20.02.21円覚寺探訪

20.02.21円覚寺探訪

 今日は久しぶりにNPO法人「鎌倉ガイド協会」の福島氏と北鎌倉の円覚寺を梅の香を堪能しながらめぐる。

 円覚寺は鎌倉五山第二位の寺で「山号・寺号」は瑞鹿山円覚寺興聖禅寺という。「宗派」は臨済宗円覚寺派本山、「創建」は弘安5年、「開山」は無学祖元、「開基」は北条時宗(第8代執権)、「本尊」は宝冠釈迦如来である。北条時宗(1251~1284)が、文永(1274)及び弘安(1281)の、2度の元との戦いで戦死した敵味方の兵士たちの菩提を弔うために建立。時宗は33歳で没しているが、それにしても短命だ。きっと元との戦いのプレッシャーでストレスによる死である(あくまでも私見)。
 
 円覚寺の前(元は寺領)をJR横須賀線が通る
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 石段の向こうは総門
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 総門には「瑞鹿山」の額字
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 山門には伏見上皇の「円覚寺興聖禅寺」の額字
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 山門をくぐり直進すると【仏殿】(大光明宝殿)がある。円覚寺の御本尊(宝冠釈迦如来坐像)が祀られている建物だ。関東大震災(大正12年)に倒壊。昭和39年に再建した。禅寺の特徴である軒下の垂木は、下層は並行、上層は放射状(扇子の骨状)に広がっている。

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 宝冠釈迦如来坐像  
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 仏殿の天井には龍が描かれている
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 右は無学祖元、左は達磨大師
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 仏殿から参道を挟み西側には【選仏場】がある。選仏場とは、字の通り仏を選び出す場所という意味で、修行僧の座禅道場である。ここには雲慶派の作品と言われる薬師如来が安置されている。その右横には聖観音菩薩が、柔らかく力を抜いてリラックスしているような姿で安置されている。この堂は元禄12年(1699)伊勢長島城主・松平忠充が建立したものだ。屋根は茅葺でなかなか趣がある建物。

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 選仏場の横から【龍隠庵】に登ると円覚寺の山門から方丈に至る大伽藍が眼下に眺めることができた。そして足元には春を告げる福寿草が生えていた。

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 龍隠庵のすぐ下には【居士林】がある。ここは在家修行者のための専用道場である。『居士』とは一般在家の禅の修行者を指す。広く一般の人に解放された各種座禅会などが行われている。 

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 居士林から元の参道に戻り直進すると大方丈に当たる。方丈は本来住職の居間であるが、現在は各種法要、座禅会、説教、や講習会などが行われている。

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 大方丈より更に道なりに直進すると左側に【舎利殿】がある。第3代将軍実朝(1192~1219)が中国宋より請来した「仏舎利」収めていることから舎利殿の名がついた。舎利殿そのものは重要文化財で立ち入り禁止となっている。遠くから写真を撮るが結果は、よくわからない。

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 舎利殿から仏日庵に行く途中に【烟足軒】という茶室があるが、ここは川端康成の小説「千羽鶴」の舞台となったところである。また、その茶室の対面には無学和尚が説教をした折にその説教を聞きに鹿がやってきたという、鹿の住処である洞窟があった(少々フィクション臭い)。円覚寺の山号・寺号である瑞鹿山円覚寺興聖禅寺はここから来たそうだ。

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 円覚寺の参道の一番奥にある塔頭の【黄梅院】は、「山号・寺号」は伝衣山黄梅院。「創建」は文和3年(1354)、「開山」は方外宏遠、「開基」は饗庭氏直、「本尊」は千手観音菩薩である。黄梅院は北条時宗夫人・覚山尼が時宗の菩提のため建立した。境内の老梅が臥龍の様に立ち、老大木にはラン科の石斛が見られた。 山門の額字はチョット読めない。しかし、よく見ると「黄」、「?」、「院」と読める。「?」は「ウメ」の字を「毎」の下に「木」を配しているようだ。梅の字でこんな字があるのかどうかは不明。これも禅宗の問答の一種か。

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 最後に塔頭の【帰源院】に立ち寄る。ここは「創建」は天授4年(1378)、「開山」は傑翁是英、「中興開基」は北条氏康、「本尊」は傑翁是英とのこと。ここは夏目漱石が参禅し逗留したことで有名。夏目漱石は、円覚寺の釈宗円に参禅し帰源院の庫裏に宿泊、小説『門』の中で境内の塾などを描写している。また、梅の香る境内には、現住職の祖父とも親交があり、その縁で昭和37年に漱石の句碑『仏性は白き桔梗にこそあらめ』が建てられていた。

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 漱石の時代の参道は苔むしていた。今は別の参道を使用。
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  通常は帰源院の一般公開はないが、特別にガイド協会の尽力で実現した。今日はこれで大満足の一日。




19.11.27-12.01中国江南紀行

 11月27日から5日間かけて上海、鎮江の元仕事仲間との旧交を温めるため出かけた。折角なので近くの南京、揚州、無錫、蘇州にも足を延ばした。

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鎮江
 鎮江は2001年から1年間、毎週木曜と金曜日に現地法人に出かけ、上海の会社と兼務した。水曜の夜と金曜の夜に鉄道で3時間少々かけて通った。当時はまだ新幹線が走っておらずかなりシンドイ通勤だった。定宿にしていた鎮江国際飯店は取り壊されて今はない。しかし、駅前は再開発されシェラトンホテルが営業中。隔世の感あり。ここには鎮江三山(金山、焦山、北固山)がある。中でも北固山は三国時代の劉備玄徳が孫権の妹とお見合いをしたことでも有名。また、金山は唐の時代の僧が日本に味噌の製法を伝えそれが金山寺味噌であるとのこと。
 以前勤めていた工場は市庁舎等の移転再開発ですでになくなっていた。近くにあった黒酢で有名な『恒順』の工場はひっそりと残っていた。ホテルの部屋から眺めてみると今は全く別の都市のようだ。

 新幹線で上海虹橋駅から1時間少々で鎮江に 
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 鎮江市政府庁舎(右の建物)と公園
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 鎮江はアヘン戦争終結後、天津条約で開港させられ英国租界が置かれていたことは日本ではあまり知られていない。現在も元英国領事館跡として保存されている。

 東方見聞録を書いたマルコポーロも鎮江を訪れている。古西津渡街(宋街)という古い町並みを復元し、その当時の街並みがそのまま残っている。更に年代をさかのぼれば、遣唐使の阿倍仲麻呂との縁もある。またノーベル文学賞受賞作家のパールバックは宣教師の娘として生後6か月からこの地に住み、『大地』を執筆している。パールバックの寓居も記念館として保存されており一見の価値がある。

 英国領事館跡の記念館
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 古西津渡街
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南京
 南京は北京、西安、洛陽と並ぶ中国四大古都の一つでもある。第二次大戦中の一時期は蒋介石国民党政府の首都でもあった。古くから長江流域・華南の中心地で、14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。

 陵墓中山陵は三民(民族、民権、民生)主義を唱えた革命の父孫文の陵墓である。
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  昔ながらの雰囲気が味わえる夫子廟がある。夫子廟は孔子を祭っている廟である。一般的には李香君故居、江南貢院、王導謝安紀念館など秦淮河周辺から建康路周辺の地域も夫子廟と呼ばれている。

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 明の大宗を祀った世界遺産明孝陵があり、世界遺産でもある。この一帯が山というか、緑に囲まれたエリアになっている。

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揚州
 揚州は江蘇省の中西部の温暖な河港都市である風光明媚な歴史のある町で、中国の中でも2500年に及ぶ長い歴史がある。古くから水運に恵まれ、北は准河、中部は京杭大運河、南は長江(揚子江)が悠久の流れを見せている。揚州に生まれ、日本の仏教の祖といわれる鑑真和尚など、日本との関わりも深く日本の遣唐使もこの街を通って長安に至ったとされている。余談だが、元中国国家主席の江沢民の故郷でもある。

 長江を『長江大橋』で渡り揚州に入る。やはり長江は大河で産業の大動脈だ。
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 痩西湖は清朝時代乾隆帝も数回訪れている。杭州の西湖に似ていて、形が細長いことから『痩せた西湖』と言われている。

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 痩西湖を背景に、たまたまTV局が時代劇の撮影中。中々のイケメン。
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  大明寺はあの鑑真和尚が唐代に住み、講義をしていた仏教寺院。そして住職を務めていた。現在の建物は清朝時代に再建されたものだ。奈良の唐招提寺金堂を参考にした鑑真紀念堂があり、鑑真を祀っている。唐招提寺によく似た建物や唐招提寺にある鑑真像のレプリカがあった。

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 栖霊塔は隋の時代に建てられた九層の塔。鑑真がこの寺の住職をしていたのもこの時代。しかしながら、その後、栖霊塔は唐代に火事で焼失した。宋の時代に再建された栖霊塔も明代の末期に戦乱で消失してしまうという歴史を辿った。このあたりが、交通の要衝で戦火に巻き込まれやすい揚州の地理的性格を現している。その後何百年にも渡り再建されなかった栖霊塔が再建されたのは1996年。現存する九層の栖霊塔は高さ70mあり、各階には日本から送られた国宝も含め、沢山の仏像が祭られている。
 余談だが、江沢民主席がリタイアーし、揚州に居を構えた。当時の揚州市の市長が江沢民のために急遽、塔の内部に7階までのエレベーターを設置したそうだ。おかげで20元を支払い7階の展望デックまで登り痩西湖や市内を一望することができた。  

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 栖霊塔から見た下界
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 弘法大師像
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 鑑真像
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 遣唐使船模型
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無錫
  無錫は長江下流の水郷都市だ。昔、錫が採掘されていたが、漢代には鉱脈が尽き、錫が取れなくなり地名が無錫なったという嘘のような話がある。南部は風光明媚な淡水湖・太湖が広がっている。市内には北京と杭州を結ぶ京杭運河をはじめ多くの運河が張り巡らされている。以前は公害で汚染された湖であったが、工場の強制移転や操業停止で近年は改善されたようだ。淡水真珠の養殖も盛んである。

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 無錫に『巡塘古鎮』がある。古い集落の事で、昔の集落を整備しテーマパークのようにしたものだ。雨に煙る水郷の集落を見ていると一服の水墨画の様な趣がある。

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蘇州
 蘇州は運河がめぐらされ物資の集積地として栄えた。宋代以降。退任役人らが築いた贅沢な庭園が残る。その内の9か所が蘇州古典園林として世界遺産に登録されている。中国四大刺繍に数えられる蘇州の刺繍は2000年以上の歴史がある。

 運河の向こうに虎丘を望む 
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 盤門の橋
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 蘇州は『東洋のベニス』と言われるとおり、水郷の美しい町だ。
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  蘇州最古の庭園『滄浪亭』は五代十国時の尊代、杭州に首都を置いた呉越国の役人の孫承祐が造園したとされている。その後、北宋の詩人・蘇舜欽が所有し1015年に改築し『滄浪亭』と命名。明・清時代にも再建が重ねられ、現在の姿になったとされている。

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 中国は改革開放政策で製造業、特に労働集約型産業が中心であったが、昨今はこれ等の産業も停滞を余儀なくされている。いわゆる経済学で言う『中進国の罠』である。そこで政府は産業の構造改革をはかり第二次産業から第三次産業にシフトチェンジの最中だ。
江南地方を訪れると以前に増して観光産業に力を入れている感じがする。特に環境インフラは10年前と比べ物にならないほどだ。今後は鎮江や揚州は日本でも脚光を浴びることができる観光資源の宝庫と思った。





19.10.31鎌倉文学館特別展

 鎌倉文学館で『オリンピックと文学者』というテーマの特別展が開催されているので出かけてみる。

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 文学館へのアプローチ
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 文学館
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 1896年に第1回アテネ大会が開催された。1900年のパリ大会を目にしたかもしれない夏目漱石、1932年、ロスアンジェルス大会に参加し小説を書いた田中秀光、1936年、ベルリン大会を取材した武者小路実篤。そして1964年、アジア初の東京大会は、多くの文学者が観戦しペンをとった。

 修学旅行と思われる中学生が大勢入館していたので、ゆっくり展示内容を見ることができなく、残念だった。

 前列左から2番目が夏目漱石 ボート部
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 正岡子規 野球部
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 日本マラソンの父として、NHK大河ドラマ『いだてん』のモデルとなった金栗昭三は文学者ではないが、彼がストックホルム大会で履いた足袋の新聞宣伝広告(昭和23年)が展示されていた。驚いたことに当時はスニーカーではなく地下足袋であった。

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 館内をざっと見たのち、付属のばら園を覗いてみる。やはり秋の花は春よりも小ぶりな感じがした。
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19.10.22-24東北紅葉観光

 久しぶりに2泊3日のスケジュールで東北地方の紅葉見物に出かけた。出発の22日は台風20号(後に温帯低気圧)の影響で早朝から大雨。また、東京都内は『即位の礼』で厳戒態勢だった。

 雨の中霞む紅葉。
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 先ず、山形県の山寺こと立石寺を訪れる。ここは松尾芭蕉の奥の細道で『閑さや巌にしみ入る蝉の声』で有名なお寺だ。山寺の入り口に『登山口』と書かれている。拝観より登山が似つかわしい。奥の院まで1015段の石段が待っている。

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 立石寺は松尾芭蕉の奥の細道がなければこんなにメジャーなお寺にならなかったのではと感じた。その感謝のためか、『せみ塚』や芭蕉と曾良の像があった。

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 雨の中、奥の院を目指すと風景はさながら墨絵の様な感じがする。

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  山寺を後にし、近くの天童で宿泊。天童は将棋の町と温泉で有名。ホテルで濡れた衣服を乾かし温泉に浸かる。


 二日目は昨日の天気が嘘のように快晴となった。そして最上川に出かけ、川下りを体験。最上川も芭蕉の『五月雨を集めて早し最上川』で有名だ。奥の細道の解説書によれば、当初は『五月雨を集めて涼し最上川』であったらしいが、芭蕉自ら船に乗り『早し最上川』に変更したらしい。たまたま小生が乗船した時も台風豪雨の影響で『大雨を集めて早し最上川』を実感。

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 川下りの後、大正ロマンあふれる銀山温泉を訪れる。最上川も銀山温泉もNHKの朝ドラ『おしん』で有名。残念ながら朝ドラを見ない小生はあまりピンとこなかったが。銀山温泉そのものは湯治客用なのか、観光地としての賑わいや猥雑さはなかった。中々好ましい。

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 銀山温泉の奥に流れる『白糸の滝』
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 銀山温泉を後にし、東北地方が誇る紅葉の名所、鳴子峡に向かう。ここはさすがに観光客が大勢来ていた。京都の嵐山同様、平坦な場所でなく渓谷なので高低差があり、上から眺めて良し、下から見上げてもよしの様々な紅葉が見物できる。

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 JR陸羽東線の鳴子温泉駅から赤倉温泉に向かう。赤倉温泉駅は半世紀以上前にスキーで訪れたことがあったが、全く記憶は残っていなかった。

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 最終日はロープウェイで空中から蔵王の紅葉を見物することに。山頂の鳥兜駅に着いた時は多分10℃を下回っていたと思われる。思わず寒さに震えた。

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 蔵王で折角なのでロープウェイ近くの温泉に入る。硫黄弱酸性ということでぬるぬるして少し硫黄臭がする。冷えた体には気持ちがよかった。


 今回の旅行で肝心の紅葉は、鳴子峡は今が見ごろ、また蔵王は山頂付近は終わっている感じがした。東北地方は温泉が多く、大浴場の湯船につかると思わず『ア~、ウ~』と奇声を発しご機嫌の3日間だった。


19.08.20-09.07中国新疆・中央アジア 番外編

中国と中央アジアを隔てる天山山脈
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8月20日から9月7日にかけて中国新疆から中央アジアの国々を旅して特に感じたことを箇条書にした。

新疆ウイグル自治区について

・新疆ウイグル自治区の人口は、約2500万人。うちウイグル人は835万人。今年の7月16日のNHK国際ニュースの報道では、米国国務省の報告でウイグル人が80万人~200万人が政府により隔離され収容所(職業教育施設?)に入れられていると。そもそも『ウイグル』という言葉は現地語で、『連合・団結』という意味らしい。

・「市場があれば国家はいらない」と書いたのは藤原信也(全東洋街道)だが、これはアジアの市場が発散するエネルギーを文字にしたものだ。昨年訪れた新疆のバザールの入り口は立派なイスラム風の門がある。しかし中央のゲートは閉められている。通用口の様な入口から入ると、空港にあるようなX線検査機が置かれていて、手荷物をベルトコンベアーに載せ、その横の金属探知ゲートをくぐる。ベルトのバックルや靴にも金属が使われており、当然反応する。前で待機しているウイグル人の公安の前で両手を挙げてボディーチェックを受ける。その先で身分証明書を提示する。ウイグル人リーダーに身分証明書をかざすと、横にあるモニターに小生の顔が映し出される。その顔と本人を別の公安がチェックするシステムだ。パスポートを渡すと顔写真の照合で終わらず、公安はスマホを手にし、小生の顔を撮った。こうしてやっとバザールの中に入れる。セキュリティチェックが終わる。自然に「ふぅーッ」とため息が出る。ウイグル人がタマネギやジャガイモ一つ買うにもこのようなチェックを受けることになる。

昨春、訪れた市場入り口のセキュリティチェック
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・バザールの入り口付近に黒いヘルメットが目に留まる。その横には黒い金属製の盾があり、『防暴』という文字が記されている。公安が店一軒一軒に配置している。つまり中国政府の弾圧に反発するウイグル人のデモやテロが起きた場合、店の主人やスタッフが鎮圧の向かうための道具である。これは中国政府に対する「踏み絵」なのかもしれない。『防暴』を受け入れなければウイグル人の過激派を支持したことになるのかもしれない。そうなれば店は閉鎖されるだろう。テロを想定した鉄パイプを突く訓練があるようだが、テロに対して何の意味があるのか疑問だ。なんとなく日本の戦中に竹槍訓練を無理やりやらせた、在郷軍人を連想させる。

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・バザールや空港だけではない。レストランやホテルも例外ではなくセキュリティチェックがある。しかし、旅行者に対するチェックはおざなりな感じがする。

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・新疆ウイグル自治区は中国の民族問題の火薬庫である。2009年7月5日に新疆ウイグル自治区のウルムチで大規模な騒乱が起きた。漢民族とウイグル人の軋轢は大きい。また、2014年3月に雲南省昆明市の駅前でウイグル人が漢人を襲撃し29名の死者を出すテロ事件が発生した。

・アイヌが同化された歴史は、ウイグルと似ているかもしれない。1990年以降、中国の改革開放路線が本格化したころから漢人の経済進出進み始めた。この新しく進出してきた漢人は現地の習慣や宗教を無視し、見下し、権力をにぎった。

・中国政府は少数民族の絶滅を推進しているわけではないが、「アメ」と「ムチ」と思われる方法で支配。「アメ」は教育支援政策や貧困対策の政策推進。しかし、中華民族の価値観を一方的に押し付けているのも事実だ。「ムチ」は抵抗するものには厳罰が処せられる。

・中国政府は民族運動に警戒を強め、ウイグル人の政治エリートや知識人の拘束を進めた。1999年には、後に『世界ウイグル会議』の総裁に就任するラビア・カーディルも逮捕された。彼女はその後6年間にわたり投獄された。中国にかかわりのあるダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞したが、ラビア・カーデルも一時、候補に上がった。

・ウイグル人への国外の支援者はトルコとドイツ以外は日本だ。日本の場合は単純にウイグル人の人権のためということではなく、反中国という一点から一部の右翼勢力や新宗教団体に利用されている。そのため、何も知らないラビア・カーディルを靖国神社に連れ出し参拝させている。これは中国にとって、日本の右翼⇒軍国主義者・侵略主義者⇒アジアの敵 国家分裂主義者という分かりやすい構図になるだろう。そしてウイグル人の民族運動をテロリストという理由で弾圧の口実を与えている。

・中国のIT技術の発展の下で新疆は大量の監視カメラが配置され、顔認証機能による監視が行われている。2014年当時は大学生や公務員だけが禁じられていたモスクでの礼拝も、今は全ウイグル人が禁じられているようだ。自宅でのコーランの所持すら許されず年配層を除けば髭を生やしたり、ウイグル帽をかぶることすらままならなくなっている。新疆の域内にある『再教育』を名目にした収容所では100万人規模のウイグル人が拘束されていると報じられている。

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中央アジアについて

・中央アジアの国々は、旧ソ連時代は身も心もロシア化された。しかし、91年のソ連崩壊を機に「独立」を強いられた。ロシア系銀行の中には、預金を払い戻さない銀行もあったそうだ。中央アジアの人々は国ぐるみの詐欺にあったようなものだ。例えが悪いが結婚詐欺師が女性にたっぷり貢がせたのち振ってしまったようなものだ。

・1370年にチムールがトランスオクシアナ全域を制圧し、サマルカンドを中心に帝国を打ち立てた。彼はイラン、トルコ、アフガニスタンを征服し、中国侵攻を目前に1405年死亡。ウズベキスタンはチムールを建国の英雄と見なしているが、彼はウズベク人ではなく、また、ソ連の正史でも否定的に扱われている。チムールの銅像にはモンゴロイドを感じない。

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・中央アジアの政治文化は、強大な権力の崇拝、地域と縁故と一族を基盤とした部族主義・派閥主義である。

・中央アジアではロシア語は今でも1970年以前に生まれた世代の地域言語である。しかし、衰退の途上にある。エリート層の子女向けの新設校では英語が優先的に教えられている。看板を見てもロシアのキリル文字からローマ字表記に代わりつつある。新興国が自らの言語を使うことによりナショナリズムでまとまろうとしている感じがする。

・タジキスタンは92年に内戦が勃発したため、強大な中央政権の出現を見ることがなかった。タジキスタンは99年9月にサーマーン帝国一千年記念行事を挙行した。タジク人のナショナリズムはペルシャ語が中央アジアの文語であった時代を偲び、ペルシャ語話者の町であったサマルカンドとブハラがソ連によってウズベキスタン領とされたことを慨嘆する心情の上に立つ。タジク人は歴史の上でもウズベク人に負けてしまったという感情を抱いている。旅行中、サマルカンドのガイドは自らのアイデンティティをウズベク人と言わずタジク人と称していた。

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・玄奘は中国の長安からインドのブッダガヤ周辺にあった仏教の中心地まで3年の年月をかけた旅だ。玄奘の旅で難しいのは1400年近くの旅ということ。日本で言うと聖徳太子の時代のこと。彼が通過した国は、今は存在しない。帰路はインドのガヤからパキスタンのイスラマバードを北上しクンジュラーブ峠を越えて中国に至った。

・旅行中の昼食は道に沿った食堂で済ますことが多い。皿にはドーンと羊肉の串焼きが盛られる肉食系だ。70歳を過ぎた胃には少々きつい、できる料理はこれしかないようだ。骨付き羊肉を食らいつく姿は漫画のギャートルズそのもの。食べているうちに草食系の自分が、だんだん気性が荒々しくなるような感じがする。






















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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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