の王に歓待を受けたと、『大唐西域記』に書いている。7世紀から9世紀の広大な遺跡に、長さ11mの涅槃像が出て、いくつかに切ってエルミタージュ美術館に送られている。1996年、97年にキルギスと日本との共同で発掘調査が行われている。残念なことに世界遺産にもかかわらず、保存の状態が良くない。世界遺産の遺跡には放牧の家畜の糞があちこちに見られた。

世界遺産の表示DSC_2914 (800x533)

何の表示もなくただ陥没した地面DSC_2917 (800x533)

ポプラの生えている辺りまで城壁があったそうだが・・・DSC_2918 (800x533)

農民が遺跡を犬と散歩中DSC_2921 (800x533)

 シルクロードにかかわる世界遺産は33か所あり、内、キルギスに3か所ある。中国での遺跡がほとんどだが、国力の差か、キルギスはお粗末だった。

 アク・ベシム遺跡から20分ほど走ったところの荒野の真ん中にポツンと11世紀に造られたブラナの塔が建っている。高さは24mだが、かつては45mあったそうだ。16世紀の地震で崩壊、1974年に現在の状態に修復。真ん中の階段から塔に登ることができる。

世界遺産であると表示DSC_2928 (800x533)

 塔は中ほどでDSC_2929 (800x533)

 塔の上からの景色は素晴らしい。昔は塔の上から西や東に向かうキャラバン隊が塔のそばを通るのが見えたことだろう。約1000年前の風景とあまり変わっていないかもしれない。ここで発見された石にはアラビア文字やネストリウス派のキリスト教徒の十字架が刻まれている。
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 塔の周りからは人の形をかたどった石人の墓標が並べられている。アンパンマンに似ている。故人の顔がわかる気がする。DSC_2937 (800x533)

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塔の上から眺めた風景は当時とそんなに変わっていないのではと感じた。
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 イシククル湖は東西180km、南北30~70kmで周囲は約700kmである。琵琶湖の9倍も大きい。また、世界でも有数の高山湖で標高は1600m、深さ300m。不思議なことに不凍湖だ。イシククルとはキリギス語で『熱い湖』という意味らしい。周囲の山から118の川が流れつき、ここから流れ出る川はない。シベリヤのバイカル湖に次ぎ透明度が高い。

 残念ながら北側と南側の万年雪をかぶった山脈は靄って見えなかった。見えれば最高なのにと残念。
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イシククル湖に行くには峻険な渓谷を通るが、今は快適な道がある。
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 途中で立ち寄ったドライブインはハラールの店でお祈りもできる。そのため、トイレの洗面所にはイスラム教徒が足を洗う設備もあった。  DSC_2955 (800x533)

洗面台の右下が足を洗う洗足設備DSC_2953 (800x533)

夕刻、食事のために立ち寄った食堂で羊のケバブがうまかった。DSC_2961 (800x533)





シルクロード紀行(その1)

 以前よりシルクロードに興味があり、中国勤務中は西安から河西回廊や新疆に何度か訪れたことがある。退職後も中央アジアの国々をつまみ食いのように旅行したが、長年の夢でシルクロードを一気通貫の旅をしてみたいと思っていた。気力・体力もそろそろ限界と思い、この度、西安からローマまでを陸路、バスと列車で旅行する一大決心をした。約2か月で15か国を訪れる、約15,000kmの旅である。きっと今までと異なる旅で生涯の思い出となると思う。 

敦煌 鳴砂山月牙泉
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3月30日(金)晴れ
 今日からシルクロードの旅が始まる。先ず羽田空港から北京へ、そして北京から乗り継ぎで西安に向かう。北京・西安間は危惧した通り、遅延となる。ホテルに着いたのは、PM11:50、かろうじて当日に到着した。中国でいつも感じるのは、ハードは立派だが、ソフトはまだまだと。
 西安は事前にインターネットで気温を調べていたが、大外れで到着した時は18℃。ホテルで明日の予報の気温を見ると11℃から23℃ということらしい。

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 明日の予定は一日中、西安で観光だ。ただ、半年前に西安に来たばかりなので、余り感動はしない。夜中にメールのチェックをしているとfacebookにアップされているとの情報を見るが肝心のfacebookは情報統制で中国では見ることができない。


3月31日(土)曇
 今日は西安を見学、半年前に西安・洛陽の旅をしたところなので、新鮮味がないが、取りあえず兵馬俑坑に出かける。土曜日なので大勢の観光客で大混雑の状態だ。とりあえず1号坑、2号坑、3号坑と見学する。やはりスケールの大きさに圧倒される。第1号坑は巨大な体育館のような建物の内部にある。

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1号坑の中の埴輪、どれ一つとして同じものがないのは驚きだ。
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3号坑は軍隊の司令部であったといわれている。おのずと普通の兵隊と異なり、高級、中級の武人の像がある。
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 兵馬俑の一号坑から三号坑の建物とは別に『総合陳列楼』ある。そこには銅で作られた二分の一のサイズの銅馬車の1号車と2号車(副車)がある。どちらも御者がいて、非常に精巧だ。1号車の後ろを2号車が隊列を組んで行進したのだろう。

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兵馬俑博物館を後にして、陝西歴史博物館を訪れる。こちらは入館が無料の日に当たり、大勢の観光客であふれ、見物どころではなく、早々に退散する。

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 前回(昨年九月)は雨が降っていて登れなかった『大雁塔』に登る。玄奘三蔵がインドから経典を持ち帰り、それらを収蔵した建物だ。一番上の窓から東西南北を見渡せる。さすがに西の方角を観ればはるかシルクロードへの道が延びている。

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 本日の最後は『清真寺』に出かける。西安のイスラム教徒が多く住んでいる地区にある。一見すると中国のお寺のようで、モスクのようには見えない。

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本堂にはメッカの方向に祈祷段があった。
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清真寺の周りはイスラム教徒のためにハラルの羊肉をダイナミックに解体していた。
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イスラム教徒の街からホテルまで歩いたが、西安の城壁がライトアップされていて非常に美しく感じた。
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4月1日(日)晴れ
 今日から4月だ。こちらに来てよかったことは花粉症から解放されたことだ。まず、西安からシルクロードで西に行くために、古来よりのしきたり?でとりあえず西門(安定門)に出かける。市内を取り囲んでいる城壁に登ると、幅16mとのことで、かなり立派な城壁であった。毎年11月に城壁の上を走り1周するマラソンがあるそうだ。

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 安定門は明・清の時代の城壁であり、唐の時代の城壁と比べるとかなり小さなものらしい。ここから唐の時代の西門(開園門)に行きシルクロードへの出発式を行う。現在、開園門はなく公園とシルクロードのモニュメントがあるだけだった。我々のために、わざわざ、西安市旅遊局の主任と通訳や職員を連ねて待っていた。歓迎の祝辞と王維の『渭城朝雨浥軽塵・・・・』の詩を朗々とうたい、その後は白酒の乾杯となり、記念写真を撮る。現地ガイドの気配りか、サプライズな出発だった。

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旅游局の人達との記念撮影
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 開園門を過ぎて1時間近く走ると渭川を渡り咸陽に着くが、ここには多くの王墓がある。その中でも漢の武帝の茂陵は別格の大きさだった。そばには霍去病や衛青の墓もある。一般人のお墓もこの近くにあり、来週の5日に清明節がやって来るので日曜日ということもあり、大勢の人々で賑わっていた。

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併設されている博物館
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茂陵の頂上から望む風景 
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茂陵には霍去病らか匈奴を制圧した記念に漢の馬に押しつぶされている石の彫刻があった。国宝とのこと。
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 大仏寺の門前には、約20cm ~2mの長さの線香を売っているが、買った人が、境内で線香を炊こうとしたところ、寺院内は火災の恐れがあり、NGとのこと。寺の外の駐車場ならOKらしいが、それを知りつつ門前で黙って販売するのはチョット詐欺商法の感がある。

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4月2日(月)晴れ
 今日は平涼から蘭州まで370kmの移動だ。高度高原を走り六盤山を突き抜けるルートだ。今はトンネルがあるので困難な旅にはならない。例年、雪が残っているとのことだが、今年は暖かくその心配は無用だった。
 かつては成吉思汗が西夏王朝を倒した後、モンゴルに帰国する途上で、この六盤山のどこかで亡くなったという。また、毛沢東をリーダーとした中国共産党は江西省から国民党に追われ、延安に行く長征でもこの山をほうほうの体で多くの落後者を出しながら通過している。
 日本を出てから4日目だが、お腹の調子が悪くバスの中ではほとんど居眠りをしていた。長旅なので健康に留意しなければと思っていたが、こんなに早く調子が悪くなるなんて、これからは注意をしなければ。

高度高原の六盤山は荒涼としている、然し山麓は様々な花が咲いていた。
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蘭州を流れる黄河は名前の通り黄色く濁っていた。
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濡れた羊皮筏子を干している
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西遊記のモニュメント
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生きている孫悟空
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4月3日(火)晴れ
 おなかの調子はいまいちだが、甘粛省博物館と世界遺産の炳霊寺に向けて出発。今日の気温は2℃~20℃とのこと。朝は少々寒い。

甘粛省博物館はさすがにシルクロードに位置する博物館だ。収蔵品や展示方法など中々だと思う。
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 前漢時代の馬のブロンズ像、これは中国営の中国青年旅行社のマークにもなっている。また、壁画には郵便配達者の像が描かれている。これも中国郵政局のマークとなっている。
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シルクロードなので仏教関係のものも多く、また、恐竜の展示もあった。
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 博物館から劉家峡ダムに出かける。ここは、前胡錦涛主席が数年間ダム建設で働いていたところでもある。このダムは黄河にあり、容量57億立方メートルと、黄河流域で最大の規模をもつダムで、発電能力も116万キロワットと水力では最大。劉家峡ダムから1時間ボートに乗って世界遺産の炳霊寺へ。

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炳霊寺の石窟には大仏像もあり西秦、北魏、唐、明の時代に造られたものがほとんどで、その数は169にのぼる。
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4月4日(水)曇
 今日は蘭州から張液を目指す。そして途中に武威に立ち寄る。570kmの行程だ。蘭州を出ると左に祁連山脈、右に北山山脈にはさまれた回廊を走る。途中、海抜3000mクラスのの烏鞘嶺を越える。以前は山越えの難所であったが、今は5本のトンネル(3km,7,km,1km,7km,3km)があり、随分楽になったようだ。以前観たNHKの番組「シルクロード」では、確か重連の蒸気機関車が山を越えるシーンが有った記憶がある。
 武威の街は古くから栄えており、マルコポーロが立ち寄った際に元の都である大都と間違ったとか。街の郊外に曹操の娘の墓『雷台漢墓』がある。ここから有名な『馬踏飛燕』のブロンズ像が発見された。実物は甘粛省博物館で見学済み。また、武威は唐の時代に鳩摩羅什が17年間インドから持ち帰った仏典の翻訳のため強制的に足止めされた街でもある。 

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 この雷台漢墓は非常に狭いが、墓の中に入ることができる。そして棺室に入ると副葬品のブロンズ製のレプリカの装飾品を見ることができる。本物は同じく甘粛省博物館に収められている。
 
墓の入口
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棺室の副葬品のレプリカ
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馬踏飛燕のブロンズ。本物は40cm程度 副葬品を拡大したブロンズ像
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 武威から張液を目指す。途中は小雪が舞うあいにくの天気だ、明の時代に造られた長城跡がバスの窓から見える。雪を頂いた山麓には土でできた長城があり2.5kmごとに烽火台がのこっている。
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長城を道路が突き抜けている 
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街にはマルコポールの像かある
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4月4日(木)曇りのち晴れ 気温は-8℃~4℃
 今日は張液からゴビ砂漠を走り嘉峪関に至る240kmの行程。ただ、気温が低く震え上がる。中国では砂漠は「沙漠」と「砂漠」があり、沙は細かい粉のような砂、砂は石ころの意味だそうで、ゴビ砂漠は石ころだらけの砂漠。

 ホテルを出発して先ず、昨日寄れなかった張液の大仏寺に立ち寄る。ここはマルコポーロも立ち寄り、巨大な涅槃物を見学したと見聞録に記載している。門前は柳の並木道で中国的清明節にもかかわらず早朝なので人がいない

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 大仏寺から嘉峪関手前にある「魏晋壁画墓」に行く。棺室に入るには10名程度の人数に制限されているため、先客のオーストラリアの観光客が見終わるまで約半時間待機する。中に入ると陶板の上に彩色された絵を鑑賞する。絵の題材は日常生活の模様が描かれており、当時の貴族の生活ぶりがわかり非常に面白い。残念ながら墓の中は、写真はNG。

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この建物の中から墓の中に入る
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 魏晋壁画墓からいよいよ嘉峪関に向かう。さすがに休日のせいもあり、観光客でにぎわっている。この地は明代の最西の長城がある。

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嘉峪関の城内に入る
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明代の長城が祁連山脈まで伸びている
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砂漠にはラクダが休憩中。
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街の長見かけたシーン、スクータに羊を乗せて走っている。DSC_2451 (800x533)

 日本を出てから丁度1週間がたつ。つくづく、日本の気候は穏やかで住みやすいかがよくわかる。今回の旅行での発見は観光地のトイレが見違えるほど快適(日本ほどでないが)に改善していることだ。以前の中国のトイレのイメージはネガティブなものばかりであったが、5星や4星のトイレができている。習近平の鶴の一声による『トイレ革命』の結果だろう。何はともあれ一党独裁のおかげだ。


4月6日(金)晴れ -5℃~15℃
 朝はさすがに震える寒さ。今日は嘉峪関から敦煌へ570kmを移動。途中、瓜州に立ち寄り、敦煌の莫高窟の姉妹窟といわれる楡林窟を見学。道中は左に祁連山脈を見ながら進む。瓜州は風が強いことでも有名だそうだ。ゴビ砂漠の中に何百もの風力発電機のプロペラが回っている。砂漠のため、太陽光線も不自由しないので、ソーラ発電までやっている。このように再生可能なエネルギーを積極的に活用している中国は正直素晴らしいと思う。それに引き換え、日本のエネルギー政策は、いまだに原発は安全で廉価なエネルギー源と言っている。これは利権構造の最たるもの。

冠雪している祁連山脈  
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ゴビ砂漠を列車が行く
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1基、約2千万円の風力発電機
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風力発電機の下にはソーラ発電機
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烽火台が見える
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 瓜州の楡林窟はかなり辺鄙なところに位置しているため、観光客は少ない。唐、宋、明、清の時代の石窟で今回は7個の窟を見学。カメラや荷物は預けるシステムだ。ただし案内係りがしっかり説明してくれる。

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 瓜州から敦煌に向かう。敦煌は河西回廊の最西に当たるところだ。古来よりシルクロードの交易の中心地でもある。時間の関係で今日は鳴沙山に立ち寄る。10年ほど前に来たときと比べると月牙泉のオアシスの水量は明らかに増えていた。

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 体調もかなり良くなった。今日は敦煌に連泊するため、たまった洗濯をしなければ。


4月7日(土)晴れ 
 今日は朝から敦煌の莫高窟を見学。以前と異なり莫高窟から車で10分程度のところの劇場に連れて行かれる。先ず、敦煌の歴史について30分程度の映画を見せられる。その後は隣の360度、3D画像の莫高窟内の様子の映画をみせられる。これも30分程度。この2本の映画を観なければ莫高窟の見学はできないそうだ。その後はシャトルバスで莫高窟に向かう。中国政府が、見学者に上から目線で教育している感じだ。チョット不愉快な感じだ。

 莫高窟は、以前はカメラの持ち込みは禁止されていたが、窟内の写真を撮らなければOKとなっていた。莫高窟は45窟、57窟の見学は特別料金400元(約7200円)を請求される。その後は329、323、234、325、251、249、148窟を見学する。中でも井上靖氏の恋人といわれる菩薩像は豊満で優しそうな感じで、保存状態も素晴らしかった。
 井上靖の小説『敦煌』は、井上氏自身がまだ敦煌を訪れたことがなく小説を上梓している。また、NHKの『シルクロード』の音楽を担当したキタローもシルクロードを訪れたことがなく作曲したそうだ。二人の想像力は天才的と思う。

窟内の写真はNGなので外から撮影する
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甘粛省では楡の花を小麦粉と和えて蒸し韮を加えた料理がある、中々乙な味。
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 午前中に莫高窟の見学を終え、玉門関、漢の長城、河倉城に向かう。道中は100km程度の距離があり、ゴビ砂漠を行く。砂漠に生えているのは、ラクダ草、セキセキ草、タマリスク程度だ。途中に蜃気楼を見る。

蜃気楼がかすかに見える
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玉門間は2千年前のもので、風化により土の塊となっていた。
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 若い中国人の観光客が多い。観光地の熱気を見ていると約半世紀前の大阪万博を思いだす。あの頃の日本人の熱気によく似ていると思う。   
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ラクダ草
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漢の長城も2千年以上前のもので、かつては高さ8mあったそうだ。
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烽火台
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こちらにも烽火台があった
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 今日で漢民族の支配していた世界は最後となった。明日は、いよいよ西域に入る。シルクロードの世界である。
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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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