20.03.07-13 マグリブ紀行・アルジェリア編

20.03.07-03.13 マグリブ紀行・アルジェリア編

アルジェリア ジぇミラ遺跡
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【アルジェリア】は東にチュニジア、リビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニア、更に西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面する。地中海を隔てて北に旧宗主国のフランスが存在する。
面積:238万㎢(日本の約6.3倍) 人口:3780万人 首都:アルジェ
外務省の海外安全情報では今回の中東地域で米・イラン対立における緊張の高まりに関する注意喚起(その2)が出ている。また、2013年1月に日本人10名(8か国計38名)が殺害された日揮事件は記憶に新しい。
アルジェリアは産油国として11番目であり、石油が国家の収入に占める割合は98%とか。


3月7日
 朝9時30分の便でチュニス・カルタゴ空港から空路アルジェリアのアルジェへ飛ぶ。アルジェには11時頃に到着。イミグレーションで入国カードを提出するが、更に別室で旅行の目的や日程表、更に宿泊するホテルのリストも提出を求められる。ガイドブックにもその様なことは載っていない。多分、コロナウイルスの関係で何かあった際にトレースできるようにということか。それとも日揮事件のようなことが起こらないように未然にチェックするのか不明。
  夕方、国内線でコンスタンティーヌへ移動する予定だが、それまで5時間程度余裕があり、市内に出かけてみる。空港からは早速、ツーリストポリスが先導してくれた。

 先ずは市内で『焼き鳥』ではないが、『焼き羊』で腹ごしらえ。羊の頭を焼いていたり脳みそやペニスがあったり、ワイルドな昼食だった。

羊の首から上を丸焼き
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羊肉に交じり脳みそも
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 腹ごしらえの後ほは定番の観光スポットであると『アルジェリア独立記念塔』を見学。この記念塔は1962年7月5日に独立し、20年後に建設されたものだ。高台にあるため、市内を一望できる。当日は土曜日であり大勢の家族連れの市民でにぎわっていた。余談だが、アルジェリアの休日は金曜日と土曜日である。チュニジアは西欧と同じ土日となっていた。

独立塔 
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独立塔のある丘から市内をのぞむ
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市内の庶民の住宅
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若い人は意外と外国人にフレンドリーDSC_9041 (2) (800x533)

 空港に向かう途中に『ノートルダム・アフリク大聖堂』(アフリカの聖母マリア教会)に立ち寄る。ここはローマ・カトリックの『アフリカの聖母マリア』を指す。聖母マリア像も銅製で黒く光って黒人の様に見えた。また、神父さんも黒人であった。アルジェリアがフランスの植民地であった、1858年から1872年にかけ、ネオビザンチン建築様式で建てられている。ここもキリスト教信者だけでなくイスラム教徒も見学していた。聖アウグスティン礼拝堂のフレスコ画には『ノートルダム、アフリックキリスト教徒、イスラム教徒に幸あれ』と記されていた。アルジェリアはイスラム教徒が99%、キリスト教徒が1パーセントといわれている。教会のテラスから下にユダヤ人墓地とクリスチャン墓地があった。

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 夕刻、アルジェリア機に乗り継ぎコンスタンティーヌヘ。驚いたことに国内線は指定されたシートでなく、全てが自由席であった。



3月8日
 深い渓谷の上、標高626m地点に位置するコンスタンティーヌは、アルジェリア第三の町で別名「橋の町」と呼ばれている。ローマ皇帝コンスタンティヌスから名前がついている通り、その歴史はローマ時代まで遡る。ローマ時代からオスマントルコ時代、さらにフランス植民地時代。フランス植民地時代に架けられた数々の橋は、この町の名物にもなっている。他にも町にはフランスの香りを色濃く残す街並みやオスマントルコ時代のモスク、さらに現代建築が混じり合ってうまく調和が取れている。

 朝食後、渓谷の町コンスタンティーヌを観光。断崖絶壁の渓谷に掛けられた『シディ・ムシド橋』に出かける。切り立った崖に大きな橋がかかり断崖の上にまで家が建ち並んでいる不思議な町だ。観光中は残念ながら雨に降られた。

シディ・ムシド橋は自殺の名所と言われている
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 シディ・ムシドの展望台には凱旋門がある。この凱旋門は第一次世界大戦の戦死者を慰霊する目的で建てられたものだ。展望台からの眺めは素晴らしい。

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 コンスタンチーヌの観光後、セティフに向かう。途中、美しい丘陵地帯に広がる『ジュミラ遺跡』を観光。ジェミラは、アルジェリアの北東の海岸に近い山村である。村の名前はアラビア語で「美しいもの」を指す。それ以前のラテン語での名称はクイクルム (Cuiculum) だった。古代ローマ時代の遺跡が良好な保存状態で現存していることから、1982年にユネスコの世界遺産に登録されている。特に、山の地形に合わせてローマ建築が持ち込まれた点に特色があり、劇場、2つの集会場、寺院、バシリカ、アーチ、街路、住居群などが現存している。道中は昨夜に雪が降ったようで、周りの丘には冠雪が確認できた。アフリカの地中海沿岸ということで、少々侮っていたが、寒さには閉口した。

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 ジュミラ遺跡に入場するためには、カラカラ帝の凱旋門を模した道路上の門をくぐり、その後に入場。
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博物館の入り口
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先ず、博物館に入場する。ここはローマ時代のモザイク画や彫刻が多く展示されている。
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カラカラ帝の肖像 
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カラカラの母の肖像
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 屋外は紀元1世紀から5世紀までのローマ時代と東ローマ時代の神殿や円形劇場、凱旋門、浴場、商店などが古い時代の物から新しい時代の物へ、丘の麓から年代を経るごとに上の方へと残されている。

セブテミゥス・セウェルス帝神殿  
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カラカラ帝凱旋門
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 チュニジアのドッガ遺跡にもあったが、石造りの公衆トイレは、水を流せば現在も使えそうなほど。
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売春宿の看板もあった。
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円形劇場
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円錐形の噴水址
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巨大な梨の木は花が満開
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 遺跡を後にセティフに向かう。アルジェリアに来て以来ホテルからツーリストポリスが、目的地まで先導してくれる。当然、警察の管轄地が変わるごとにツーリストポリスも変わる。どうも『日揮』の事件以来、欧米人と日本人の誘拐を未然に防ぐためらしい。おかげで渋滞の時は赤色灯と警告音で前を進む車を蹴散らし優先的に進む。とても快適だが、こんなこと許されるのかと思う。そして宿泊先のセティフに無事到着。

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3月9日
 考古学博物館の開館が10時なので、セティフの街を探検する。先ず、ホテル近くの泉に出かける。ここはローマ時代から泉が湧き出て、今でも水を汲みに来る人がいる。そして近くにはトラムが走っており市民の足となっている。

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ホテル近くのモスクに出かける。非ムスリムなので外から写真を撮るキリスト教会をイスラム教のモスクに転用しているようだ。
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 モスクの広場には、この地方特有のねずみ男の様な民俗衣装を着た老人がたむろし談笑していた。中々暖かそうな頭巾付き外套。
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モスク近くの市場では足元に牛の頭が転がっていた。非常にダイナミックな光景。市場は精肉、野菜、果物、魚などが売られていた。非常に安価な感じだ。中には初めて目にする野菜ものもある。

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『考古学博物館』を見学する。ここもローマ時代からのモザイク画が展示されている。千数百年を経て発掘されたものが多い。この辺りは工事中に遺跡が発掘されるケースが多いそうだ。改めてローマ帝国の強大さを感じる。

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  午後15時10分発のアルジェ航空で空路でアルジェに戻り、さらに18時35分発の同航空で空路ムザブの谷の町ガルダイアへ。セティフは1945年5月8日、フランス軍の支配に対してアルジェリア人がセティフ及び近隣のGuelmaとKherrataで蜂起し、104人のピエ・ノワール(欧州系移民)が死亡した。アルジェリア人の死者は推定で20,000人から40,000人に登るとされる。これはのちにセティフの虐殺と呼ばれる。そのため、セティフの空港は『1945年5月8日空港』と呼ばれているそうだ。アルジェリアの対仏独立戦争もあり、アルジェリア人のフランス人に対する感情は。フランス文化に対する憧憬と苛烈な植民地支配のため複雑だ。しいて言えば love & hate ということか。セティフへの航空機はボーイングであったが、コロナのためか乗客数は18名であった。

セティフの『1945年5月8日空港』
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飛行機の中はがらすき空き
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3月10日
 ムザブのあるガルダイアはアルジェリア中部に広がるムザブ地方だ。首都アルジェの南方600約キロに位置し、標高300メートルから800メートルの場所にある岩だらけの高原地帯。新石器時代以降、洞穴に暮らす人々がいたといわれている。それから長い歴史の中で、ムザブには25もの町が現れては消えていった。現在のムザブは5つのオアシス都市(ガルダイア、メリカ、エル・アティフ、ベニ・イスゲン、ブースーラ)の集合体に、後から2つの町が加わった合計7つの町の総称となっている。「ムザブの谷」という名称で5つの村が世界遺産に登録されている。

 ホテルからツーリストポリスに先導してもらい先ず、ムザブの丘から全体の光景を眺める。オアシスのある場所以外は砂漠である。川は水がなく干上がり、臨時の駐車場状態。

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 シディ・アイサの墓は奇妙な曲線で、漆喰で白く塗られていた。彼は町が造られた時、人々を率いた指導者(イマーム)だ、高貴な人物なので立派な墓だ。ミニチュアのミナレット付き、外には一般の人々の墓、顔をメッカに向けて埋葬されている。建築家のル・コルビュジェはムザブにある墓から影響を受けたといわれている。

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 ムザブの町は独特のイスラム文化を持っている。スンニ派やシーア派でもなく、別の宗派?といわれている。女性は白い衣装で既婚者は片目のみ頭巾から出している。未婚者は頭巾をかぶるが、両目を出している。女性の写真を撮ることはきつく禁じられている。従い写真は後姿をこっそり撮ることとなる。街は傾斜のある狭い路地が入り組み、見知らぬ男性と出会うと引き返すか、路地に逃げ込む。非常に奥ゆかしい。

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 村の中は勝手に入れず、村で決められたガイドが案内してくれる。勝手に路地に入ると地元の人とトラブルになる。また、ツーリストポリスが、少し離れたところから監視している。

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井戸にはロバが繋がれていた。村中はロバが重要な運搬手段。
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観光客の服装や、写真撮影、ビデオ撮影の制限が表示されている。
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 ガルダイアの市場はマーケット広場にある。様々なものが販売されているが、土地柄か絨毯用の毛糸などあり、興味深い。肉屋で買物をするのは男性ばかりであった。また、水の汲み置き用のツボが売られていたが、よく見ると壺の外側は紐のようなので巻かれている。夏の暑いときは外側に水をかけ、気化熱で冷たくするそうだ。

市場の風景
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絨毯用の毛糸をあつかう扱う
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肉屋に並ぶ男性  
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水用の壺
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 エル・アディフのシディ・ブラヒムの墓を見学する。こちらもシディ・アイサの墓と同じく、ル・コルビュジェが影響を受けたと言われている。
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 ムザブ族の聖都ベニ・イスゲンの町を散策する。ベニ・イスゲン。5つの町の中でも最も戒律が厳しく、聖なる町とも呼ばれている。夜間に外国人が入ることが許されたのは近年になってからだそう。土壁の家が建ち並ぶベニ・イスゲンの街並みは、世界遺産のムザブの谷を象徴するような美しい景観。蚊避けのために屋上が青く塗られた家々も特徴的だ。

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ベニ・イスゲンのガイド75歳。非常に元気でお茶目
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街の広場ではオークション市が開催されていた。オークションというよりガラクタ市。
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 アルジェリアでもコロナウイルスは大きな話題のようで、東洋人を見れば『コロナ!コロナ!』と小学生の悪ガキどもがはやし立てる。写真を撮ろうとすると一目散で逃げてゆく。苦笑せざるを得ない。60数年前の自分を見るようだ。

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3月11日
 朝の8時15分アルジェ行のフライトなので、早朝ホテルを発つ。昨日訪れたベニ・イスゲンの街を通過する。昼間と違い各家々が夜明けの祈りのために起き出した感じだ。

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ツーリストポリスの車は4駆 
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アルジェ行きは珍しくon time で出発
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空港ではコロナウイルスに対する注意喚起
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アルジェでは別のツーリストポリスが先導
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 アルジェに着いて、先ず、『マウレタニア王家の墓』を目指す。途中、アルジェの町の発展を象徴するような、モスクの建設やイスラム大学を車窓から眺める。

モスクを建設中 
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イスラム大学
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 『マウレタニア王家の墓』は地中海に沿ったアルジェ近郊にある。プトレマイオス王朝のクレオパトラの娘(ユパⅡ世の妃)のものといわれているが、年代がそれ以前なので事実ではない。しかし、未だに真実は不明らしい。日本人にとってはあまり馴染みの歴史だ。扉は東西南北に4か所あるが、全て扉ではない。実際の扉は地下入口のようだ。しかし何回も盗掘され歴史を証明するものは残っていない。ここはティパサと共に世界遺産だ。

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地下への入り口
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入り口から”の”の字のように進む
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マウレタニア王家の墓から30分ほど車で移動し、ティパサの遺跡を訪れる。ここには、ローマ時代の『バシリカ神殿跡』、カルタゴ時代の『ネクロポリス』、『円形闘技場』がある。全て世界遺産だ。地中海をバックにした遺跡群の規模はそれほどではないが、地中海が眺められ素晴らしい。平日にもかかわらずアルジェから多くのカップルが見学に来ていた。また、フランスの作家アルベール・カミュがこの遺跡を愛したといわれている。

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ここでは魚醤を発酵させる工場があったという.なぜそんな昔のことが魚醤と判ったのか?瓶の底の沈殿物をクロマトグラフィーなどで現代の手法を駆使し分析した結果らしい。現在大豆の醤油こそ世界的に普及しているが,魚醤はまだそれほどでもないと思う、これから広まるかも知れない、期待したい。

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 丘に上り富裕層エリアを眺めた.確かに地中海を望む斜面に展開され,現代でも高級住宅地であろう.
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井戸の跡
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遺跡の市境を示す市壁
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 遺跡のはずれにアルジェリア出身のフランス人作家のアルベール・カミュの記念碑がある。カミュの友人たちが死後2年後に建てたもの。カミュはこの地を愛し,幾度となく訪れた、また、新婚旅行でも訪れている。そして若くして1957年にノーベル文学賞を受賞し,1960年にこの世を去った。享年46歳。記念碑には『結婚』の一文『ここには限りない愛と正義と栄光がある』と刻まれている。
 帰国後、コロナウイルス騒動で思い出し、カミュの『ペスト』を書籍店で探したが、品切れになっていた。同じことを考える人が多いのか、全国の書店で在庫切れらしい。

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 遺跡の市境を示す市壁の後ろは墓地になっている。さぞ高貴な人か裕福な人の墓だったと思われる。
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 遺跡かの出口から駐車場に行くまで間口の小さな商店があった。販売しているものは外から見えにくい。何を売っているのかを覗くと酒類の販売だ。イスラムの国なのでおおっぴらにはいかない。買った人は黒いビニール袋で中身は見えなかった。
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3月12~13日
 アルジェでは映画『望郷』の舞台となった旧市街を見学。旧市街のカスバといえば、映画『カスバの女』や『望郷』が思い浮かぶ。ジャン・ギャバンのペペ・ル・モコのシーンは何処かとガイドに尋ねると、全てフランスのセットで撮影したとそっけない回答。『アルジェの戦い』はこのカスバで撮影されたと言っていた。
120mの丘の起伏に富んだ地形に作られた町は、まるで巨大な迷路に迷い込んだような感覚に陥る。目の前に突如開ける地中海、どこを見ても絵になる風景だ。そういえば、青江三奈の歌で、♪ここは地の果てアルジェリア~どぉーせカスバの夜に咲く~♪ と言うなんとなく投げやりでアナーキーな歌を思い出す。

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ユダヤ人の人家
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イスラム系の人家
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カスバのごみ収集はロバの役目
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カスバの猫は人懐こい
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カスバの中のモスク   
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水飲み場
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フランスのマルセーユ行きのフェリー
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 アルジェリアはチュニジアと比べ少し暗い感じがする。国は石油で潤っているのでいいが、国民は貧しそうな様子だ。富の配分がうまくいっていない感じだ。ジャスミン革命でチュニジアは民主化がアフリカ諸国で一番進んでいるようだが、アルジェリアはツーリストポリスの行動(こっそり監視)等かなり制限を感じる。そんなことを感じながら今回の旅を終える。

 12日の午後、空路中東のドバイ乗り継ぎ、帰国の途に
アルジェpm15:20⇒ドバイam0:50   ドバイam2:55⇒成田pm17:20

 旅行中にコロナウイルスが改善しているかと期待したが、大きな間違いだった。それにしても成田の検疫はチョット緩すぎる感じがした。『健康カード』の様なもので入国前の滞在先や入国後の滞在先などの記載の義務もない。こんなことではトレースのしようがない。大いに心配だ。



20.03.01-06 マグリブ紀行・チュニジア編

 エジプトよりも西の北アフリカ地中海岸の一帯をマグリブと言う、アラビア語で『日の没する地』、つまり西方の意味。そこに住む人々はベルベル人で、7世紀以降イスラム化した。現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアの4国 だ。2014年にモロッコとチュニジアの一部を旅したことがあるが、今回はチュニジアとアルジェリアを訪れた。

【チュニジア】は西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。
面積:16万3600k㎡(日本の約2/5) 人口:1157万人 首都:チュニス
外務省の海外安全情報ではレベル3(渡航中止勧告)が出ている地区もあるが、今回の旅行地域はレベル2(不要不急の旅行は中止)だ。

チュニジア  ローマ時代のドゥッガ遺跡(円形劇場)
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3月1日~2日
 空路チュニジアに向かう。直行便はないので一旦、中東のドバイで乗り継ぎチュニスへ。
成田pm23:00⇒ドバイam6:00 ドバイam9:00⇒pm12:55チュニス 東京とドバイの時差は5時間、ドバイとチュニスの時差は3時間。所要時間は 成田⇒ドバイ 12時間、ドバイ⇒チュニス 3時間55分 計15時間55分の長旅。

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 チュニスの到着後、そのまま空港から聖地ケロアンに向かう。途中、2000年前から続く世界遺産『ザグーアンの水道橋』に立ち寄る。水源のザグーアンから地中海に面したカルタゴまで132kmの水道橋だ。現在残る部分だけでも20kmある。ポンプの無い時代に、わずかな高低差を利用して自然に流れるように設計されている。ローマ時代の高度な測量と土木技術は驚きである。高地ではトンネルで地中を通し、低地では水道橋で高低差3%の確保している。


水道橋の遺跡は道路沿いにあり、別に柵があるわけでなく単なる遺構としか見えない。
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 ケロアンはチュニスの南165kmに位置する。オリーブ畑に囲まれたチュニジア第4の都市だ。また、カーペットの産地でもある。途中、右側にジュベル山(鉛の山の意)が見えた。現在は鉛は産出していない。

車窓から見たジュベル山
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同じく車窓から見たコウノトリの巣
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3月3日
 ケロアンのホテル近くに9世紀に造られた中世世界では最高技術の貯水池がある。現在は大小4つが残されている。当時は14個の貯水池があったそうだ。ケロアンの西36km離れた丘から水道によって運ばれ、最初に小型の浄水用貯水池へ、それから直径128m、深さ5m、容積5万㎥の大型貯水池に流れる仕組みだ。世界遺産に登録されている。

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観光局の屋上
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観光局の屋上からの眺め
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 シディ・サバブ霊廟は7世紀に建てられたムハンマドの同志で聖者のアブ・ザマ・エル・ベラウイが眠る霊廟だ。彼はムハンマドの床屋でムハンマドの髭3本と共に埋葬されている。後の17世紀のオスマン帝国時代には巡礼者のための宿、モスクとミナレット、神学校などが付け加えられ、現在の姿となった。因みにサハブとはアラビア語で『友人』という意味らしい。霊廟の建築材料はローマ時代の建造物から拝借しているので柱はそれぞれ太さも異なっている。

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 ケロアンには670年に創建されたアフリカ最古の『グランド・モスク』(シディ・ウクバ・モスク)がある。その後は何度も改修されたが、四方を土色の煉瓦で強化され要塞の様な外壁。内部への門は9つある。我々のような非ムスリムはメインゲートのみ入場を許される。

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 左の方の建材はローマ時代のもので、ラテン語でカエサルと読める石が上下逆に使用されている。右の石は同様にアントニウスと判読できる。
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礼拝の時間を確認するための日時計、階段を上り上の盤で時刻を確認
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モスクの内部は係員に袖の下を渡し写真を撮ってもらう。撮り慣れているのか中々の腕
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 ケロアンの旧市街(メディナ)はアラブ特有の混沌としたカオスの世界だ。間違って路地に入ると迷路に迷い込む恐れがある。この旧市街も世界遺産だ。

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旧市街の建物の中にある井戸から水をくみ上げるため、ラクダに歯車を回させる。

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 その後、北アフリカの先住民であるベルベル人の地下住居で有名なマトマタに向かう。洞窟住宅を利用したバックパッカー用のシディ・イドリス・ホテルだ。シディ・イドリスが映画『スター・ウォーズ』の「エピソード4」と「エピソード2」に使われ、一躍有名になった。地下穴の中は乾燥地帯の急激な気候変化と強い日差しを避けるのに都合がよく、夏はひんやり、冬は温度が下がらず暖かいそうだ。ジョージ・ルーカスの撮影シーンの写真等が展示されていた。本日はその近くにある別の洞窟ホテルに宿泊する。なんとなく、トルコのカッパドキアのようだ。

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ホテルの手前にあるベルベル人KENZAさんの洞窟住居も見学させていただく。5人家族(夫婦と3人の子供)とのことで、石臼を挽く実演までしてくれた。

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3月4日
 朝からチュニジアの真珠と呼ばれるスースに出向く。途中、エル・ジェムに立ち寄る。エル・ジェムはローマ帝国アフリカ領の中でも最も豊かな都市の一つに数えられる。 
 エル・ジェム博物館は、1971年創設。発掘は19世紀末からフランス人考古学者によりエル・ジェムから発掘されている。外見はしょぼく見えるが展示物は素晴らしい。特にモザイク画と近郊から移築したローマ時代の住宅(アフリカの家)は秀逸である。

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 エル・ジェムのコロセウムは2世紀ローマ帝国のゴルディアン皇帝のもと、工事が着工された。チュニジアに25ほどあるコロセウムのうち最も保存状態が良く、本家のローマよりも良いと言われている。規模はローマ、ベローナに次ぐ第3番目ということらしい。3500人収容、高さ35m、アレーナは65m×40m。階級により席は3層に別れている。毎年7,8月にフェスティバルが行われる。

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スースの町はサヘル(沿岸地方)の真珠と呼ばれるチュニジア第3の都市で人口24万人。メディナ考古学博物館は要塞に囲まれたもっとも見晴らしのよい高台、元軍事施設カスバ(砦)を利用した建物にある。灯台は今も使用。ここも、キリスト教を中心にしたモザイク画が展示されている。また、キリスト教洗礼水盤は宗教的にも価値があるそうだ。そして建物自体が高台にあるため、建物上部からは市内と港が眺められた。

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 メディナの旧市街は世界遺産である。城壁に囲まれびっしりと商店が並んでいる。まさにアラブの町を感じる。城塞に沿ってグランド・モスクがあり、城塞の外には8世紀に建てられたリバトがある。リバトはグランド・モスクと同様に侵攻の前線基地として、町を外敵から保護する機能を果たしていた。グランド・モスクは非ムスリムの人は中に入れない決まりになっている。
 
城塞に付属しているグラン・ドモスク
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リバトの塔の上から見たグランド・モスク
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リバトの内部
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リバトから考古学博物館をのぞむ
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 市内をのぞむ
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3月5日
 スースのエンフィダ空港(ベンアリ大統領)からチュニスに戻る。途中チュニジア最大規模のローマ遺跡『ドゥッガ』を観光する。ドゥッガは紀元前2000年にヌメディア人がここに住み始め、カルタゴからフェニキア人がやって来る紀元前4世紀にヌメディア王国として栄えた場所だ。カルタゴ滅亡後、紀元46年にヌメディア王国もローマに滅ぼされる。

 ドゥッガ遺跡の円形劇場や神殿などは世界遺産である。チュニジアには数多くのローマ都市遺跡があるが、このドゥッガ遺跡は規模、保存状態は非常に優れていると思う。

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古代ローマ都市の中心はフォルムとそれに隣接するキャピトルだ。神殿はジュピター、ジュノー、ミネルバの3神を祀っている。マルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスの2人の皇帝に捧げられたもの。

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神殿近くには浴場の遺跡や公衆トイレの遺跡もあった。まるでポンペイ遺跡のようだ。

冬の浴場(熱い蒸気)跡 
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公衆トイレ跡
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遺跡の中にヒツジやヤギが草やオリーブの葉を食べに侵入。日本では考えられない。
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 ドゥッガ遺跡の見学を後にして、チュニスに戻る。道中で羊の群れを管理している親子や電柱に巣を作っているコウノトリの番いを見る。日本ではまず目にしない光景。

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チュニス市内の独立記念塔  
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大統領官邸は非常に厳しい警戒だった。
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チュニスの旧市街地(メディナ)を散策、ここも世界遺産である。旧市街は城壁に囲まれて、グラン・ドモスクや各種商店が立ち並び、アラブ独特の雰囲気がある。

メディナの壁に世界遺産の証明 
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昔は奴隷市場であったが今は宝飾市場
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昔はメドレッセ(神学校)  
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元は図書館の扉
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グランドモスクの外壁  
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メディナの通り道
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メディナの外には大聖堂やオペラ座があり、かつてはフランスの植民地であった。
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イギリスのエリザベスホテル
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3月6日
 チュニス観光の後、ローマ・ビザンチン時代のモザイクが展示されているバルドー博物館を見学する。なお、この博物館は2015年3月に銃の乱射事件があり、22名が死亡(内3名が日本人)した。同6月にポート・エル・カンタウィのリゾートホテルでも銃の乱射事件があり、観光客38名が死亡した。外務省はチュニスに渡航する人に対し注意喚起している。

 バルドー博物館の建物の一部はオスマン帝国時代にチュニジアを統治していたベイ(地方長官)の宮殿であった。その後、1881年、フランス保護領となったバルドー条約が調印されたのもこの宮殿だ。1956年にフランスから独立したのを機に『バルドー博物館』となった。チュニジアのルーブルとも呼ばれ、先史時代から今日までの歴史を学べる随一の考古学博物館である。また、ジャスミン革命で市民が民主化推進行動に対し果たした平和行動に対して、2015年のノーベル平和賞を受賞している。

博物館正門
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ノーベル平和賞のメダル
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洗礼盤 
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博物館の建物はオスマントルコの地方庁官邸
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神話やキリスト教に因んだモザイク画や彫刻
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 2015年のテロ乱射事件の跡は至る所に生々して銃痕があった。玄関を入ったところに被害に遭った人と、国旗が飾られている。また、敷地内には被害者のモザイク画もある。

被害者名と国名
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屋外では被害者のモザイク画DSC_8909 (800x533)

ショーケースには銃痕が
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扉の横の柱にも銃痕
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 チュニス郊外12kmほどのカルタゴに向かう。この町はフェニキアの王女エリッサによって紀元前814年に建設された。途中、ODAで大成建設が施工したチュニス湖運河の北側に位置するラグレット橋を渡る。チュニジアの人が日本を評価しているのはうれしい。

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   シチリアの権益をめぐりカルタゴはローマと3度のポエニ戦争を戦った。名将ハンニバルは第2次ポエニ戦争で歴史的な象によるアルプス越えを行いイタリアに進軍している。第3次ポエニ戦争では3年間の籠城戦の後、ローマのスキピオ将軍によりカルタゴは陥落した(前146年)。カルタゴの遺跡は地中海沿岸にある。かつての港は軍港が丸く、商業港工は四角く造くられている。しかし、年月とともに変形し、今は単なる池のようだ。

軍港 
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商業工
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 ローマによって破壊され焼き尽くされたカルタゴは遺跡としてはほとんど残っていない。ローマ以前の数少ないものとしてトフェ(タニト神の聖域)くらいだろう。

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  ローマ時代の社交場としてアントニウスの共同浴場がある。当時の建物は二階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プールなどが完備していた。ローマ人はつくづく風呂の好きな民族と思う。今はただ、円柱やモザイクが配された床が残る程度だ。

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  シディ・ブ・サイドを散策しダール・エル・アンナビを見学する。18世紀から20世紀の暮らしぶりがよくわかった。街全体が白の壁に青の窓で地中海を感じる街だ。

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 ビュルサの丘にサン・ルイ教会がある。1890年にフランスによって建てられた。1270年の第8回十字軍遠征に参加したフランス国王ルイ9世に捧げられたものだ。

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旅行の前半は今日まで、いよいよ明日からは後半のアルジェリアだ。




19.11.27-12.01中国江南紀行

 11月27日から5日間かけて上海、鎮江の元仕事仲間との旧交を温めるため出かけた。折角なので近くの南京、揚州、無錫、蘇州にも足を延ばした。

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鎮江
 鎮江は2001年から1年間、毎週木曜と金曜日に現地法人に出かけ、上海の会社と兼務した。水曜の夜と金曜の夜に鉄道で3時間少々かけて通った。当時はまだ新幹線が走っておらずかなりシンドイ通勤だった。定宿にしていた鎮江国際飯店は取り壊されて今はない。しかし、駅前は再開発されシェラトンホテルが営業中。隔世の感あり。ここには鎮江三山(金山、焦山、北固山)がある。中でも北固山は三国時代の劉備玄徳が孫権の妹とお見合いをしたことでも有名。また、金山は唐の時代の僧が日本に味噌の製法を伝えそれが金山寺味噌であるとのこと。
 以前勤めていた工場は市庁舎等の移転再開発ですでになくなっていた。近くにあった黒酢で有名な『恒順』の工場はひっそりと残っていた。ホテルの部屋から眺めてみると今は全く別の都市のようだ。

 新幹線で上海虹橋駅から1時間少々で鎮江に 
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 鎮江市政府庁舎(右の建物)と公園
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 鎮江はアヘン戦争終結後、天津条約で開港させられ英国租界が置かれていたことは日本ではあまり知られていない。現在も元英国領事館跡として保存されている。

 東方見聞録を書いたマルコポーロも鎮江を訪れている。古西津渡街(宋街)という古い町並みを復元し、その当時の街並みがそのまま残っている。更に年代をさかのぼれば、遣唐使の阿倍仲麻呂との縁もある。またノーベル文学賞受賞作家のパールバックは宣教師の娘として生後6か月からこの地に住み、『大地』を執筆している。パールバックの寓居も記念館として保存されており一見の価値がある。

 英国領事館跡の記念館
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 古西津渡街
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南京
 南京は北京、西安、洛陽と並ぶ中国四大古都の一つでもある。第二次大戦中の一時期は蒋介石国民党政府の首都でもあった。古くから長江流域・華南の中心地で、14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。

 陵墓中山陵は三民(民族、民権、民生)主義を唱えた革命の父孫文の陵墓である。
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  昔ながらの雰囲気が味わえる夫子廟がある。夫子廟は孔子を祭っている廟である。一般的には李香君故居、江南貢院、王導謝安紀念館など秦淮河周辺から建康路周辺の地域も夫子廟と呼ばれている。

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 明の大宗を祀った世界遺産明孝陵があり、世界遺産でもある。この一帯が山というか、緑に囲まれたエリアになっている。

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揚州
 揚州は江蘇省の中西部の温暖な河港都市である風光明媚な歴史のある町で、中国の中でも2500年に及ぶ長い歴史がある。古くから水運に恵まれ、北は准河、中部は京杭大運河、南は長江(揚子江)が悠久の流れを見せている。揚州に生まれ、日本の仏教の祖といわれる鑑真和尚など、日本との関わりも深く日本の遣唐使もこの街を通って長安に至ったとされている。余談だが、元中国国家主席の江沢民の故郷でもある。

 長江を『長江大橋』で渡り揚州に入る。やはり長江は大河で産業の大動脈だ。
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 痩西湖は清朝時代乾隆帝も数回訪れている。杭州の西湖に似ていて、形が細長いことから『痩せた西湖』と言われている。

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 痩西湖を背景に、たまたまTV局が時代劇の撮影中。中々のイケメン。
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  大明寺はあの鑑真和尚が唐代に住み、講義をしていた仏教寺院。そして住職を務めていた。現在の建物は清朝時代に再建されたものだ。奈良の唐招提寺金堂を参考にした鑑真紀念堂があり、鑑真を祀っている。唐招提寺によく似た建物や唐招提寺にある鑑真像のレプリカがあった。

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 栖霊塔は隋の時代に建てられた九層の塔。鑑真がこの寺の住職をしていたのもこの時代。しかしながら、その後、栖霊塔は唐代に火事で焼失した。宋の時代に再建された栖霊塔も明代の末期に戦乱で消失してしまうという歴史を辿った。このあたりが、交通の要衝で戦火に巻き込まれやすい揚州の地理的性格を現している。その後何百年にも渡り再建されなかった栖霊塔が再建されたのは1996年。現存する九層の栖霊塔は高さ70mあり、各階には日本から送られた国宝も含め、沢山の仏像が祭られている。
 余談だが、江沢民主席がリタイアーし、揚州に居を構えた。当時の揚州市の市長が江沢民のために急遽、塔の内部に7階までのエレベーターを設置したそうだ。おかげで20元を支払い7階の展望デックまで登り痩西湖や市内を一望することができた。  

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 栖霊塔から見た下界
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 弘法大師像
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 鑑真像
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 遣唐使船模型
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無錫
  無錫は長江下流の水郷都市だ。昔、錫が採掘されていたが、漢代には鉱脈が尽き、錫が取れなくなり地名が無錫なったという嘘のような話がある。南部は風光明媚な淡水湖・太湖が広がっている。市内には北京と杭州を結ぶ京杭運河をはじめ多くの運河が張り巡らされている。以前は公害で汚染された湖であったが、工場の強制移転や操業停止で近年は改善されたようだ。淡水真珠の養殖も盛んである。

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 無錫に『巡塘古鎮』がある。古い集落の事で、昔の集落を整備しテーマパークのようにしたものだ。雨に煙る水郷の集落を見ていると一服の水墨画の様な趣がある。

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蘇州
 蘇州は運河がめぐらされ物資の集積地として栄えた。宋代以降。退任役人らが築いた贅沢な庭園が残る。その内の9か所が蘇州古典園林として世界遺産に登録されている。中国四大刺繍に数えられる蘇州の刺繍は2000年以上の歴史がある。

 運河の向こうに虎丘を望む 
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 盤門の橋
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 蘇州は『東洋のベニス』と言われるとおり、水郷の美しい町だ。
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  蘇州最古の庭園『滄浪亭』は五代十国時の尊代、杭州に首都を置いた呉越国の役人の孫承祐が造園したとされている。その後、北宋の詩人・蘇舜欽が所有し1015年に改築し『滄浪亭』と命名。明・清時代にも再建が重ねられ、現在の姿になったとされている。

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 中国は改革開放政策で製造業、特に労働集約型産業が中心であったが、昨今はこれ等の産業も停滞を余儀なくされている。いわゆる経済学で言う『中進国の罠』である。そこで政府は産業の構造改革をはかり第二次産業から第三次産業にシフトチェンジの最中だ。
江南地方を訪れると以前に増して観光産業に力を入れている感じがする。特に環境インフラは10年前と比べ物にならないほどだ。今後は鎮江や揚州は日本でも脚光を浴びることができる観光資源の宝庫と思った。





19.08.20-09.07中国新疆・中央アジア 番外編

中国と中央アジアを隔てる天山山脈
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8月20日から9月7日にかけて中国新疆から中央アジアの国々を旅して特に感じたことを箇条書にした。

新疆ウイグル自治区について

・新疆ウイグル自治区の人口は、約2500万人。うちウイグル人は835万人。今年の7月16日のNHK国際ニュースの報道では、米国国務省の報告でウイグル人が80万人~200万人が政府により隔離され収容所(職業教育施設?)に入れられていると。そもそも『ウイグル』という言葉は現地語で、『連合・団結』という意味らしい。

・「市場があれば国家はいらない」と書いたのは藤原信也(全東洋街道)だが、これはアジアの市場が発散するエネルギーを文字にしたものだ。昨年訪れた新疆のバザールの入り口は立派なイスラム風の門がある。しかし中央のゲートは閉められている。通用口の様な入口から入ると、空港にあるようなX線検査機が置かれていて、手荷物をベルトコンベアーに載せ、その横の金属探知ゲートをくぐる。ベルトのバックルや靴にも金属が使われており、当然反応する。前で待機しているウイグル人の公安の前で両手を挙げてボディーチェックを受ける。その先で身分証明書を提示する。ウイグル人リーダーに身分証明書をかざすと、横にあるモニターに小生の顔が映し出される。その顔と本人を別の公安がチェックするシステムだ。パスポートを渡すと顔写真の照合で終わらず、公安はスマホを手にし、小生の顔を撮った。こうしてやっとバザールの中に入れる。セキュリティチェックが終わる。自然に「ふぅーッ」とため息が出る。ウイグル人がタマネギやジャガイモ一つ買うにもこのようなチェックを受けることになる。

昨春、訪れた市場入り口のセキュリティチェック
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・バザールの入り口付近に黒いヘルメットが目に留まる。その横には黒い金属製の盾があり、『防暴』という文字が記されている。公安が店一軒一軒に配置している。つまり中国政府の弾圧に反発するウイグル人のデモやテロが起きた場合、店の主人やスタッフが鎮圧の向かうための道具である。これは中国政府に対する「踏み絵」なのかもしれない。『防暴』を受け入れなければウイグル人の過激派を支持したことになるのかもしれない。そうなれば店は閉鎖されるだろう。テロを想定した鉄パイプを突く訓練があるようだが、テロに対して何の意味があるのか疑問だ。なんとなく日本の戦中に竹槍訓練を無理やりやらせた、在郷軍人を連想させる。

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・バザールや空港だけではない。レストランやホテルも例外ではなくセキュリティチェックがある。しかし、旅行者に対するチェックはおざなりな感じがする。

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・新疆ウイグル自治区は中国の民族問題の火薬庫である。2009年7月5日に新疆ウイグル自治区のウルムチで大規模な騒乱が起きた。漢民族とウイグル人の軋轢は大きい。また、2014年3月に雲南省昆明市の駅前でウイグル人が漢人を襲撃し29名の死者を出すテロ事件が発生した。

・アイヌが同化された歴史は、ウイグルと似ているかもしれない。1990年以降、中国の改革開放路線が本格化したころから漢人の経済進出進み始めた。この新しく進出してきた漢人は現地の習慣や宗教を無視し、見下し、権力をにぎった。

・中国政府は少数民族の絶滅を推進しているわけではないが、「アメ」と「ムチ」と思われる方法で支配。「アメ」は教育支援政策や貧困対策の政策推進。しかし、中華民族の価値観を一方的に押し付けているのも事実だ。「ムチ」は抵抗するものには厳罰が処せられる。

・中国政府は民族運動に警戒を強め、ウイグル人の政治エリートや知識人の拘束を進めた。1999年には、後に『世界ウイグル会議』の総裁に就任するラビア・カーディルも逮捕された。彼女はその後6年間にわたり投獄された。中国にかかわりのあるダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞したが、ラビア・カーデルも一時、候補に上がった。

・ウイグル人への国外の支援者はトルコとドイツ以外は日本だ。日本の場合は単純にウイグル人の人権のためということではなく、反中国という一点から一部の右翼勢力や新宗教団体に利用されている。そのため、何も知らないラビア・カーディルを靖国神社に連れ出し参拝させている。これは中国にとって、日本の右翼⇒軍国主義者・侵略主義者⇒アジアの敵 国家分裂主義者という分かりやすい構図になるだろう。そしてウイグル人の民族運動をテロリストという理由で弾圧の口実を与えている。

・中国のIT技術の発展の下で新疆は大量の監視カメラが配置され、顔認証機能による監視が行われている。2014年当時は大学生や公務員だけが禁じられていたモスクでの礼拝も、今は全ウイグル人が禁じられているようだ。自宅でのコーランの所持すら許されず年配層を除けば髭を生やしたり、ウイグル帽をかぶることすらままならなくなっている。新疆の域内にある『再教育』を名目にした収容所では100万人規模のウイグル人が拘束されていると報じられている。

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中央アジアについて

・中央アジアの国々は、旧ソ連時代は身も心もロシア化された。しかし、91年のソ連崩壊を機に「独立」を強いられた。ロシア系銀行の中には、預金を払い戻さない銀行もあったそうだ。中央アジアの人々は国ぐるみの詐欺にあったようなものだ。例えが悪いが結婚詐欺師が女性にたっぷり貢がせたのち振ってしまったようなものだ。

・1370年にチムールがトランスオクシアナ全域を制圧し、サマルカンドを中心に帝国を打ち立てた。彼はイラン、トルコ、アフガニスタンを征服し、中国侵攻を目前に1405年死亡。ウズベキスタンはチムールを建国の英雄と見なしているが、彼はウズベク人ではなく、また、ソ連の正史でも否定的に扱われている。チムールの銅像にはモンゴロイドを感じない。

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・中央アジアの政治文化は、強大な権力の崇拝、地域と縁故と一族を基盤とした部族主義・派閥主義である。

・中央アジアではロシア語は今でも1970年以前に生まれた世代の地域言語である。しかし、衰退の途上にある。エリート層の子女向けの新設校では英語が優先的に教えられている。看板を見てもロシアのキリル文字からローマ字表記に代わりつつある。新興国が自らの言語を使うことによりナショナリズムでまとまろうとしている感じがする。

・タジキスタンは92年に内戦が勃発したため、強大な中央政権の出現を見ることがなかった。タジキスタンは99年9月にサーマーン帝国一千年記念行事を挙行した。タジク人のナショナリズムはペルシャ語が中央アジアの文語であった時代を偲び、ペルシャ語話者の町であったサマルカンドとブハラがソ連によってウズベキスタン領とされたことを慨嘆する心情の上に立つ。タジク人は歴史の上でもウズベク人に負けてしまったという感情を抱いている。旅行中、サマルカンドのガイドは自らのアイデンティティをウズベク人と言わずタジク人と称していた。

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・玄奘は中国の長安からインドのブッダガヤ周辺にあった仏教の中心地まで3年の年月をかけた旅だ。玄奘の旅で難しいのは1400年近くの旅ということ。日本で言うと聖徳太子の時代のこと。彼が通過した国は、今は存在しない。帰路はインドのガヤからパキスタンのイスラマバードを北上しクンジュラーブ峠を越えて中国に至った。

・旅行中の昼食は道に沿った食堂で済ますことが多い。皿にはドーンと羊肉の串焼きが盛られる肉食系だ。70歳を過ぎた胃には少々きつい、できる料理はこれしかないようだ。骨付き羊肉を食らいつく姿は漫画のギャートルズそのもの。食べているうちに草食系の自分が、だんだん気性が荒々しくなるような感じがする。






















19.09.02-.07中国新疆・中央アジア旅日記 その3

 中央アジアの中でウズベキスタンの面積は日本の1.2倍、人口は3千2百万の大国である。世界遺産もシャフリサブスの歴史地区をはじめ4か所を数える。

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9月2日(月)
 今日はドシャンベのホテルから百数十km南の涅槃佛が発見されたアジナ・テべに出かける。道中は大掛かりな道路改修が行われているため3時間ほどの時間を要した。涅槃佛の発見や発掘については昨日の博物館見学で情報は入手済。

遺跡の発掘場所は金網で囲まれていた
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 アジナ・テバ遺跡は7~8世紀の仏教遺跡であり、遺構からは大型のストゥーパや菩薩像の他、全長13mに及ぶ涅槃仏像が出土している。遺跡は1959年から考古学者により調査された。アジナ・テバは古代のシルクロードの中継地点に位置し、中国、ヨーロッパ、中央アジア、インドの湾岸地域を結ぶシルクロードの要所として貿易の重要拠点となっていた。1961年に遺構が発見され、1975年まで継続して行われた調査においては、ボリス・リトヴィンスキー率いるタジキスタン科学アカデミーの歴史学者、考古学者グループが大規模な調査を行った。仏教寺院はアラブ人による侵入の後、偶像崇拝を禁止するイスラム教の教義から破壊されたと考えられている。現在日本の支援もあり日本語表記の説明も掲示されていた。

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 遺跡は単なる土くれにしか見えない。よく見ると日干し煉瓦と思われるものには藁が混じっていた。

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どこからか現れ、見学者の素性をチェックし、その後、説明してくれた少年。手持ちのボールペンをあげるとはにかんでいた。
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今日は9月2日(月)で新学期が始まったようだ。児童が生き生きしていた。
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 昼食は街道沿いの食堂で店頭の窯で焼いているサムサ(肉やタマネギを挟んだパイ)を食す。デザートは勿論スイカとメロン。
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9月3日(火)
 タジキスタンから国境を越えウズベキスタンのテルメズヘ。ウズベキスタンは世界で2か国しかない『二重内陸国』(隣国ともう1国を通過しないと海に出られない)である。もう1か国はスイスとオーストリアの国境に位置するリヒテンシュタインである。

 ウズベキスタンとの国境に行く途中、16世紀から20世紀初めのブハラ・ハン国時代の都・ク―ル要塞に立ち寄る。
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 中央アジアで,徒歩で通過する国境はいつものことながら、ポーターがいなければ、自分で緩衝地帯を、スーツケースをもって通過しなくてはならない。航空機による移動とは異なる。炎天下の中央アジアはきつい。


タジキスタン側の税関と出国審査場に向かう
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ウズベキスタン側の税関と入国審査場に向かう。
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 昨春、ウズベキスタンに入国する際は手持ちの外貨などの申告が必要だったが、今回はなかった。多分、カリモフ大統領の死で緩やかに変化したのかもしれない。

 ウズベキスタン入国後、テルメズに向かう。途中、有名な仏教遺跡ダルベルジン・テべに向かう、ここはバクトリア地方北部に小規模な要塞が作られた後、紀元前1世紀頃都市が形成され、クシャーナ朝の時代に発展を遂げ、行政地域、居住地域、窯業などの産業地域、仏教寺院などが建設された。遺跡の住居からは金のネックレスなど多くの金製品が発見されている。3世紀頃には都市として衰退した。

 実際、遺跡を見学したが、掲示板もないし、ここが遺跡の現場かどうかは、わかりにくい場所だった。しいて言えば、発掘予定現場が金網で囲われていたことぐらいだろう。これも羊の放牧で荒らされないためのものと思われる。

クシャ―ン朝の仏教遺跡の表示、これがなければただの土くれ。
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9月4日(水)
 今日は1日テルメズの観光で過ごす。先ず、キル・キズ・サライに向かう。「キル・キズ・サライ」とは「40人の女性の宮殿」という意味らしい。宮殿は神学校の意味もあるという。実際に遺跡を見学すると、我々以外に観光客はだれも居ない。

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 その次は、スルタン・サオダット廟群を見学。サオダットという聖人の廟であり、その周りに彼のそばで眠りたいという人達の墓がある。因みにサオダットとはアラビア語で『幸せ』という意味らしい。建物中にはお墓がびっしりと並んでいた。

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 そして、その次のズルマラ遺跡は『仏塔』で有名な遺跡だ、しかし、畑の中にあり、たどり着くための道がない。畑の中に入るには農民の許可が必要と思われるので、遠くから眺めて我慢する。

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 仏教遺跡フィヤズ・テべとカラ・テべに向かう。ウズベキスタンにインドから仏教が伝わったのはクシャーナ朝時代の紀元後1世紀頃と推定されている。フィヤズ・テべはタシュケントの博物館に所蔵されている釈迦三尊像が発見された有名な仏教遺跡だ。こちらは単なる土くれでなく明らかにストーパ―の跡のようなドームがあった。ドームの中には入ることができ一周することができた。


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 鉄条網のの向こうはアフガニスタンとの緩衝地帯
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この穴からストーパ―の中に入る。
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ストーパ―内部の天井
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釈迦三尊像が発見された龕らしきもの  
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 フィヤズ・テべから直線で1kmほどの所にカラ・テべ遺跡がある。軍隊管理地区で現在発掘中であるが、だれも居ないので勝手に見学。フィヤズ・テべもカラ・テべも唐の時代は栄えていたので玄奘三蔵はここを経由したと考えられる。

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 カラ・テべ遺跡の直ぐそばは有刺鉄線で囲われている国境の緩衝地帯である。その向こうには中央アジアの大河アム・ダリア川が流れている。川の対岸はアフガニスタン・イスラム共和国だ。遠くには監視塔らしき塔が、しかし、あまり緊張感はない。

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 ハキ―ム・アルテミズ廟はスルタン・サオダット廟群と同様に聖人の廟である。こちらの方が敷地も広くお参りに訪れる人も多かった。また、瞑想のための洞窟もいくつかあった。

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石碑の下(地下)に棺がある
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瞑想のための洞窟
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 最期にテルメズの考古学博物館を訪れる。展示物はこの地域で出土したものが中心だ、しかしオリジナルはタシュケントの博物館に所蔵されている。

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9月5日(木)
 テルメズから450km先のサマルカンドへ。途中、テルメズから西に20km離れたカンプィルテバは、古代においてインドと中央アジア・バクトリアを結ぶルートがアムダリヤ川を越える地点に造られた要塞都市だ。

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 その後、世界遺産シャフリサブスに向かう。途中、アレキサンダー大王が通ったといわれる『鉄の門』を道路から眺める。山脈が入込んだ幅10m程度の切通だ。当然、玄奘三蔵も通ったと追われる。

 写真では判別しづらいが、家の奥に切通状の地形がある
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シャフリサブスはチムール生誕の地と言われている。ここには世界遺産の『ドルディロバット遺跡群、ドルッサオダット遺跡群、アク・サライ』がある。

 ドルディロバット遺跡群は『瞑想の家』と呼ばれるチムールゆかりの建築群だ。これは孫のウルグベクによって建設されたものだ。

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 ドルサオダット遺跡群にはチムールの息子で22歳で戦死した長男のために建てたジャハンギ―ル廟があるが、半ば崩れかかったような建物だ。建物の中には墓石がある。

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 アク・サライは1380年に着工され、チムールの死後1405年まで建設が続いた。アク・サライとは『白い宮殿』という意味らしい。現在のアーチの高さは38m、壊れる前は50m以上の高さがあった。この入り口のアーチの南には大理石が敷き詰められた中庭がある。

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9月6日(金)
 サマルカンドから300km先のタシュケントへ。そして大韓航空942便(21:20発)でソウルへ。時間があまりない中、午前中にサマルカンドを大急ぎで重点的に回る。一応、昨春もこのサマルカンドは訪れており3度の観光。

 サマルカンドの定番、レギスタン広場は前日にイベントがあったらしく取り片付け中。
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 イスラム世界で最大級の規模を誇るビビハニム・モスク。インド遠征から帰還したチムールが建設を決意して建てたモスク。様々な伝説がある。

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 アフラシャブ博物館に立ち寄る。アレキサンダー大王時代のコインやゾロアスター教の祭壇などがある。しかしこの博物館の目玉は、7世紀の領主の宮殿から発見されたフレスコの壁画だろう。色鮮やかで、当時の様子がありありと表現されている。

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タシュケントに行く途上、ゼラフシャン川を渡る。
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更にシルダリア川を渡る。
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 いつもことだが、街道沿いでメロンで水分補給。ついで子供の写真をパチリ。
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9月7日(土)
 台風13号が7日朝鮮半島に上陸するとのニュースに神経をとがらせる。何度も航空会社に連絡しフライトを確認。タシュケントを6日の21:10発の便で無事ソウル7:45到着。6時間半のフライト。時計を4時間進め時差を調節。大韓航空703便(10:10発)で成田へ。台風15号は当初より進行が遅いようで無事に12:30成田到着できた。




 今回の旅行は初めてのタジキスタンを延べ1週間滞在した。タジキスタンは1991年ソ連崩壊と同時に独立したが、その後5年間、内戦が続いた。そしてようやく平和が訪れたようだ。しかし、今年の5月19日に首都のドシャンベの刑務所で暴動が発生し、イスラム過激派『イスラム国IS』の戦闘員24名と看守3人を含む32人が死亡したとAFP通信が伝えている。やはり完全に治安が安定するのはもう少し後かもしれない。

・今回訪れた中央アジアの国々はキルギス、カザフスタン、ウズベキスタンとタジキスタンである。これらの国の人口などは2017年の数字。
 キルギス   国土面積は約20万㎢(日本の半分) 人口612万人
 カザフスタン  国土面積は約272万㎢(日本の7.2倍) 人口1804万人
 ウズベキスタン 国土面積は約45万㎢(日本の1.2倍) 人口3212万人
 タジキスタン  国土面積は14万㎢(日本の40%) 人口848万人


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