16.04.30大町、材木座界隈

 天気がいいので大町と材木座界隈に出かけてみる。その前に六地蔵に立ち寄る。六地蔵とは、亡者を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から救うために祀られる。この辺りは、昔の刑場の跡地。問注所での裁判の結果、有罪となった者が裁許橋を渡ってここに引き連れられ処刑された。明治初めころまでは、「飢渇畠」(けかちばたけ)と呼ばれる荒地だったが、罪人供養のための六体の地蔵が建てられたのだという。しかし今はその名面影はなし。

六地蔵はやはり庶民の信仰を集めているようだ。そしてこの辺りの地名も六地蔵
六地蔵

 大町の安養院は北条政子が頼朝を弔うために建てた寺。政子の法名が安養院。ここは坂東三十三か所の第三札所である。因みに鎌倉には大一番札所の杉本寺、第四番札所の長谷寺がある。境内に入った左側には天然記念物の樹齢七百年の槇の巨木がある。ここは鎌倉でも有数のツツジの名所だ。寺の生け垣は勿論のこと境内のあちこちにもツツジがあり今が盛りに咲き乱れていた。本堂の裏には開山良弁尊観の宝篋印塔と政子の墓(供養塔?)がある。 観光客も少ないのでおおすめと思う。

安養院山門までの参道
安養院1

山門をくぐると左手に天然記念物の樹齢700年の槇の木がある
安養院2槙

本堂裏にある宝篋印塔と供養塔
宝篋印塔

北条政子の墓(供養塔?)
宝篋印塔2

良弁尊観の宝篋印塔
宝篋印塔

 安養院の近くで釈迦堂切通に至る途中に大宝寺がある。ここは御家人、佐竹氏の屋敷があった場所で、1399年に佐竹義盛が建てた多福寺が前身。多福寺は一旦廃寺になるが、1444年に日出が再興し、大宝寺と改名した。この寺の裏には源義光(新羅三郎義光)の墓がある。また、本堂横の崖には今が盛りと、野生の藤が咲いていた。元々野生の藤は高さ2、30m程度に育つのは普通だ。物語の「ジャックと豆の木」の木は藤の蔦だと思うが・・・・

住宅地の中にある大宝寺の入り口
大宝寺玄関

本堂横の崖に生える藤の木
大宝寺本堂横の野生藤

 大宝寺から材木座海岸近くの光明寺に向かう途中に来迎寺がある。この寺は健久5年(1194)源頼朝が鎌倉幕府の重臣、三浦大介義明の霊を弔うため建立。

来迎寺正面
来迎慈

 来迎時のほぼ隣といったところに五所神社がある。この神社の境内には、国の重要美術品の「不動種子板碑」というものがある。弘長2年(1262)の銘がある貴重なものだそうだ。このように完全に保存されているのは極めて稀であるそうだ。種子とは仏や菩薩をあらわす梵字のことらしい。

不動種子板の説明書
五所神社1

重要美術品の割には保管状況がイマイチ
五所神社2


 光明寺は鎌倉の南東のはずれにある。少し行けば逗子や葉山になる。この寺の周りは総じて小刹ばかりだ。光明寺は寛元元年(1243)の創建の浄土宗の寺である。御土御門天皇より「関東総本山」の称号を得ている。信仰と研鑚の根本道場でもある。総本山のため、さすがに間口16m、奥行7m、高さ20mの山門は立派だ。大殿の裏にある天照山の展望台から光明寺大殿の屋根越しで材木座海岸、稲村ケ崎方面を眺める。天候が良ければ富士を見ることができるが、残念ながら今日は見ることができなかった。ここは「かながわ景勝50選」にも選ばれている。

光明寺の立派な山門
光明寺山門

山門に住みついている猫
山門に住みついている?猫

光明寺書院
光明寺書院

光明寺庭園 この池には1mほどの鯉がいた
光明寺庭園

本殿裏の天照山からの眺め
天照山からの眺め








16.04.26鎌倉養生所今昔

 明治9年(1876)に東京医学校(現東京大学医学部)の教師となったドイツ人医師のベルツ博士が「鎌倉は保養地として最適」と紹介し、予防医学の観点から保養の思想を日本に導入した。また、内務省衛生局の初代局長の長与専斎が由比ヶ浜を「海水浴場として理想的な浜」として紹介。自らもサナトリウム「海浜院」を開設した。当時、結核は死に至る病で、現在のストレプトマイシンの様な特効薬がなく、治療は専ら栄養を付けることと温暖な気候と潮風にあたることが良いとされた。
 明治時代に鎌倉に開設された結核養生所の中には現在も病院として存続しているものも多い。明治30年(1897)に開設された鎌倉養生院は現・清川病院、同32年(1899)の恵風園養生所は現・恵風園胃腸病院、同44年(1911)鈴木療養所は現・鈴木病院、大正9年(1920)の額田保養院は現・額田記念病院である。因みに昭和5年(1930)、小動岬(こゆるぎみさき)で太宰治が銀座のカフェ・ホリウッドの女給・田部つみと心中事件を起こし、付近の漁師に発見され収容されたのが恵風園療養所であった。

鎌倉養生院の現・清川病院は清川来吉(後の初代鎌倉市長)が鎌倉郡東鎌倉村雪ノ下に設立した。
清川病院1

清川病院2

恵風園養生所の現・恵風園胃腸病院は小動岬近くの江ノ電の踏切を渡ったところにある。病室からはサーファーの活躍が眺められるだろう。
恵風園1

恵風園2

鈴木療養所、現・鈴木病院は鎌倉高校の近くの高台にあり、ここも潮風が吹く場所だ。すぐ隣には聖テレジア病院という聖マリアンナ医大の関係病院がある。
鈴木病院1

鈴木病院2

額田保養院は現・額田記念病院は大町の閑静な場所にある。隣は安国論寺で裏は妙法寺である。病院とお寺の関係は密接?なのか。またこの病院は高齢者の施設も充実しているようだ。
額田病院1

病院と道を隔てて右側が安国論寺
額田病院2
                 

 

16.04.25妙法寺(苔寺)

 京都の西芳寺は苔寺の別名でも有名である。聞くところによると一般拝観はなく、事前に往復はがきによる申し込みのみ受け付けているそうだ。また、拝観の条件として写経など宗教行事の参加が条件とされている。拝観料も3000円と京都のお寺としても割高。
 鎌倉の妙法寺も別名、苔寺といわれている。京都の苔寺と異なり、いたって素朴な感じがする。拝観料も300円。お線香つきで受付の人が火まで付けてくれる。しかし苔の庭園のイメージではなく、釈迦堂跡、御小庵跡、日叡上人御墓、日蓮大聖人塔、大塔宮御墓などに至る苔石段が名の由来。それらの参道の周りはシダやドクダミが生えている。夏場はやぶ蚊などでチョット鬱陶しいかもしれない。

 寺の縁起によれば建長五年(1253)日蓮が千葉県安房より鎌倉に来て、初めて開かれた道場で、身延山に入山するまで二十数年にわたって住み続けたという。後醍醐天皇の子・護良親王の遺児・日叡に寄って創建された寺が妙法寺で奥ノ院の小高くなった地が草庵の後だそうだ。

松葉谷妙法寺の総門
総門

妙法寺の苔石段
苔石段

松葉谷妙法寺小庵跡
小庵跡

護良親王の墓
護良親王の墓

護良親王の墓近くから由比ガ浜が望める
護良親王の墓近くからの風景

16.04.22義経伝説を辿る

 NPO法人鎌倉ガイド協会のIさんと「悲運の英雄義経伝説を辿る」というテーマで半日のコースを同行する。

 平家を滅ぼした後、鎌倉入りを拒まれた義経は、兄頼朝に切々たる思いを訴えた。その腰越状が残る満福寺。腰越の浜で首見分された後,義経の首が境川を遡り、漂着した首を洗い清めた「首洗井戸」。義経を祀り、義経・弁慶二基の神輿を奉じる白旗神社。「白旗大明神 神儀」と記された義経の位牌がある荘厳寺(しょうごんじ)。弁慶塚の残る常光寺。

【満福寺】・・・頼朝に許しを請う手紙(腰越状)を義経と弁慶が書いたのもこの寺で、奥州で非業の最後を遂げた義経の首見分をしたのも一説ではこの寺といわれている。

腰越の満福寺本堂
満福寺本堂

満福寺に伝わる義経の鎧
義経の鎧

「腰越状」の版木
腰越状

義経の首見分をした腰越の浜
腰越の浜

【義経首洗の井戸】・・・腰越の浜に捨てられた義経の首は境川を遡り漂着した。里人が憐れんでこの井戸で洗い手厚く葬ったといわれている。胴体は東北の栗駒山の山麓「判官森」に葬られたと伝えられる。

義経の首塚
義経の首塚

義経の首洗井戸  井戸の中を覗いてみると枯れ井戸であった
義経の首洗井戸

【白旗神社】・・・「祭神」は寒川比古命・源義経公。古くは相模一の宮の分霊「寒川比古命」を祀っていたが、義経の首が腰越の浜に捨てられて以来、頼朝は義経の怨霊に苦しめられたので義経の霊を祀らせたのが、白旗神社の起こりと伝えられている。天保6年(1835)に造営された社殿は、本殿・幣殿・拝殿を連ねた流権現造りで、外壁は江戸時時代の匠の技を駆使した立派な彫刻がある。

白幡神社本殿
白旗神社

義経の首が亀に乗せられて漂着した言い伝えから本殿には亀の彫刻がある
亀の飾り

宝蔵庫には義経の守り本尊「毘沙門天」と 「義経・弁慶」の二基の神輿がある
義経・弁慶の神輿

弁慶藤と義経藤があるが、弁慶藤(紫)の見ごろは、もうすぐ、義経藤(白)はまだだいぶ先。芭蕉の句碑もあった。
弁慶藤

【荘厳寺】・・・「山号寺号」白王山般若院荘厳寺、「宗派」古儀真言宗、「本尊」不道明王。鎌倉時代に一度荒廃したが、嘉禎元年(1235)覚盛により中興再建された。延享4年(1747)白旗神社の隣に移転した。この時に白旗神社の別当寺となったが、明治政府の神仏分離令により、現在地に再び移転した。本殿には寺宝である義経公の位牌がある。表には「白旗大明神 神儀」、裏には「清和天皇十代御末源義経公」と記されている。

「白旗大明神 神儀」の位牌
「白旗大明神 神儀」の位牌

【常光寺】・・・鎌倉光明寺の末寺。本尊の阿弥陀如来(伝快慶作)は鎌倉扇ガ谷の阿弥陀堂から移されたもので、頼朝や後北条も深く信仰したという。本堂裏の庚申塔群に「弁慶塚」と刻まれた石碑があり、上方に阿弥陀三尊の梵字を配してある。また、このお寺は明治5年から警察署が設置されていて昭和39年に鵠沼の新庁舎に移転するまで約100年間機能していたと記念碑があった。

住宅地の中にある「常光寺山門」
常光寺山門

常光寺には100年間ほど藤沢警察署が置かれていた記念碑
警察記念碑

常光寺の裏にある弁慶塚に行く山道
弁慶塚に至る道

弁慶塚は風化していて字があまり読めない
弁慶塚


16.04.16義経まつり

 第57回の「義経まつり」が開催されるというので江の島近くの龍口寺と腰越の満福寺に出かける。まつりと言っても龍口寺前から腰越天王屋敷までのパレード(500m程度?)がメイン。勿論、お寺では義経公慰霊法要を行う。パレードの構成は鎌倉高校吹奏楽部、ミス鎌倉(オープンカー)、甲冑隊、七里ガ浜高校吹奏楽部、実行委員会、腰越中学校吹奏楽部、腰越小学校よさこいキッズのメンバーだ。
 龍口寺と満福寺も、ともに門前は江ノ電が走る。そしてパレードの道中は江ノ電の軌道上であり、電車が通る都度、パレードは中断となる。しかし大勢のカメラマンは江ノ電とパレードを同時に撮れるアングルを選ぶので大変だ。

龍口寺門前は江ノ電が走る
龍口寺門前
満福寺の参道入り口は江ノ電が通り遮断機がある
満福寺門前
パレードの花「ミス鎌倉」を乗せたオープンカー
ミス鎌倉
甲冑隊はほとんどか老人で、若武者からはほど遠い
甲冑隊
なぜか弁慶は外国人。ふさわしい体格の人がいなかったからかも
弁慶
鎌倉高校の吹奏楽部
鎌高ブラスバンド
七里ガ浜高校吹奏楽部
七里ブラスバンド
腰越中学校吹奏楽部
腰越中ブラスバンド
腰越小学校のよさこいキッズ
腰越小よさこいキッズ

16.04.05高徳院、源氏山 桜の見納め

 昨夜来の雨で桜はどうなったかと思い出かけてみる。すでに散ってしまったものや、今が盛りのものまでいろいろであった。

 先ず、高徳院は桜が少ない寺だが、取りあえず寄ってみる。曇天なので桜が空に映えない。致し方なし。大仏の裏にあるお堂には桜が満開であった。

高徳院大仏
大仏

 大仏から錢洗弁天に出かける。大仏横のハイキングコースから錢洗弁天や佐助稲荷まで行くハイキングコースがあるが、住宅街を通る平坦な道を行く。銭洗弁天の正式名称は宇賀福神社であるが、銭洗弁天の通称の方が有名である。
 銭洗弁天には道から鳥居前のトンネルを通り境内に入る。奥の宮は洞窟の中にあり、笊や水を汲む柄杓が置いてある。笊にお金を入れて洗うと霊験あらたかで何倍にも増えるという。そのため信心深い(欲深い?)善男善女はせっせとお金を洗らう。鎌倉は山に囲まれているのと地質のためか洞窟内にこのような湧水がある場所が多い。

銭洗弁天に行く途中の道標
銭洗弁天道標
銭洗弁天に行くにはこのトンネルを通る
銭洗弁天入口
銭洗弁天の奥宮
銭洗弁天洞窟
奥宮の中の銭洗場
銭洗弁天奥宮

 銭洗弁天から山側に少し登ったところが源氏山である。ここは桜の名所である。しかし、ソメイヨシノは終わったようで、八重桜が満開であった。近くには頼朝像もある。

源氏山の八重桜
八重桜
頼朝像
頼朝像

 すぐ近くには国指定史跡の日野俊基の墓がある。彼は鎌倉時代末期に後醍醐天皇に仕え討幕計画に参加した。正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の乱(1331)で再び捕らえられ、この葛原岡で処刑されたそうだ。

日野俊基の石碑
日野俊基石碑
日野俊基の墓
日野俊基の墓

 葛原岡には鎌倉の縁結びの神社、葛原岡神社がある。この神社は梶原影時の祖先である景成が桓武天皇の祖、葛原親王を祀つる社を建てたのが地名の始まりとあった。境内の桜は満開であった。天気が良ければ、この近くからは富士山が眺められるそうだ。

葛原岡神社の鳥居前の桜は満開
 葛原岡神社の桜

 帰路は化粧坂を通り北鎌倉に出ようとしたが、足元が良くないため途中で引き返し元来た道から帰った。

雨上がりのため木の根っこは滑りやすい
化粧坂1








16.04.01北鎌倉界隈

 桜がそろそろ見頃ということで、北鎌倉を中心に出かける。特に今回は期間限定、曜日限定の長寿寺を目玉とした。

【長寿寺】・・・建長寺の末寺だが、もとは足利尊氏の菩提を弔うため、初代関東管領であった子足利基氏により建立された寺。今でこそ小さな寺だが、当時は七堂伽藍をそろえた関東諸山第一の大寺だったそうだ。しかし、天皇に弓を引いたとされる尊氏の寺ということで、この寺もつらい思いをした時代があったらしい。今回、初めて訪れてみると大きな桜は裏庭にあるが、秋のモミジのころが最高だと感じた。住職と話をしたらゴールデンウイーク前のころにボタンが満開となるそうで、この頃もベストとのこと。お寺に上がり縁側から庭を見るのもなかなか風情がある。ガイドブックには載っておらずマイナーな寺だがイチオシ。

本堂から見た山門
本堂から見た山門
小方丈から見た庭園
小方丈から見た庭
観音堂
観音堂
庫裏の裏庭のやぐらにある尊氏の墓と称する宝篋印塔
尊氏の宝篋印塔

【光照寺】・・・北鎌倉の北西に、時宗の寺で「西台山英月院光照寺」という寺がある。この小さな寺の山門が俗に「クルス門」といわれ、梁の辺りに30㎝足らずだが十字架をあしらった紋が付いている。この山門は、箱根湯本の早雲寺の末寺、東渓院のものを移築したそうだ。東渓院は臨済宗の寺で、九州大分の竹田藩の藩主中川氏の息女の菩提所として建立されたそうだ。九州にはキリシタン大名が多かったが、中川氏そうだったか不明。

光照寺の山門
光照寺の山門
山門の梁にかかる「クルス紋」
山門の梁にかかる「クルス紋」

【円覚寺】・・・鎌倉五山の第二位。円覚寺のためにあるような北鎌倉駅が門前。そもそも、円覚寺が土地を提供し横須賀線が開通した。線路わきの総門は紅葉の頃が美しく、写真スポットとなる。しかし、桜の頃はもう一段奥の山門まで行かねばならない。桜は6分咲程度でまだ散り始めていはいない。今が見ごろ。

山門にかかる桜は今が見ごろ
山門にかかる桜
桂昌庵にかかる桜
桂昌庵にかかる桜

【東慶寺】・・・元は尼寺で「駆け込み寺」でもあった。松が丘御所の別名通り、皇室ともゆかりがあり格式の高いお寺。東慶寺の飛脚が大名行列に出会っても「松が丘御所御用」の札を立てれば土下座する必要など全くなかったといわれている。上州にも満徳寺という縁切り寺もあったが、東慶寺は困っている女性を救うのが建前で、結果として「駆け込み寺」となった。二十代目の住職は天秀尼。家康に攻められ大阪城で自害した豊臣秀頼の娘である。秀頼にはこの娘の一つ年上の国松という男の子がいたが、後難恐れた家康に殺されている。しかし女の子の方はさすがに家康も殺さず、男が近寄らぬ東慶寺の尼寺に押し込んだ。

東慶寺山門
東慶寺山門
本堂から見た桜
本堂から見た桜

【建長寺】・・・鎌倉五山の第一位。円覚寺と比べるとやや身近で親しみやすい感じがする。本尊がお地蔵さんというのも一因かもしれない。総門にかかる「巨福山」の扁額。揮毫は趙子昴とも一山一寧ともいわれている。巨福山の巨の字に点が入っている。点を入れたことにより字容が重みを持ち、百貫分の価値を生んだといわれている。この一点を百貫点と呼ぶそうだ。本当は誤って書いたのでは・・・と疑いたくなる。狂言の「建長寺の鐘」で有名な梵鐘は円覚寺の梵鐘と並び国宝。

 総門にかかる「巨福山」の額 
建長寺扁額
 山門にかかる桜は今が見ごろ 山門にかかる桜

【その他の桜】・・・建長寺からの帰路、鶴岡八幡宮と若宮大路の段葛に立ち寄る。八幡宮は観光シーズン真っ最中で善男善女のてんこ盛り状態といったところ。もともと八幡宮には桜が少なく、かわりに銀杏が有名だが、旗揚弁財天社のある源氏池のほとりに桜が植わっている。この桜が池に映し出され美しい。段葛は一年半ぶりに改修が終わり昨日(3月31日)の午後から通行できるようになった。以前は桜の幹が30~40cmあったが、今は10cm程度の若木になっている。これも残念だが、寿命が延びたとプラス思考で納得。

源氏池ほとりの桜は今が見ごろ
源氏池ほとりの桜
若宮大路の段葛は観光客であふれていた
段葛



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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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