17.11.24円覚寺、東慶寺、浄智寺

 昨日の雨も上がり、天気が回復してきた。紅葉を求めて、久しぶりに北鎌倉に出かける。

 円覚寺に着いたのが、9時ごろであった。さすがに観光客が多く、チョットうんざりだ。
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 山門はさすが鎌倉五山の第二位の風格がある。
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 境内のモミジは今が紅葉真っ盛り。ただ、寒暖差さがないので京都のモミジのように真っ赤に色づくことはない。
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 方丈の庭園
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 円覚寺の門前は横須賀線の北鎌倉駅前にあるため、大勢の観光客でにぎわっている。
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 門前を通過するJR横須賀線。
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 円覚寺から鎌倉街道を5,分ほど歩けば、駆け込み寺の東慶寺がある。井上ひさし著の『東慶寺花だより』でも有名。明治時代に家庭裁判所ができたため。離婚に際して、女性が駆け込む必要がなくなったということで、尼寺でなくなり、その後は男性が住職についている。
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 参道を通ると茅葺の三門がある。尼寺であったため、なんとなく優しい感じがする。
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  境内には大仏(小仏?) がある。DSC_1329 (533x800)

  茶室なのか、いつ行っても門が開いているのを見たことがない。
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 東慶寺本堂にある釈迦像。
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 本堂の隣にある宝蔵館は展示物の入れ替えでクローズ中。この中には江戸時代書かれた『三行半」の実物など展示されており、興味があったが残念。ただ、阿弥陀如来像はそのまま展示されていた。
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  宝蔵館内にある阿弥陀如来像。
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 東慶寺からさらに鎌倉街道を5分ほどゆくと鎌倉五山第四位の浄智寺がある。住宅の間にあるお寺だが、参道を100歩も歩くと、風景は一変する。門前の湧水は鎌倉十井の一つ『甘露の井』である。
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 山門を抜けると鐘楼門がある。鐘楼が山門の上にある珍しい門だ。
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 境内は意外と広い。
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 境内の竹林の中にも小さな供養碑がある。
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 同じく境内のやぐらには様々な供養塔や仏像がある。
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 鎌倉七福神の布袋像。よそで見る布袋像とは少し違うような気がする。
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 久しぶりに北鎌倉に出かけたが、観光シーズン真っ最中のため、人が多く少々うんざり。帰路は鎌倉山から富士山が望めた。富士山が見えると何か得をしたような感じがする。富士山もしばらく見ないうちに随分麓まで冠雪していた。
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17.11.12-13京都

 11月12日~13日に京都に行く。シーズン真っ盛りで河原町や八坂神社界隈は大げさではなく、半数近くの人が外国人かと思うほど、外国語にあふれていた。

 四条大橋から賀茂川を眺める。
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 午後から大学のサークルのOB会に参加する。話題はもっぱら病気や薬の話になる。中でも前立腺肥大で手術したところ、毎晩3~4回はトイレに起きたが、今は全く心配なし。そして残尿感もなし。との話に真剣に耳を傾ける多くの男性がいた。

 大学のチャペルは、今も健在。
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 皆いい老人になっている。
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 翌朝、ホテルから御所に散歩に出かける。少々寒いが、観光客も少なく快適な散歩ができた。
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 塀の中は仙洞御所。
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 京都御所 一般公開をしていたが、時間がなくパスする。
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 御所の中には宗像神社の分社があった。由緒書きによると、ここは旧花山院邸の跡地とのこと。
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 閑院宮跡邸
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 1864年、長州藩と御所を警護していた会津藩、薩摩藩、桑名藩との間で激戦が行われた。いわゆる「禁門の変」のである。この門は、もともと新在家門と呼ばれていたそうだ。江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえられ、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうだ。梁の上には今でも戦闘の弾丸の穴があった。

 蛤御門
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 御所から河原町沿いに歩いていると、「山本覚馬・新島八重」の旧宅跡の石碑があった。
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 午後から高校時代の友人二人と会い、旧交を温める。話題は今夏以降、二人が鬼籍に入ったとのこと。こちらも専ら終活の話となる。

 半世紀もたったのに、友達と会うと青春時代に戻った気がする。断捨離をしていても友達は一生モノの宝物と思う。



17.11.06長谷寺他

 連休が終わり、天気もいいので『長谷寺縁起絵巻』を見に行く。

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長谷寺の弁財天
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六地蔵
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地蔵群
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やっと秋らしくなったが、鎌倉は寒暖差があまりないので、紅葉はあまり美しくない
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季節の花なのか雑草なのか『ツワブキ』が、ひっそりと咲いていた。
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帰りに高徳院と光則寺に寄ってみる
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光則寺の橘
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17.10.28-11.01西安・洛陽雑感

洛陽の龍門石窟。伊川を挟む対岸から眺めた則天武后がモデルといわれる廬舎那仏。

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【雑感】
・長安は東経108度55分、北緯34度15分に位置する。わが国では紀伊半島の尾鷲や徳島、今治、徳山と同一線上にある。一方、洛陽は東経112度27分、北緯34度41分で位置的には長安の東約250kmに位置する。そして緯度的には大阪とほぼ同じだ。体感的には東京と比べて若干寒く感じた。

・長安は地理的に、歴代王朝の主要な領域の真ん中よりもかなり西にずれている。ここは「関中」と呼ばれるように、中国の主要な領域からは函谷関や玉門関といった守備の固い難所を通って行かなければならず、反乱が起きた場合の防衛に適している。
 一方、洛陽はその「関中」よりも東側の比較的平坦な地にあり、領土の真ん中に近くて交通の便が良いので経済的に有利。しかし交通の便の良さは、内乱が起きたら守りに弱いことも意味する。つまり、軍事的には長安、経済的には洛陽がすぐれている。
 また、中国の統一王朝は、東側はいつも海岸まで領土にしているが、西側の広さはその王朝の勢力によって変わる。勢力の弱い王朝は、西にずれている長安は異民族の領地に近いことになり、洛陽を選びがちになる。逆に強力な王朝は西域に進出して積極的に攻略し、経営していくので、西側にある長安を選ぶ傾向にあるのでは。

・西安は阿倍仲麻呂や空海が入唐している。当時、長安は国際都市でソグド人(ペルシャ人)が商業はもちろんのこと、当時の酒場でも働いていたようだ。現代ではさしずめ外人バーに相当か。まさしくシルクロードの基点だ。

・西安の歴史は古代や中世だけではない。今から80年ほど前の1936年に張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件が発生した。東北軍の張学良が、国民党の蔣介石を西安で監禁し、国共内戦の停止を迫り、それに同意させたクーデター。抗日民族統一戦線を結成する端緒となり、1937年の日中戦争の開始と共に第2次国共合作が成立した。


 中国は北京や上海、広州などが脚光を浴びるが、歴史的には西安や洛陽にはかなわないと思う。

17.10.28-11.01西安・洛陽紀行

 中国のかつての都、長安(西安)と洛陽に行く。西安は20年前に、そして洛陽は15年前に出かけたことがある。当時は兵馬俑や始皇帝陵の周りはトウモロコシ畑であったような記憶がある。また、おぼろげな記憶では洛陽の龍門石窟の直ぐそばに川が流れていた。

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 4泊したホテルは長安城内の長楽門(東門)のそばで、場内の散策には便利なホテルであった。

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【兵馬俑坑博物館】
 西安の東35kmの所に秦の始皇帝陵があり、陵墓よりさらに1.5km東の所で、集団農場がある。そこで井戸掘り作業中に世界の考古学上、最大の発見とされる兵馬俑がある。1974年の出来事で中国は文化大革命の嵐の最終局面とでもいう時期であった。
 前回、来た時は博物館のそばまで車で行けたが、今は駐車場からかなり歩く必要がある。当時は博物館の前には土産物店が多くあり、その店先で遺跡を発見した老人が兵馬俑の本を買うと発見者・楊何某とサインをしてくれた。今もその老人は健在で現在80歳とのこと。発見者は9名で現在生存している人は3名。今は博物館の近くの元人民公社のあった村で楊老人は立派な家で兵馬俑の本(サイン入り)を販売したり、旅館を経営したりしていた。

 博物館は第一号から第三号坑まであり、そのスケールに圧倒される。じっくり見学するには半日かかる。現在も発掘調査中である。以前と異なり破片はパソコンを使い3D技術で復元されている。

秦始皇帝兵馬俑博物館
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 第一号坑博物館内は巨大な格納庫のようだ
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 よく見ると同じ顔や服装はみな異なっている
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 最初に埴輪を発見した場所
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 戦車の埴輪
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 第一坑の中には『土』という文字の中に埴輪がある
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 復元作業中の埴輪。復元作業は1年中行われている
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 二号坑には多くの発掘調査中の埴輪がある
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 三号坑は軍隊の司令部であったといわれている。

 三号坑にある中級軍人象 正面 保存状態が良いのでガラスケースに入っている
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 中級軍人象 後面
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 中級軍人像 
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 高級軍人像(将軍)の埴輪
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 騎兵像
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 立射像 弓を持っていたと思われる
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 兵馬俑には、兵士や軍馬だけでなく軍司令部のミニチュアや、文官や芸人等の埴輪もある。そうしたことから、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものである可能性が高いといわれている。

 兵馬俑の一号坑から三号坑の建物とは別に『総合陳列楼』ある。そこには銅で作られた二分の一のサイズの銅馬車の1号車と2号車(副車)がある。どちらも御者がいて、非常に精巧だ。1号車の後ろを2号車が隊列を組んで行進したのだろう。

 1号車
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 2号車
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兵馬俑発見者の楊老人の家
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 楊老人に20年前に本を買ってサインしていただいたと伝えたところ、老人夫婦は家の外まで見送りに来てくれた。
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【秦の始皇帝陵】
 西安の東約30kmに位置しており、大きさは東西350m、南北345m、高さ76m、体積は約300㎥も。70万人が38年をかけてつくったといわれている。盗掘を防ぐため、この墓に近づく者に矢を射るしかけまであったそうだ。兵馬俑坑は、この陵(墓)を取り巻くように配置され、そこから出土した等身大の土偶はみな、東を向いている。この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服の構造や始皇帝の思想などを知る上で貴重な史跡の一つだ。
 以前、訪れた時は単なる小山程度の感じで、立ち入ることができたような記憶があり、麓はトウモロコシ畑であったが、今は完全に整備され、立派な公園になっていた。

 世界遺産の表示
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 小高い丘が始皇帝廟
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【青龍寺】
 青龍寺は、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院だ、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。創建は582年。元の名前は霊感寺といったが、711年に青龍寺と改名された。唐の時代にはかなり有名な寺院であったようで、日本との縁も深い。著名な「入唐八家」のうち、六名の僧侶がここで仏教を学んだ。最も有名なのは空海である。空海はここで恵果法師を師として、密宗を伝習。1981年、日本仏教界は青龍寺の境内に、空海記念堂と空海記念塔を建立した。空海はここで恵果法師に真言密教について教えを請い、また苦労して中国仏教密宗文化を学び、漢学についても研鑚を積んだ。彼は博学で、造詣も深く、仏教、詩、詞、サンスクリット、書などについても成果をあげた。806年、多数の仏教経典や書籍を携えて帰国。奈良の東大寺で日本密宗真言宗を開いた。道場を開いて、密教を広め、日本留学僧の中でも数少ない仏学大師となり、「東密」の開祖となった。1982年、青龍寺には「空海記念碑」が建てられた。

 青龍寺
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 境内にある空海の説明石碑
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 空海の師・恵果阿闍梨と空海
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 唐の『白居易』の詩碑
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 西安市空海記念碑建築協力委員会の碑文。青龍寺は四国4県とも交流が深く境内には多くの桜の木が寄贈され植樹されていた。桜のシーズンには大勢の中国人が花見に訪れるという。
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 境内内にある空海記念碑 記念碑の上には五輪塔がある
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 境内には四国八十八か所巡礼のゼロ番札所としてのモニュメントがあった。これは空海の空の意味にも取れるのではと思った。
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【南門広場】
 西安の城壁は、完全に保存されている古代城壁の中で世界最大のものだそうだ。現存している西安の城壁は、明の洪武年間(1370年~1378年)に、唐代の長安城をベースにレンガを積み重ねて築かれたもので、周囲14km、高さ12m、底の幅18m、頂部の広さ15mある巨大なものだ。特に、高さよりも厚みの方があることに、当時の防衛の拠点としての城づくりの考え方が見える。
 中国語では街のことを「城市」ということでも分かるように、昔から自分たちの街を守るために城を築いていた。三国志でも、長安の城は難攻不落だが、この長安の地理的な重要性から、かねてより長安城は堅固に作られた。秦の都だった時代もあり、また、董卓が洛陽から長安に遷都したことにより、長安の街はさらに拡大したことなどから、現在の世界最大の古代城壁が生まれてきた。

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【興慶宮公園】
 長安において、唐の時代に造られた宮殿。唐の玄宗時代は政務が行われていたそうだ。現在は、構築物はない。礎石の一部が残るのみ。跡地に興慶宮公園ができており、阿倍仲麻呂の記念碑があった。
 公園を訪れた時はあいにくの雨であったが、中国の公園特有の光景である社交ダンスやコーラス、ブラスバンド、太極拳などが行われていた。


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 奈良時代の遣唐留学生であった阿倍仲麻呂は唐で国家試験に合格し、唐朝で諸官を歴任し、高官に登りつめたが、日本への帰国を果たせず73歳で客死している。彼は詩人の李白や王維とも親交があり、当時の玄宗皇帝にも謁見している。また、安南節度使としてベトナムの総督を務めている。仲麻呂が難破して死んだと伝えられた時に李白は追悼の七言絶句『哭晁卿衡』を作ったことは有名。現代の日本では外務大臣にしたいような人であった。

 阿倍仲麻呂の顕彰碑
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顕彰碑に刻まれた李白の追悼詩
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【大興善寺】
 西晋の秦始2年(266)創建という1700年以上の歴史を持つ寺院。随、唐代には国立の経典翻訳場となり、中国密教の発祥地として有名に。境内には中唐の元和4年(809)建造の蔵経閣が残っているほか、明・清代に再建された山門や鐘楼、鼓楼といった建物が立っている。玄宗の代に不空三蔵が入寺するや青龍寺と並ぶ二大密教寺院となり、日本からも空海、円仁、円珍らが学んだといわれている。

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【陝西省歴史博物館】
 1983年より建設が始まり、1991年に開館した比較的新しい博物館。秦始皇帝陵・唐代の帝王陵にまつわる墓からの出土品や、前漢に始まる本格的な生活品の陶器など、展示品の質・量ともに中国国内有数の所蔵を誇っている。
 展示品は1階が石器時代、2階が随・唐時代のものが中心に展示されている。1千年~2千年前のものも驚くほどに精巧にできている。ただ、中学生団体の見学者が多く、十分に見学ができなかった。

 西周時代の馬車の埴輪 
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 兵馬俑の一部収蔵品
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 秦時代の青銅・鴻雁
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 東漢時代の犬の埴輪
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 ラクダの埴輪
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 北周時代白石佛菩薩三尊像
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【大雁塔】
 652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを高宗に申し出て、当時の大寺院であった『大慈恩寺』に建立した塔である。玄奘三蔵がインドから帰ってきたのが645年。唐は名君と言われた二代目の太宗が皇帝の時代で、太宗は玄奘三蔵が持ち帰った経典の翻訳を指示し、玄奘三蔵はこの翻訳を彼が没する664年の直前まで続けたと言われている。
以前訪れた時は塔の上からシルクロードを眺めることができたが、今は高層ビルやマンションが建ち以前の趣はなかった。

 雨のためあまりよく見えない 
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 玄奘三蔵像
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 大雄宝殿の釈迦像
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 西安に4泊するが、1日は日帰りで洛陽を訪れる。以前は考えられないことだが高速鉄道を使えば3時間ほどで往復できる。便利になったものだ。

 高速鉄道のチケットは、よく見ると名前とパスポートNOが記載されている。西安駅も洛陽駅も市の中心部から少し離れている。しかし、駅は非常に大きくゆったりしている。日本のようにプラットフォームで並んでも十分余裕がある。

 高速鉄道のチケット 
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 西安駅コンコース
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 高速鉄道『和諧号』 
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 プラットフォームの『和諧号』
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【関林廟】
 皇帝の墓は「陵」といい、武の聖人と称される関羽と文の聖人である孔子の墓を「林」という。洛陽には関羽の関林廟がある。三国志の英雄関羽は呉の孫権と湖北省宣昌の近くの当陽で戦い敗北。孫権は魏の曹操に関羽の首をプレゼントした。祟りを恐れた曹操は、その首をこの地に手厚く葬ったという、言い伝えが残っている。

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 清朝乾隆帝が揮毫した扁額
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 関羽の玄室に至る扉で穴にコインを入れると中まで転がり、棺桶に当たれば音がする
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 関羽像
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 関羽の遺体像
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 日本の鳥居のような感じ
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【白馬寺】
 白馬寺は中国最初の仏教寺院で創建は68年と伝えられる。後漢の明帝(在位57〜75年)が夢のお告げによって、インドに使者を派遣すると、はたして摂摩騰、竺法蘭、の天竺僧が、白馬に仏教の経典と仏画を載せてやってきた。寺名も白馬にちなんでつけられた。白馬寺は董卓の乱による洛陽の大火で罹災し、三国時代の魏により再建された。現存の建物は明清時代に修復されたもので、境内には四天王や釈迦を祭る建物などがある。三国志と結びつける石碑等は見当たらなかった。
 15年前に訪れた時と比べ随分とメジャーな観光地になったような気がした。

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【龍門石窟】
 今回の旅は西安の兵馬俑と洛陽の龍門石窟見学がメインだ。
 敦煌の莫高窟、大同の雲崗石窟と並んで洛陽の龍門石窟は中国の三大石窟と言われている。その他にも蘭州の炳霊寺石窟、天水の麦積山石窟などもあるが、一番高貴で整った顔の仏像は、河南省洛陽の龍門石窟だと思う。
 約400年間も龍門石窟の造営は続いた。伊川を挟んで、東西約1kmにわたる巨大な石窟には2cmから17mまでの約10万体の仏像が刻まれているそうだ。絶頂期に完成したのが奉先寺洞の盧舎那仏。龍門石窟のパンフレットに使われるのは、必ずこの盧舎那仏だ。奉先寺は唐の高宗の発願で造営され、672年に完成。盧舎那仏は高宗の皇后の武氏、後の則天武后がモデルだと言われている。そうではないとしても盧舎那仏の弓形の美しい眉、しっかり通った鼻筋、穏やかな目、ひきしまった口元は、高貴で端正そのもの。この像は、後の仏像彫刻に影響を与えたことは確かだ。

 龍門石窟の入り口
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 石窟の九会は伊川が滔々と流れる
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 様々な大きさの石窟があり仏像が彫刻されている
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 則天武后がモデルといわれる廬舎那仏の美しい仏像がこれからだ
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 伊川を挟んで対岸から眺めるとこのように
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 かつて訪れた西安と洛陽の変貌は、驚くほどであった。たった、20年や15年でこんなに変化するとは。日本の時間軸で考えると、中国の変化は日本の1年は中国では3~5年に相当するのではと感じた。

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