17.05.15-25イラン雑感 

 かねてから『イラン』というより『ペルシャ』に行きたいと思っていた。この度、やっと実現したこととなる。イランに入国するには旅券に敵対国であるイスラエルに入国したスタンプが押印されていると入国ビザの発給が認められない。旅券には2013年にイスラエルに入国したスタンプの押印があり万事休す。今回はイラン入国のための一度きりの「限定旅券」を申請し、イランに出かけた。その間は従来の旅券を日本政府に預託し、イランから帰国後は限定旅券を返納の上、従来の旅券を返戻してもらう。

 イランという国はかつて、途方もなく巨大国家であった。古代アケメネス朝ペルシャ帝国(紀元前550~紀元前330)の時代は、現在のパキスタンからトルコ、ギリシャ、エジプト、中央アジアまで広がる大帝国であった。その後のササン朝以降で、自信を取り戻し、最も強大な力を発揮したのがサファビー朝である。サファビー朝とは16~18世紀に栄え、その領土は現在のイランからイラク、シリア、トルコ、アゼルバイジャン、アフガニスタン、パキスタンなどにまたがる広大な地域に及んでいる。

 そもそもイランの国土はアメリカのアラスカ州と同じぐらいの大きさである。世界第三位の埋蔵量を誇る産油国で、石油は世界の埋蔵量の11%。天然ガスは15%を占める。

 石油と天然ガスの収入がイラン政府の主な財源だが、サウジやカタール、ドバイなどのように国民が税金を払わずに済ませるほど甘くなく、人口が多い。イランはかなり早い時期に工業化が進み、農業もカナートにより盛んである。GDPの内訳も鉱工業、農林水産業、小売り卸売業、サービス業と石油一辺倒でなくバランスが取れている。しかし現在でも、経済制裁の影響で物価上昇に悩まされており、なかなか上手くいっていないようだ。

 イランの貿易依存度(2012年)は輸出で19.0%、輸入で11.2%と世界的に見てもかなり低い数字だ。食料から加工品まで幅広い分野で自給能力が高い。革命以降長期にわたり、「反グローバリズム」的な姿勢が国の体力維持につながっている。

 中東では人口規模でトルコ、イラン、エジプトはいずれも7~8000万人だ。3か国の1人当たりの購買力平価GDP(2015年)で比較するとお凡そ2万ドル、1万5000ドル、1万1000ドルとなる。イスラム革命以前の長い歴史を通じて、外国の搾取に苦しんできたイランは経済を解放することの難しさを痛感している。グローバリズムを簡単には信じない。

 イランのお札はインフレのためゼロが多く付いている。因みにUS$10を両替したら350.000リアルであった。ゼロを1つ間違ったり、計算が非常に面倒。お札のデザインはホメイニ師。イランでは聖徳太子のような存在。ホメイニ氏を批判したりすると罰せられるとか。

お札の表はペルシャ文字の数字。裏のアラビア数字で確認する。それにしてもゼロが多い、
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街にはホメイニ師やハメネイ師の写真が飾られている。さながら昔の御真影。
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 イランのモサデク首相は1951年「イランの富はイラン人の手に」との理念のもとに石油国有化法を断行した。当然石油メジャーは軍艦を派遣し威嚇した。そして海外にあるイランの資産は凍結された。1953年に出光興産が「日章丸2世」をアバダン港に差し向け、「石油国有化」を宣言したイランからガソリンと軽油を日本に持ち帰った。この話は「海賊と呼ばれた男」(著百田尚樹)で有名だ。従いイランは非常に親日的。

  インフレに悩むといっても日本と比べれば為替の関係もあるが、テヘランの地下鉄は全線同一料金で片道券は5000リアル、往復券は8000リアルで15~20円程度。ガソリン代はさすがに産油国1リッター30円程度だ。

テヘラン市内の地下鉄は庶民の足。
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  途上国と思われるのは著作権の意識が低いことが見られる。どこかで見たことのあるようなロゴだ。バザールに行けば中国製の偽物のブランド商品を多く見かけた。

ハンバーグのファーストフード店
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バザールの様子
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  たまたま旅行中に大統領選挙があり、親欧米の保守穏健派のロウハ二大統領が再選された。オバマ大統領時代に経済制裁解除にこぎつけた外交を国民が支持したのだろう。今年、アメリカがトランプ政権になり、また経済制裁を云々しているが、イラン国民は明らかにロウハ二大統領の自由化路線を支持している。イランで感じるのはイスラム法学者のハメネイ師がイスラム法をの下に政策の是非を判断する政治の二重構造だ。これは1979年のイスラム革命でホメイニ師が亡命先のフランスから帰国して以来このような方式だ。中国も李克強首相の上に共産党の習近平総書記がいるのとよく似ている感じがする。

街頭の選挙ポスター
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  イランはイスラム教国家だが、他のイスラム教国家と違い少数派であるシーア派を国教とする。イスラム教徒は「アッラー」、「天使」、「経典」、「預言者」、「来世」、「天命」の6つを信じ、「信仰告白」、「礼拝」、「喜捨」、「断食」、「巡礼」の5つをする。これをまとめて「六信五行」という。イスラム教は宗教というより「生活規範」に近い。

 今年は5月28日から断食が始まる。断食の存在意義は断食により、食べられる幸せを再確認。満足に食べられない人のことを考える。煩悩を抑えるための忍耐を養う。

喜捨をするのが宗教的な義務なので、街中には至る所、喜捨用のドネイションボックスがある。
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 イランの街には大小さまざまなモスクがあるが、その町の一番大きなモスクを『金曜モスク』と呼ぶそうだ。革命以降のイランはイスラム教が生活の中心となっているような感じがするが、実際は随分緩やかだと感じる。イスラム国に行けば、モスクから必ず大音量でアザーン(コーランの一節やお祈り)が1日5回聞こえてくるが、イランではほとんど気が付かなかった。シーア派は1日5回のお祈りも3回でも構わないそうである。スンニ派の国ではドライバーはモスクがなければ道路沿いでマットを敷いて、お祈りをする人を見かけたが、イランでは一度も見かけなかった。

  厳格なサウジの様なイスラム国では結婚は不平等。男は4人まで妻を持つことが認められる。離婚も男は一方的に宣言すればよい。その逆は存在しない。男性は異教徒の女性と結婚できるが逆はできない。また、シャリア法でイスラムの5大義務を定めているが、同様に犯罪の刑罰も定められている。殺人、レイプ、麻薬、政治犯、同性愛者に対しては死刑。窃盗、痴漢などは手首切断。ラマダン中の飲食や不法な集会はむち打ち刑や罰金。未成年でもシャリア法では男性は15歳、女性は9歳から死刑を執行することが可能。基本的には「ハムラビ法典」からきており、「目には目を、歯には歯を」が原則。

  イランは宗教でも徹底した男女分離が行われている。地下鉄は女性専用車があり、バスは前後で席が分かれる。スキー場や水泳場は分離されている。病院や学校も分離されている。そして男性には男性の教師、女性には女性の教師が教える。しかし、公園などではデートと思しき若者をみかけることもあった。

  一般的にアラブの国は男性のアラブの服装(上からすっぽり被り足首まである)がトイレで不便なため小便器に比べ個室が多いが、イランは空港や博物館、レストラン、ホテル、モスクなどの公共の男性トイレは小便器がなく全て個室だった。最初、空港で入った時、女性用トイレに間違って入ったかと、慌てて外に出て確認した。表示はペルシャ語と絵文字だけ。男性が入ったので安心した。どうもイランは服装が原因でないらしい。

イスファハンの金曜モスクの男性用トイレ
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 歴史的にイラン人はコーカサス地方から南を目指しやってきた白人(コーカソイド)である。西に行ったのがゲルマン人、東南に向かったのがインドとパキスタン人だ。イランという国名はペルシャ語で「アーリア人の国」で1935年に国名を「ペルシャ」から「イラン」に変更した。当時のドイツはナチス政権下で「優れたアーリア人」を主張していた。ドイツは多くの専門家を派遣しイランの近代化に貢献している。

  7~8世紀の中国唐時代に国際都市であった長安(西安)には多くのソグド人(イラン人)が住んでいた。有名な「安史の乱」の首謀者で玄宗皇帝に反旗を翻した安禄山はソグド人であった。長安城外の酒場には紅毛碧眼(へきがん)の<胡姫>がいたという。今で言えば東京のバーに金髪の外人ホステスがいるようなものである。

さすがにソグド人の末裔は美人ぞろいだ
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  イランは紀元前の偉大な遺産、ペルシャ帝国という文明があり世界遺産に認定されている。一方アラブはエジプトのピラミッドとスフインクス程度と小ばかにする。イラン・イラク戦争はシーア派とスンニ派の戦いであった。スンニ派の国はイラクのフセインを支持し、その後の湾岸戦争はイラクでなくアメリカを支持した。さらに2002年のアフガニスタン紛争や2003年のイラク戦争ではアメリカを非難しながら何もしなかったのみならずサウジは軍事支援すら行った。そのサウジアラビアは工業化の水準、教育水準、労働力の構成、国民のアイデンティティの強さなどを考慮したらサウジアラビアは到底国家と言えないと思う。イラン人がバカにするはずだ。

  1979年に親米国家であったイランのパーレビ王朝が倒れ、「イスラム共和国」が設立された。この革命の騒擾を見た隣国のイラクは隣国イランに侵攻し、「イラン・イラク戦争」が8年にわたり結局勝敗が付かずに終結した。イランという国家や民族を理解する際に被害者意識と同様に独特のプライドの高さを感じる。近世のサファビー朝以降はロシア、英国に侵略され領土が縮小した。イラン・イラク戦争でもイラクの後ろに付く諸外国を敵に回し、孤独な戦いを強いられた。

  イランはペルシャ語でペルシャ文字の国だ。従い、あまりアラビア数字を見かけない。車のナンバープレートもペルシャ文字だ。バザールの商品価格もペルシュ文字表示。日本人にはチョットつらい。然し旅行中にはなんとなく数字が分かるようになった。

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  イランは世界の標準から離れている。イラン人は西暦でなくイラン暦で生きている。イラン暦とは預言者ムハンマドが聖地メッカからメディナに遷都(ヒジュラ)した西暦622年を起点としたものである。それとイスラム暦も広く使われラマダンなどはこの暦に依っている。国際的には西暦なのかよくわからない。

新聞の赤字の新聞社名の下の細かい字にはイラン暦、イスラム暦、西暦の順で日にちが書いてある。
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  2016年1月に核開発問題協議での合意を受け、欧米諸国による対イラン経済制裁が解除された。海外に凍結されていた資産1500億ドルといわれる資金がイランに戻る。その一部がパレスチナやシリア難民等、周辺国の支援に回ればイランの存在感は増していく。サファビー朝を想起させる「大シーア派圏」が現実味を帯びてくる。そうなればいいのに。

 イラン人にとってイスラエルは不倶戴天の敵である。イスラエル人も同様だ。しかし歴史的にみると、古代アケメネス朝ペルシャのキュロス大王は、紀元前538年のバビロン攻略の際、とらわれていたユダヤ人を解放。彼らのエルサレムへの帰郷を許したことが、『旧約聖書』にも記述されている。しかし今のユダヤ人は感謝しているとは思えない。
イランはイスラエルとスポーツの国際試合で対戦する場合は一般的に辞退する。試合に出ることはイスラエルを国として認めることに他ならない。2004年のアテネオリンピック大会で柔道のアラシュ・ミレスマイリはイスラエル選手との試合を辞退した。帰国後は最高指導者のハメネイ師から「10個の金メダルより尊い決断」として称賛された。

 イランで男女が結婚する場合は男女間で「メフェリエ」と呼ばれる契約を交わす。これは男性が女性に払うことを約束する「結納金」の様なもので離婚の際は完全に履行することを義務付けられている。若しものために高額のメフェリエを要求する傾向が強い。因みに1990年前後に日本に出稼ぎに来ていたイラン人男性と結婚した日本人女性は、このメフェリエの理解しておらず夫が勝手にメフェリエを設定し、「聖典(コーラン)1冊」や「バラの花1輪」等役所に届けるケースが多かったそうだ。

  旅行中に会った人達を見ているとイラン人は素敵な人ばかりと感じる。一般的な日本人のイランに対する印象は、怖い国、危険な国と思いがちだが、決してそうではなく、若い人が多いこれからの国と感じた。




17.05.15.-25ペルシャ旅日記

【初日】・・・成田発と違い羽田発なので、ゆっくり自宅を出発し深夜便で中継地のカタール、ドーハに向かう。

【2日目】・・・羽田からドーハ経由でテヘランに。約12時間の空の旅。ドーハは東京と比べ6時間の時差がある。午前5時50分に到着。8時発のテヘラン行きに搭乗し2時間で目的地テヘランに到着。テヘランは東京と比べ時差4時間半、再度時計を調整。

空港から『絨毯博物館』と『宝石博物館』に向かう途中に、イスラム革命の偉大な指導者でイスラム共和国樹立の立役者、ホメイニ師を称えるエマーム・ホメイニ霊廟を車窓から見る。葬儀の日には全国から大勢の人が詰めかけ1000万人を超えたといわれている。その人波のため聖なる遺体を乗せた霊柩車が立ち往生し、ヘリコプターが出動。また、イランでは19日(金)に大統領選挙が実施されるので道中、選挙ポスターが氾濫していた。

イマーム・ホメイニ霊廟は現在増築中。
ホメイニ廟

街頭は選挙ポスターが氾濫。
選挙

 絨毯博物館はイラン各地の有名な産地から100以上のアンティーク絨毯が展示されている。遊牧民たちが日常使うものを芸術品までに高めた民族の歴史を感じる。1枚"ン千万円"もするそうだ。

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 ホテルへの途上、『アーサーティー・タワー』に立ち寄る。ここはテヘランのランドマークだ。
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 「自撮り像」   イスラム教国は偶像崇拝禁止だが、イランは緩やかだ。
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 宝石博物館はイラン・メッリー銀行の地下金庫にある。革命前に王族が所有していた宝石コレクションがところ狭しと並べられている。入り口から展示場まで3回のセキュリティーチェックがあり、非常に厳重だった。勿論、バッグやカメラは持ち込み禁止で預けさせられる。従い写真は撮れない。国王の即位式に用いた王冠や1736年にインド遠征で戦利品として持ち帰った「孔雀の王冠」には26,000個の宝石がちりばめられていた。また、51,366個の宝石を使った宝石の地球儀、「光の海」という名で知られている世界最大のダイヤモンドなどが展示されていた。まさに栄光のペルシャ。

【3日目】・・・「イランの真珠」と称えられるイスファハンに向かう。途中のシーア派の聖地コムではハズラテ・マース―メ廟、オアシス都市のカシャーンでは世界遺産の『フィン庭園』に立ち寄る。

 コムに向かう途中の高速道路沿いにナマク塩湖を見るが、霞んでいてあまりよくわからない。高速道路も快適だ。
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 イスラム革命理論的指導者のホメイニ師はこのコムの学園で学び教鞭をとったそうだ。イラン・イスラム革命はこの町で起きた暴動をきっかけに始まった。イスラム共和制のもとでゴムは革命を主導してきた宗教保守派の牙城となっており,イラン国内政治における重要性は首都テヘランに並ぶ。

  イスラム革命理論的指導者のホメイニ師はこのコムの学園で学び教鞭をとったそうだ。イラン・イスラム革命はこの町で起きた暴動をきっかけに始まった。イスラム共和制のもとでゴムは革命を主導してきた宗教保守派の牙城となっており,イラン国内政治における重要性は首都テヘランに並ぶ。

ハズラテ・マース―メ廟
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 丁度、ハズラテ・マース―メ廟を訪れたとき、イスラム教による葬儀が行われていた。近親者と思われる人たちが台の上に置いた遺体を囲みお祈りをし、その後は遺体を担いでこの廟のモスクを回っていた。

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  オアシス都市のカシャーンは、オアシスの湧水を「カナート(カレーズ)」というトンネルを使い飲料水や農業用水として供給している。毛細血管のように張り巡らせた水路は総延長35万kmに達するという。この距離は地球から月までの距離だ。中国のウイグル自治区にあるトルファンのカナートはイランから伝わったとされており、トルファン地区だけでも1600本の井戸があり総延長は5千kmに達する。まさに古代のシルクロードの影響。

カシャーン郊外にあるフィン庭園はアッバース1世の命によりつくられたペルシャ式庭園。日本の庭園は縁側に座って眺め、深山幽谷などを思い描くわびさびの世界だが、ペルシャ式庭園は、西はスペイン・アンダルシアから、東はインドまで影響を与えた庭園の様式。アルハンブラ宮殿やタージマハルが代表的なもの。シンメトリーなつくりと回遊することが特徴と思う。

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 イスファハンには夜に到着。食後はズ―ル・ハーネといわれるイラン古来の体操を見学する。専用のレスリングジムのような処で独特の太鼓や鉦と節回しに合わせマッチョな男たちが「腕立て伏せ」や10~40kg程度の「こん棒」を両手に持ち振り回す。できる限り手首を使い体には付けない。これは圧巻。その他、片足で回転を続ける運動など、古来より男たちが体を鍛え、ペルシャの栄光を支えた。それにしても汗臭い風景。

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【4日目】・・・イスファハンのザーヤンデ川にはサファビー朝時代に造られた長さ300m幅14mの『33アーチ橋』がある。市民の憩いの場なのか、デートスポットなのか大勢の人が詰めかけている。水面に映るアーチが美しい。

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夜には同じザーヤンデ川にかかるハージュ橋に出かけるライトアップされていて美しい。
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  イスラファンにはモスクだけでなくアルメニア教会がある。これまでと少し雰囲気の違う場所に来たようだ。今まではペルシア語のアラビア文字ばかりが目についたが、キリル文字が書かれているのを見て、ここはホントにイラン?と思う。ここは、イスファハンの街を西から東に流れるザーヤンデ川の南側、アルメニア人が多く住むジョルファー地区。

よく見るとドームの上は十字架がある
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教会付属の博物館
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教会の内部はフレスコ画でキリストの物語がかかれている、イスラム世界とは違う
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中東で最初の印刷機
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その印刷機で印刷した聖書など
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  イスファハンの金曜モスクはバザールの隣にある。イラン・イラク戦争当時はバザールにロケット砲が撃ち込まれたそうで、今でもその傷跡が残っていた。金曜モスクも同様の被害にあっていた。 
 
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  イマーム広場の南側に佇むイマーム・モスク。これは、イランのイスラム建築の最高峰とも言える、サファヴィー朝時代を代表する建造物。当時の為政者アッバース1世の命により、1612年に着工し、26年をかけて建築。4本のミナレットが立つこのモスクは、遠くからでも非常に目立つ。まずはそのアーチ型の入り口の天井に施されている、スカイブルーを基調とした細かいタイル装飾が幾何学的に幾重にも連なっている部分が目を引く。まるで、蜂の巣の内部のように、幾何学的なくぼみが規則正しく連なっている中にタイル装飾が施されており、とにかく見事の一言。

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  イマーム広場は中国の天安門広場に次いで大きな広場といわれている。ドーム天井の美しいマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーはアッバースⅠ世の命により造られた王族専用のモスクだ。それにしてもアッバースⅠ世は建築好きの王様だ。ドームの内部もモザイクタイルの装飾で精緻である。

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40柱宮殿は現在改修中であった。実際の柱の数は20本だが、水面に映る柱も20本、合わせて40本となり、40柱宮殿となった。
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アーリーガーフ宮殿は広場を隔ててマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーの対面に位置する。この宮殿の2階に登るとイマーム広場全体が見渡せる。広場の池では子供たちが水遊びに興じていた。夜は広場全体と噴水がライトアップされる。
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【5日目】・・・ゾロアスター教の聖地やヤズドに向かう。この町を訪れた最初の西洋の旅行者、マルコポーロは「学識が高く優秀な人々が住む美しい町」と称えた。旧市街は迷路のように小路が入り組んでいる。建物の地下にカナートを利用した水を蓄えて風の塔から部屋に空気を送り込み気化熱を利用する天然のクーラーが面白い。ホテルもこの装置があった。水を貯える建物の地下は涼しく足を冷やす人もいる。

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ヤズドはゾロアスター教の聖地であり、ほんの70年ほど前まで鳥葬(風葬)が行われていた。イラン政府は衛生面から鳥葬を禁止しゾロアスター教徒にもイスラム教徒と同じように土葬を指導。今でも町はずれに、以前利用していた鳥葬場がある。この鳥葬場は『沈黙の塔』といわれる。鳥葬は男女別々の場所で行われていた。鳥葬はチベットとインド、パキスタンの一部で今でも行われている。

沈黙の塔   右側が女性用、左側が男性用
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男性用鳥葬場
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女性用鳥葬場
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風の塔の下でカナートの水で遺体を洗う
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遺体を洗うための地下入口
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沈黙の塔の鳥葬場にある遺体の衣服などを置く穴
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鳥葬場の出入り口 遺体は直接見えない仕組み
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遺族が鳥葬の終わるのを待つ場所 
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  ヤズドの金曜モスクはヤズドのシンボル的寺院。イスラム教徒がお祈りの際に地面に額をつけるが、直接地面に額をつけないように「モッフル」という陶器でできたものを使う場合もある。

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入り口の上の装飾
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敬虔な女性信者が黙々と祈っていた
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ドーム内部の装飾
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額を地面につける際に間に挟むモッフル
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【6日目】・・・ヤズドからシラーズに向かう途中にゾロアスター教の拝火神殿を見学。ここの火は1500年以上燃え続けている聖なる火を見る。

ゾロアスター教神殿
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神殿内で燃え続ける聖なる火
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  シラーズのパサルガダエは紀元前546年にキュロス大王(2世)のもとで建設が開始されたアケメネス朝の最初の首都である。パサルガダエとは「ペルシャの本営」という意味。

奥にあるキュロス二世のお墓に行くまでの道
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キュロス二世の墓
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  シラーズの大学の植物園が『エラム庭園』として世界遺産に登録されている。図書館も美しい建物で噴水のある池もあり、典型的なペルシャ式庭園だ。訪れた時は丁度バラのシーズンであった。  

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  6日目(5月20日)の前日19日に大統領選挙が行われた。イランの大統領選挙には4人が立候補、再選を目指す保守穏健派のロウハニ大統領と、反米の保守強硬派のライシ前検事総長による、事実上2人の争いとなっていた。結果はロウハニ大統領が57%の票を獲得したのに対し、ライシ師は38.5%にとどまり、ロウハニ大統領が再選を果たした。旅行業に携わり外国人相手のガイドは大喜びであった。 

 【7日目】・・・シラーズは、ザグロス山脈の中腹にある標高約1500mの位置にある。このシラーズは、その昔、このエリアの首都だったこともあり、歴史的な意義を持つ建造物が多い。この中に、極彩色に彩られる美しいモスクがある。マスジェデ・ナスィーロル・モスクだ。1876年から1888年にかけて建造されたモスクは、ステンドグラスを多用し、ピンクのタイルを使って伝統的な様式でデザインされている。マスジェデ・ナスィーロル・モスクという正式な名前よりも、通称の「ピンクモスク」、または「ローズモスク」と呼ばれており、その方がピッタリの感じだ。

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  シラーズからペルセポリスに移動する。ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国時代の紀元前518年、ダレイオス1世によって建設された約450mx300mの長方形の基盤の上に築かれた神殿跡。ペルセポリスはギリシア語で、「ペルシアの都市」という意味で、西アジアの3P遺跡の一つとして知られている。(ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡)  ペルセポリスを陥落させたアレクサンダー大王は、その財宝を運び出さすために、1万頭のロバと5千頭のラクダを使ったと言われている。宮殿、王座殿、謁見殿、宝物庫、ハレムなどが配置されていて、門を入ると、幸福を意味する伝説の鳥ホマや、牝牛の像などが並んでいる。翼を持った牡牛の身体に人間の頭がついた有翼人頭像は、偶像崇拝を禁止するイスラム教徒によって頭が落とされている。謁見の間は一段高い基壇にあり、レリーフが彫られた壁に囲まれている。レリーフには諸外国からの貢物が克明に彫られ、当時の王の権力が広範囲に及んでいたことを示している。王座殿には100本の柱が立っていたと言われているが、今は残っていない。周囲に居住跡がないことから、ペルセポリスはアケメネス朝の首都ではなく、諸王を迎える場として使われていたのではないかと、考えられている。それにしても圧巻で見終えた後は満腹の感じ。

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ペルセポリス宮殿の入り口にあるクセルクセス門
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ナグシェ・ロスタムにはアケメネス朝の王墓が並んでいる。クセルクセス1世、ダレイオス1世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス2世の墓がある。ダレイオス1世以外は諸説がある。

日影がないのでラクダもグッタリ
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捕虜となったローマ皇帝の手首をつかむシャープル1世のレリーフ
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ダレイオス2世の墓の向いはゾロアスター教の神殿
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  ハムゼ廟はタマネギ型のドームと鏡張りのキラキラな内装が特徴。モスクの中に入るには女性はスカーフはもちろんだが、チャドルの着用が必要。しかし、厳格な割にはモスク内で寝そべって昼寝をしている人もいた。祈りの場であると同時にコミュニティの場でもあるようだ。墓石の上を土足で踏みながら歩くのは少々、抵抗感があるが、ここはいたって平気だ。墓参りに訪れた証か。

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モスクの外はバザールにつながっているというか、バザールの人達がモスクを寄進した。
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【8日目】・・・シラーズから陸路600km北上し、ペルシャ湾岸の町アフワーズへ。途中、イランの背骨に当たるザグロス山脈を横断する。アレキサンダー大王の遠征はこのザグロス山脈を越えてきたそうで、この峻厳な谷を通過したという。

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  シラーズから120km程度のビーシャープールに入る少し手前で岩場に彫られたレリーフを2つ見た。どちらも、3世紀、ササン朝ペルシアがローマ帝国との戦いで勝利したことを記念するものだ。こちらも、シャープール1世の対ローマ戦勝記念レリーフである。ナグシェ・ロスタムのレリーフが有名だが、敵方の皇帝をも捕虜とした歴史的勝利は、レリーフに繰り返し彫られる題材となっている。

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  遺跡のそばの川では夏休中の少年が水泳を楽しんでいた。そしてアフワーズの町に近かづくとペルシャ湾岸の油田地帯となり、畑の中で石油の副産物の有毒ガスを燃やしている。ここはペルシャ人だけでなく油田で働くアラブ人や中国人も多く目につく。

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【9日目】・・・アフアーズのホテルの新聞でトランプ大統領の中東訪問のニュースを見る。ガイドに新聞の大まかな内容を聞くと、サウジの国王がイランの選挙でローハニ大統領が再選されたことを「茶番劇」と非難しているそうだ。イランは男女とも選挙権と被選挙権があり、民主的に選挙で選ばれたわけだから、他国からとやかく言われる筋合いはないと思う。一方、サウジは憲法もないし、建国以来今まで選挙を実施したこともない。何をかいわんやである。イランはシーア派の国であり、中東のシリア、レバノン、イエメン以外はスンニ派の国で、周りを反イラン国に包囲されている。いつも臨戦態勢なので気が抜けない。

トランプ大統領の中東訪問を伝える新聞
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ホテルや公共の場では至る所にホメイニ師とハメネイ師の写真が飾ってある。御真影か?
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  古代メソポタミアを代表するチョガサンビルに出かける。この遺跡は1935年に油田調査中に偶然発見されたそうだ。105m四方のジッグラト(階段状ピラミッド)は3段目まではっきりと残っている。紀元前13世紀の中頃、エラム国の行政の中心地としてにぎわったようだ。紀元前640年頃にアッシリアによって破壊された。もともとこの建造物の頂上部分には、エラム人の最高神を祀る寺院であったそうだ。高さは当時としては驚異的な50mにも及んだ。

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観光客用か遺跡で働いている人用か不明だが簡易モスクがある。中は意外と涼しい。
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  アフワーズ近くの遺跡は基本的に日影がなく非常に暑い。やはりペルシャ湾岸に来たと実感。外気温は優に40℃を越えていただろう。ただ、湿気がないので助かる。この辺りはサトウキビの産地で、以前は製糖産業も盛んであったそうだ。

  チョガサンビルの近くに紀元前2000年頃のエラム王国時代の遺跡ハフト・タッベがある。王族の宮殿や墓、寺院などが残っている。遺跡の入り口には小さな博物館があり、発掘品やジッグラトの模型などが展示されていた。今から3000年以上とは驚く。

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  ハフト・タッベの近くにはシューシュという遺跡がある。ここはペルセポリスに匹敵する都だったそうで、1852年にイギリスの考古学者により発掘が始められ、その後フランスの考古学調査隊に引き継がれた。ただ、保存状態は良くない。また、めぼしい遺品は英仏両国の博物館所蔵。城のような建物はフランスの考古学調査隊によって築かれたもので遺跡とは関係がない。この城の手前には小さな博物館があった。この建物がある高台は、アクロポリスとして、アケメネス朝の城塞があった場所。ここからシューシュの町が一望できる。

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  遺跡から5分ほど歩くと、町のもう一つの顔、聖ダニエル廟がある。旧約聖書に登場する預言者ダニエルの墓とされている。イスラム教徒からも敬愛されているという。

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モスクの中は涼しいので休息をとる人も多い
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この中に棺が納められているという。この隙間から喜捨(お賽銭)を入れるようだ。
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  アフワーズの見学終了後、テヘランに向かうため。飛行場に向かう。アフワーズ発21:40
のフライトが、約2時間遅れとなり、テヘランのホテルについたのは午前1時であった。航空機の遅延はイランでは当たり前で定刻通りに出発するのは珍しいそうだ。

【10日目】・・・テヘランでサラリーマンの出勤風景を見たく、ホテル近くの地下鉄駅(イマーム・ホメイニ駅)に出かける。地下鉄は全線同一料金で片道券は5000リアル、往復券は8000リアルで15~20円程度。ガソリン代はさすがに産油国1リッター30円程度だ。この価格でもかなり値上がりした価格とのこと。
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  ガラス博物館に出かける。いわくありげの建物は元貴族の建物でエジプト大使館でもあった。展示品は古代から近現代までのガラスと陶器が中心だ。中には正倉院の御物に似たものもある。右下のガラスのパイプは紀元前2000年頃のものだ。4000年も昔にガラスが、と思う。
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4000年前のガラスのパイプ。驚きである。
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涙ツボ。出征する兵士の妻が流した涙をためる。
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東洋的なデザインはシルクロードの影響
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  ガラス博物館を出てゴレスターン宮殿に出かける。以前はガージャ―ル朝の王宮として使われていた豪華絢爛なものだ。内部の写真撮影はNG。庭園はペルシャ式庭園で美しい。建物では民族衣装を着た女性の写真撮影をしていた。

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  最後はイラン考古学博物館締め括り。紀元前6000年から19世紀に至るまでの考古学的、歴史的に重要な美術品を集めたイラン最大の博物館だ。本館はイスラム化以前、別館はイスラム化以降のものを展示している。残念ながら本物や価値のある物は大英博物館やル―ブルにあるようだ。

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メソポタミア時代の楔型文字
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  テヘラン空港へ向かい、空港で夕食を取る、テヘラン発ドーハ行きは23:35の予定だったが、案の定1時間の遅れ。

【11日目】・・・ドーハ着が1時間遅れたが、乗り換え時間を2時間とっていたため、何とか間に合った。帰路は偏西風の関係で往路より1時間少ない10時間だ。成田に定刻(18:40)通りに到着。日本に着いて感じたのは、適度に湿度があり、快適だと思った。それにゴミも落ちておらず清潔。やはり日本はいい。

17.05.11鎌倉文学館バラまつり

 昨日から鎌倉文学館でバラまつりが開催されている。とりあえず出かけてみる。いつもの事だが、せっかちな性格のためか、フライング気味だった。バラは全体として2~3分咲という感じ。とりあえず開花しているバラの写真を撮る。

カトリーヌ・ドヌーブ(フランス)
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ロイヤル・ハイネス(フランス)
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うらら(日本京成)
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パラダイス(鎌倉シルバーセンター)
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カルメン(ベルギー)
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桃扇(日本京成)
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荒城の月(日本伊丹)
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アンクル・ウオルタ―(イギリス)
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カーディナル(ドイツ)
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 鎌倉文学館では4月22日~7月9日まで『漱石からの手紙 漱石への手紙』という内容で展示されていた。その中で、漱石から娘達にあてた絵葉書が展示されていたが、非常に丁寧な言葉遣いに驚いた。例えば、次女の『つね子御前のところゑはがきが来たから届けて上げる御友達へ御返事を御あげなさい 父より』と。三女の栄子さんには『えい子さん御きげんはいかゞですか私はかわりもありません』と鶏の絵ハガキを、四女の愛子さんには『あい子さんおにのゑはがきをかって上げようとおもったらあいにくありませんからがまの御夫婦を御目にかけます』と書き送っていた。父から娘へのおもいがのせられた絵葉書で日頃、家の中で丁寧な言葉の会話が交わされていたのだろうと思った。

 漱石に関する資料は豊富で見ごたえがある。5mもあると思える巻紙に書き損じが一つもなく書かれた手紙は達筆過ぎて判読不能であった。昔の人は達筆でよく葉書きや手紙をマメに書いたと感心させられる。下手くそな文字で誤字脱字が多い自分は、今はメールやラインがあるので非常に助かる。

文学館までの道はなかなか趣がある
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文学館の敷地内もこのようなトンネルがある
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文学館の建屋全貌
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『漱石からの手紙 漱石への手紙』展のポスター
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 今日は柄にもなく、久しぶりにアカデミックで有意義な一日であった。

17.05.03鎌倉のツツジ鑑賞

 9日前の4月24日にツツジを求め鎌倉を散歩したが、残念ながらチラホラ咲きであった。今日はリベンジで再度挑戦。まず、高徳院(大仏)に出かけるが大仏とツツジを同時に写真に収めるのは難しい。高徳院の境内の裏に『観月堂』という小ぶりな建物があるが、もとは朝鮮のソウルの王宮にあったものを1924年に移築したそうだ。それなりの手続きをしたと思うが、韓国の反日勢力から略奪をされたと言いがかりをつけられそうだ。

 ツツジ越しの大仏の撮影は難しい。
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 高徳院の山門。
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 観月堂の建物でこの中に観音菩薩像がある。 
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 『観月堂』の由来書。
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 リベンジの安養院のツツジは、まだ咲き始めの様な感じだ。
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 安養院の境内には北条政子の墓がある。然し、鎌倉には政子の墓は至る所にある。遺族は墓参りが大変だ。
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 政子の墓の隣は鎌倉時代の宝篋印塔がある。
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 安養院から5分程度のところに日蓮上人が伊豆に流されて後に許されて草庵を結んだ地とされる『安国論寺』がある。なかなかとっつきにくそうな感じのお寺である。しかし門前はツツジが美しく咲いていた。
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 安国論寺から鎌倉市の端に位置する『光明寺』まで足を延ばす。ここは浄土宗の本山で、1243年創建といわれる、古刹である。三門は高さ20mの壮大なものだ。また、大殿(本堂で国の重要文化財)も自由に登れ、庶民的な感じがする。 

 総門から三門を見る。
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 壮大な三門。
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 大殿(本堂で国の重要文化財)
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 大殿に登り廊下伝いに行くと小堀遠州の流れをくむといわれる『記主庭園』があり、7月には蓮の花が咲き有名だ。
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 光明寺の裏山に登ると木の葉の間から材木座海岸が見渡せる。今日は花曇りだが、富士山もうっすら眺めることができた。
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 境内の石碑を見ると『大連高等商業学校』という石碑があった。「星浦会慰霊の碑」とあり、大連を懐かしく感じた。旧制旅順高等学校は寮歌の『北帰行』が有名だが、大連高等商業学校の名を見たのは初めてだった。
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 また、建立間もない感じの『高倉健』の碑もあり少々驚く。以前はこの碑はなかったと思うが。
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 帰路、いつもの竹林のそばを通ると、この間までは筍であったものが、竹になっていた。また、住宅の垣根越しに見る白い藤の花やモミジの新緑に映え真っ赤な新芽が美しい。これからもうすぐ初夏になる。
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17.05.01藤沢の藤

 そろそろ藤の花は見頃かと思い藤沢に出かける。藤沢の『市花』は名前の通り『藤』である。

 藤沢市内は『フジロード』というべき散策用の道がある。
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 先ず、白旗神社からスタートする。ここは名前の通り源氏を祀る神社だ。境内の藤棚には弁慶藤という藤が満開だった。
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 端午の節句のためか鯉のぼりの準備に忙しい。
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 白旗神社から15分程度歩き遊行寺に行く。ここは、時宗の大きなお寺だ。藤というより、大銀杏が有名。
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 境内の藤棚
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 この大銀杏が有名。樹齢は700年、幹回りは7m10cm。
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 遊行寺からJR東海道線を越えて奥田公園に出かける。一応、藤が見ごろということだが、藤は見つからなかった。公園ではメーデーの集会が実施されていたが、盛り上がりに欠けた集会だった。
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 奥田公園から歩いて5分程度の新林公園に行く。ここの藤は見ごたえがあった。
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 新林公園には江戸時代後期の旧福原家の長屋門が移築されており藤沢市の指定文化財となっている。多分月曜日なので開場しておらず見学ができなかった。
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 桜と異なり、藤の花は基本的には藤棚があり、その下で愛でるようになっているが、藤棚の下は解放されていない所がほとんどだった。少し残念な気がする。















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