16.03.29長谷界隈

 そろそろ桜はどうかと長谷界隈に出かけた。しかし桜(ソメイヨシノ)はまだ、1~2分先程度だ。

【長谷寺】・・・遠くから長谷寺の庭園を眺めると桜が咲いているように見える、しかしこれは山桜であった。ソメイヨシノと違い色が桜色でなく白っぽい。長谷寺は別名「花の寺」といわれるだけあり、モクレンに似た「深山含笑(ミヤマガンショウ)」やミツマタ、三つ葉ツツジ、木瓜(ボケ)などが見ごろだ。境内には「さわり大黒」というユーモラスな木像があり、参拝者が耳やおなかの辺りをさわる。また、境内の見晴らし台からは由比ヶ浜、材木座海岸、葉山マリーナが望める
山桜
山桜
三つ葉ツツジ
三つ葉ツツジ
ミツマタ
三俣
深山含笑
深山がんしょう
さわり大黒
さわり大黒
材木座海岸材木座

【収玄寺】・・・四条山収玄寺と号する、こぢんまりとした寺だが、黒い木造の門の奥に立つ「四条金吾邸址」のアンバランスなほど大きな石碑が目につく。四条金吾は熱心な日蓮宗信者で日蓮に終生尽くしたといわれている。石碑の揮毫は日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎による。彼も熱心な日蓮宗信者であった。
収玄寺本堂
収玄寺
収玄寺石碑
収玄寺石碑

【光則寺】・・・長谷寺の参道の一本北側にある道を行くと光則寺に出る。山門にかかる枝垂桜や本堂前の海棠は残念ながら見頃までは、あと10日程度はかかりそうだ。日蓮が、「立正安国論」により迫害を受け佐渡に流され、弟子の日朗も捕えられた。光則寺の裏にある土牢に閉じ込められたそうだ。 
光則寺山門前の山桜
光則寺山門
本堂前の海棠
本堂前の海棠
本堂裏にある土牢
土牢

16.03.25建長寺、鶴岡八幡宮

 今日は久しぶりに晴れたので北鎌倉に出かける。ネットの観光案内では「長壽寺」が一般開放されるとのこと。お寺に着いてみると、一般公開は4月1日からと言う。改めて出直しとなる。帰路、建長寺と鶴岡八幡宮に寄ってみる。建長寺の山側にある桜(多分ソメイヨシノでない)が七分咲のようであった。境内の桜は1~2分咲。鶴岡八幡宮の桜は3分咲。八幡宮の入り口では国際結婚と思われるカップルが記念写真を撮っていた。現在、補修中の若宮大路の段葛も3月30日に歌舞伎役者の中村吉右衛門が「通り初め」をするそうだ。

建長寺の山側にある桜
建長寺山側の桜
建長寺境内の桜
建長寺境内の桜
鶴岡八幡宮の桜
八幡宮の桜
鶴岡八幡宮で国際結婚と思われるカップルの記念写真
国際結婚
補修中の段葛
段葛1
現在、段葛は通行禁止
段葛2

16.03.17鎌倉十井

 前回は鎌倉十橋を訪れたが、今回は鎌倉十井に挑戦。今回も前回と同様に2日がかりであった。鎌倉十井とは以下の井戸である。泉の井、扇の井、甘露の井、鐵の井、底脱の井、銚子の井、瓶の井、星の井、棟立ての井、六角の井である。

【泉の井】・・・扇が谷にある浄光明寺の門前を東北方向に100mほど行ったところにこの井戸がある。井戸には綺麗な水が溜まっていたので、現在も一応湧き続けているみたいだ。鎌倉の谷戸は地形的に湧水が多い。浄光明寺の正式名称は「真言宗 準別格本山 泉湧寺派 泉谷山 浄光明寺」となっていた。泉の井にふさわしい名と感じた。

泉の井 石碑
泉の井 石碑
泉の井 アメンボが泳いでいた
泉の井
浄光明寺の山門
浄光明寺

【扇の井】・・・岩舟地蔵堂から鎌倉寄りに10mほど戻り、路地を左に入ったところにこの井戸がある。個人の敷地内にあるため近づけない。近くを通りかかった人に聞いてみると井戸は現役でポンプまでついている。ここも谷戸の地形でやぐらまである。個人宅に侵入しないようにしながらガレージ越しに写真を撮る。ポンプの前に「扇の井」の石碑が見える。
扇の井 井戸のポンプも現役で活躍

扇の井

【甘露の井】・・・北鎌倉の浄智寺境内への入口に池があり、小さな石橋が架けられている。石橋の左にある池の奥に、 竹の筧より水が流れており、その上に竹で組んだ蓋のある井戸がある。「鎌倉十井の一 甘露の井」と書かれた苔むした石柱が左に立っている。この井戸の水は蜜の様に甘く、不老不死の効果もあったと言われているそうだが・・・

甘露の井 草生した石碑
甘露の井 説明文
甘露の井
甘露の井

【鐵の井(くろがねの井)】・・・人混みで溢れかえる小町通りを北上するとやがて宝戒寺から三ノ鳥居前を通る道、所謂横大路との交差点のその角にあるのが鐵の井がある。傍らの石碑には、「この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。 昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けたと記されている。

鐵の井
鐵の井
鐵の井 石碑
鐵の井 説明石碑
鐵の井 説明文
鐵の井 説明文

【底脱の井(そこぬけの井)】・・・海蔵寺山門の手前右側に小さな泉があり、傍らの石碑に「底脱の井」と期されている。その脇には、文字が薄くなり見にくいが、中世の武将安達泰盛の娘がここに水を汲みに来た時に水桶の底がすっぽり抜けて、「千代能がいただく桶の底ぬけて、水もたまらねは月もやどらず 如大前尼」と歌を詠んだため「底脱の井」といわれるようになった。と刻まれている石碑がある。井戸の底でなく心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌であるそうだ。解説がなければわからない話。

海蔵寺門前の底脱の井 
底脱の井

【銚子の井】・・・長勝寺の東方にあり、日連の供水(こいみず)と云う、寺伝には日蓮乞水と唱えるといえども、この井戸は近くにある同名の小井あるのを、混じ誤れるならん。新編鎌倉志には、長勝寺の境内に、岩を穿ちし井あり、石井と号す。鎌倉十井の一と記す。この井の事か。今は詳らならず。と書いている。実際、探してみるとよくわからない。土地の人に聞いてみると美容院のすぐ傍とのこと。やっと見つける。今は石碑が残るのみ。

銚子の井 石碑
銚子の井

【瓶の井(つるべの井)】・・・紫陽花寺として有名な明月院の開山堂の横にある。岩盤を垂直に堀り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがある事から『瓶ノ井』とも呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。

瓶の井 説明書
瓶の井 説明書
瓶の井
瓶の井

【星の井】・・・極楽寺切通ののぼり口に虚空蔵堂(こくうぞうどう)が一段と高いところに鎮座している。そのお堂の手前の道の脇に井戸があります。この井戸が「星月夜の井」(ほしずきよるのい)または「星の井」あるいは「星月の井」とも云われている。 新編鎌倉志に次のように述べている。「昔はこの井戸の中に、昼でも星の影が見えたのでこの名が付けられた。ある日、近所の人が誤って包丁を井戸の中に落としたので、このとき以来星影が見えなくなった。」と記されている。後ろの立札には、奈良時代の名僧行基がこの井戸で光る石を見つけ、これは虚空蔵菩薩の化身だと思い、堂を建てて祀った伝説があると書いてある。また、清らかで美味だったので昭和の初期まで旅人に飲料水として販売していたとも記されている。

星の井 説明石碑
星の井 説明石碑
星の井
星の井

【棟立ての井】・・・覚園寺の境内の薬師堂裏の山際に棟立の井(むねたての井)があったそうだ。井戸の形が家の棟の形をしていることからこの名がついたといわれている。また、屋根の形から破風の井(はふうの井)とも言われている。昭和36年(1961)に山崩れのために土中に埋もれてしまって、現在は確認できない。従い、立ち寄らず。

【六角の井】・・・光明寺から逗子マリーナへと続く道を進んで行くと国道134号の下を潜った先にトンネルがあり、のトンネル手前に右に入って行く小道がある。さらに進んで行くと六角ノ井に到着する。海の目の前にある井戸だ、水はしょっぱくないのか?とか考えてしまう。立札の説明には、井戸端は八角あり、そのうちの六角が鎌倉分、二角が小坪分といわれている。別名『矢の根井戸』ともいい、源為朝が伊豆大島から射た矢がこの井戸に落ち、やじりが残ったところからこの名がついたといわれている。かつては井戸替えの際に、やじりを入れる竹筒を取り替えていたが、これを怠った年は悪い病がはやったと伝えている。やじりは、今も竹筒に封じて井戸の中段に祀ってあるそうだ。

六角の井 石碑
六角の井 石碑
六角の井 井戸小屋
六角の井 小屋
六角の井 井戸小屋の中の井戸
六角の井 井戸

【番外編】・・・今回は「棟立ての井」が山崩れで確認できなかったので、「十六の井」を加えたい。海蔵寺には「底脱の井」があるが、この井戸も同じ海蔵寺の敷地にある。仏殿の裏のトンネルをくぐると岩窟があって、その中に丸く掘られた穴が縦横4つずつ並んでいる。岩窟内部正面の壁面には、観音菩薩像が安置されている。 この像は、文政6年(1446)に安置された石像といわれ、その以前までは青銅製の観音菩薩像が安置されていたという。観音菩薩像の下に置かれているのは弘法大師像。観音像左の壁面には、嘉元4年(1306)の銘が入った阿弥陀三尊来迎図を刻んだ板碑がはめ込まれていた。16の穴について、『扇谷山海蔵略寺縁起』には、開山が観世音菩薩のお告げによって井戸を掘り出し、その時に観音菩薩像も出てきたと伝えている。一方で、弘法大師が掘ったもので、仏に奉納する水を汲んだ井戸であるとする伝説も残されている。また、学者の中には納骨穴ではないかという説もある。謎の多い井戸で、詳しいことは解明されていない。

十六の井に向かう矢印
十六の井に行く矢印
十六の井があるやぐら
十六の井 やぐら
やぐら内の十六の井
やぐら内の十六の井 





16.03.08鎌倉十橋

 鎌倉では謂れや伝説の残る橋と井戸について、「鎌倉十橋」、「鎌倉十井」という。すでに江戸時代に観光地としてにぎわった鎌倉に、それぞれ名所として制定されたようだ。今回は十橋について訪ねてみた。現在は当時の面影を残したものが少ない。また、暗渠となっていたり、コンクリート製になっていたり、味気ないものとなっていた。鎌倉十橋は以下の通り。
 鎌倉十橋とは歌の橋、夷堂橋、勝の橋、裁許橋、逆川橋、十王堂橋、筋違橋、針磨橋、琵琶橋。乱橋である。

【歌の橋】・・・建保元年(1213) 千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえ、第二代執権北条義時に差し出した時から事件は始まる。この僧侶の名は安念と称し、安念法師の自白により謀叛のことが発覚。謀反の一味二百人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がおり、渋川兼守は捕らえられて安達景盛に預けられる身となった。いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納した。たまたま昨夜より天神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出す。幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動して兼守の罪を直ちに許される。この恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付した。このような謂れから橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になった。今は、金沢街道と荏柄天神の参道が交わる場所に長さ3間で横たわっている。うっかりすると見落としてしまいそうな橋だ。

歌の橋石碑
歌の橋1
橋の石碑
歌の橋2
歌の橋
歌の端3

【夷堂橋】・・・JR鎌倉駅より若宮大路を横切り郵便局の脇の道を東に進むと本覚寺に到着す、境内を抜けて山門を出ると滑川に至る。ここに架かる橋が夷堂橋である。鎌倉十橋は、滑川支流に架かる橋が多かったが、滑川本流に架かる橋ともなれば、その規模も大きく異なる。昔より、大町と小町の境にある滑川に架かる橋として、しばしば夷堂橋の名が新編鎌倉志等の地誌に見られる。尚、夷堂橋の名の由来は、昔この付近に夷三郎社があった事から付けられたという、今は社はない。

夷堂橋の石碑
夷堂橋の石碑
滑川にかかる夷堂橋
滑川に架かる夷堂橋
橋の向こうは本覚寺
橋の向こうは本覚寺

【勝の橋】・・・JR鎌倉駅西口より扇ケ谷方面に進むと寿福寺に到達する。寿福寺の前の道に沿って小流が流れ、南東の角付近にて東の方に流れを変えて道路の下を横断している。この道路を横切る所に架かる橋を「勝の橋」と言う。昔は立派な石橋が架けられていたが、現在、橋はなく小型のボックスカルバートが敷設されている。これが鎌倉十橋の一つかと些か疑問を抱かせるような遺跡である。余談だが、寿福寺の隣の英勝寺、鎌倉にある唯一の尼寺(浄土宗)。開基は英勝院尼。 英勝院尼は、徳川家康に仕え「戦には必ず勝利をもたらした」ので「お勝の方」と呼ばれ、家康の命により水戸家初代の徳川頼房の養母となった。そのお勝の方が架けた橋なので「勝の橋」と呼ぶ。橋標の横にある庚申塚には、川上藤沢宿、川下八幡前と刻まれている。

勝の橋の石碑
勝の橋の石碑
石碑の傍にある庚申塚
庚申塚

 【裁許橋】・・・ JR鎌倉駅西口より、今小路を六地蔵方面に南下。御成小学校を右に見て進むと、学校の敷地の外れに佐助川が流れ、ここに架かる小橋を裁許橋(さいきょばし)と称す。鎌倉時代には、この近くに幕府の裁判所があり(御成小学校の正門前の道角に問注所旧蹟の石碑有り)、無罪の場合はこの橋を渡り無罪放免。有罪の判決を受けた罪人が処刑場(現在の六地蔵辺り)に向かう際も、この橋を渡った事から裁許橋の名が付いたと言われている。まさに、イタリアのヴェネツィアの運河に架かる「ためいきの橋」の日本版と言うところ。

問注所旧蹟の石碑
裁許橋の石碑
裁許橋
裁許橋

【逆川橋】・・・逆川橋(さかさがわばし)は、夷堂橋より小町大路を南下し大町四つ角を横切り、魚町橋(いおまちばし)を渡ると道の左手の路傍に橋標が少々傾いて建っている。橋標の手前に左に曲がる小道が有り、そこに小さな橋が架かっているのが見える。一見、川は海の方向でなく山の方向に流れている。例によって、これが鎌倉十橋の一つかと目を疑うような規模の橋である。

逆川橋の石碑
逆川橋の石碑
逆川橋
逆川橋

【十王堂橋】・・・十王堂橋(じゅうおうどうばし)は、JR北鎌倉駅前の鎌倉街道の下の道で、小袋坂より大船・横浜を通り奥州に通じている。この鎌倉街道の下の道を大船方面に少々進むと、小袋谷川が道の下を横切っている。ここに架かる橋が十王堂橋である。昔、この付近に薬師堂と十王堂が有った事から十王堂橋の名が付いたと言われている。今は薬師堂も十王堂も無く、この橋に「十王堂」の名称が残るのみである。写真の橋左側は暗渠となっている。

十王堂橋
十王堂橋

【筋違橋】・・・ 宝戒寺の近くには、「筋違橋」がある。この地は、往時は小町大路と横大路と六浦路(金沢街道)の三大路が接続し、且つ直角に曲がる場所である。ここに西御門の谷より流れ来る小流が、道路を斜めに横切り滑川に合流す。橋は道路に対し斜めに架けられた斜橋であった事から、この様な名が付いたと言われている、名の由来は、「く」の字に架かっていたためといわれる。石碑には「筋替橋」と記されている。宝治元年(1247)、第五代執権北条時頼と外祖父の安達景盛がこの橋から有力御家人三浦泰村を攻めた宝治合戦がある。この戦いにより源頼朝以来幕府に仕えた三浦氏が滅んだ。 

筋違橋の石碑
筋違橋石碑

筋違橋
筋違橋


【針磨橋】・・・針磨橋(はりすりばし)は、江ノ電極楽寺駅より稲村ガ崎方面に進むと十字路に到達する、道の下を流れる極楽寺川に架かる小橋を針磨橋、またの名を我入道橋(がにゅうどうばし)と称す。 昔この付近に針を作る者が住んでいた事から、この名が付いたと言う。またの説に、極楽寺に我入道なる僧が住み針を作るのを仕事としていた事よりこの名が付くとも言う。いずれにしても、他の十橋に比較してあまり深いいわれは無い、鎌倉十橋の一つに数えられるようになった理由がどの辺にあるのか?

針磨橋の石碑
針磨橋の石碑
針磨橋
針磨橋

【琵琶橋】・・・ 若宮大路を下馬交差点から由比ヶ浜へと進むと琵琶橋がある。滑川へと注ぐ手前の佐助川に架けられている。その昔、一の鳥居から二の鳥居の間が「琵琶小路」と呼ばれていたことからこの名が付いたと伝えられている。「琵琶小路」という名称は、この道が外に彎曲していたため、それが琵琶の胴の曲線に似ていたことから付けられたのだという。

琵琶橋 すぐ傍はガソリンスタンドがある
琵琶橋

【乱橋】・・・乱橋(みだればし)は、逆川橋より南下し左に本興寺を右に辻の薬師堂を見て、更にJR三浦道踏切を渡ると右手に元八幡宮の道標が建っている。水道道との交差点を横断し、さらに進むと左手に妙長寺が見える。寺の少々先の右に乱橋の石碑が左に橋標が建っている、橋は規模が小さく注意しないと見落とす恐れがある。吾妻鏡には濫橋と書かれており、その他亂橋又は乱橋とも書く。

乱橋の石碑
乱橋の石碑
乱橋 石碑の隣が橋の欄干 橋そのものは90cmほどの小さいもの
乱橋

16.03.02烏森神社

 5月の旅行計画について、高校時代の友人O君と打ち合わせのため、新橋に出かける。現役時代はJR新橋駅は専ら地下鉄銀座線に乗り変えのための駅であった。以前から新橋駅の出口に「烏森口」とあるのが気になっていたので、今日は事前に烏森口から出て、烏森神社に寄ってみる。想像していた通り、飲み屋街の中にあった。大阪曾根崎の「お初天神」をさらに小さくしたような感じだ。本殿に至る参道は、まさしく飲み屋街。午前中だったので提灯やネオンは気が付かない。それにしても社務所は普通の住宅のようだ。
 烏森神社縁起によると御祭神は「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」、「天鈾女命(あまのうずめのみこと)」、「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」となっていた。御神徳は「商売繁盛」、「技芸上達」、「家内安全」、「必勝祈願」などとなっている。お守りの売り場には若者たちがたむろしていた。ここは都会の不思議なスポットだった。
本殿至る参道
参道
本殿
本殿
社務所
社務所
お守りや絵馬などのグッズ売り場
お守り売り場

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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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