17.10.08犬の里親探し

今日は3連休の中日。陽気が1か月ほど前に戻った感じだ。犬の殺処分ゼロを目指すNPO法人の催しを覗きに由比ガ浜の緑地公園に出かけた。

今回エントリーしている犬は23匹
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意外に感じたのは愛玩用の小型犬が少なかったことだ。それに引き換え中型犬や大型犬が飼育放棄されるようだ。
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此処にいる犬はボランティアの人が一生懸命に躾をしたためなのか、結構お利口で行儀がよい。散歩がてら見に来た人が連れている犬の方が我が儘で行儀が悪く吠えたりしている。切なそうな目で、こちらを見られると連れて帰ってやりたいと思うが、心の中は理性が60%、衝動が40%で踏みとどまる。里親が決まるのは、年齢が若いこととイケメンやカワイイ系の犬なのだろう。性格がいいのは飼ってからわかることなので、どうしても外観が大事と思う。
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此処では珍しく愛玩用の小型犬
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里親探しと同時に行われているフリーマーケットでは犬用の衣装が販売されている。サイズはS、M、Lではなく極小、小型、中型、大型となっていた。
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会場から海の方を眺めるとサーフィンの競技やヨットレースが行われているようだった。
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17.09.19-28バルト諸国・雑感

【バルトの人達】
 『バルト』という言葉の言語の語源について定説はなく、一説ではラテン語の『端、果て』を意味するものと、バルト語の『白い地』を意味するものがあるそうだ。そして、『バルト』は言語学的にはインド・ヨーロッパ語族に属するバルト語派からきている。エストニア語はフィンランド語やハンガリー語と同じウラル・アルタイ語族である。

エストニアの国際列車

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バルト海のクルーズ船

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バルト3国は1990年代に独立を果たすが、それまで社会主義国であったため、同じヨーロッパでも、イタリアやスペインの様な陽気なラテン系の国と違い、口が重く愛想がない感じがする。然し、人権や弱者に対する感情は優しい。そして、将来を託す子供たちは非常に大事に育てられている感じがした。

フィンランドとラトビアの街で見かけた保育園児たち。

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ヴィリニュスの歩行者天国の遊具で遊ぶ子供たち(平日の夕刻)

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同じくピリュニュスで青少年用の屋外施設

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【独立に対する思い】
1988年エストニアの首都タリン郊外の音楽堂には25万人以上の人々が集まり、自由や独立の回復を求めるスローガンで埋まった。武力による抵抗でなく、「歌と共に闘う革命」として有名。

エストニアのタリンにある『歌と踊りの祭典』会場、下はポスターの写真

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1989年、リトアニアのヴィリニュスにからエストニアのタリンまで200万人の人間が手をつなぎ、『人間の鎖』としてロシアに対し独立の示威運動を実施した。この運動は西側諸国に好感をもって評価され支持された。ロシアも無視することができなかったようだ。

リトアニアのヴィリニュスの道路上にある『人間の鎖』のモニュメント。ヴスリニュス~リガ~タリンまでと表示されている。

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バルト3国は嘗てソ連の構成国だったが、ソ連崩壊後にそろって独立した。その後制限された状況下でNATO入りを果たした。1932年に無力だったドイツが、1941年モスクワの戸口に辿りつついたのを、ロシアは目の当たりにしている。ポーランドとバルト3国が加盟したことで、NATOの境界はロシアの心臓部にかつてないほど近づいた。従いロシアにも地政学的な脅威がある。エストニア国境からロシアのサンクトペテルブルクまでの距離は100km程度である。東欧諸国のNATO加盟以前は、ドイツ国境からモスクワまでは1500km以上あった。 
 2017年8月15日の日経新聞夕刊によると『バルト3国 母も脅威に備え』というタイトルの記事が出ていた。民間の予備軍組織(パラミリタリー)の活動が盛んになっているとのこと。隣国ロシアによるウクライナ侵攻を機に危機感が強まり、女性による志願者が膨らんでいるそうだ。『誰もがスキルを身につけ有事に備えよう』ということだ。例えばエストニアは人口130万人で総兵力は6千人足らず。予備軍組織は女性2400人を含む、2万6千人を抱える。
 こちらも15日の日経新聞の記事だが、9月14日、ロシアはカリニングラードとベラルーシで10万人規模の軍事演習を開始した。冷戦後最大の規模であり、NATO加盟国や西側諸国に対する威嚇だ。ロシアの発表では防衛を目的とした軍事演習とのこと。然し、バルト諸国の小国にとってはもし、このままロシア軍が駐留を続ければ脅威である。まさに小国の悲哀である。
 旧ソ連邦を構成していた東側諸国で独立を果たした国の国民はロシアに対して総じて良い印象を持っておらず、脅威を感じているように思う。

【各国の生活】
フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアの4か国の通貨は全てユーロだ。そのため、物価の比較は簡単であった。フィンランドを除けばバルト3国はあまり変わらないと思うが、若干、南の国に行くほど安くなっていく様な気がした。

1.5Lと5Lのペットボトルの水は、€0.29、€0.49であった。また、1Lと1.5L の向日葵サラダ油は€2.69、€3.99であった (バルト3国はほとんど同じようだ)。

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ガソリンはフィンランドがリッター€1.339でその他3国は€1.02であった。

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もちろん物価は各国の付加価値税が反映されているが、レシートを見る限り 各国20%程度の付加価値税を課していた。
公共交通機関は、エストニアは1日券€3、ラトビアは1回券€1.15、ヘルシンキは24時間券€9であった。
バルト諸国は自由に国境を行き来できるので商品の価格差が大きければ当然、買出しに行くため、価格は収斂され平準化するのだろう。そういえばタリンからヘルシンキに向かうフェリーには缶ビールの箱を担いだ人が大勢いた。

【日本のシンドラー】
エストニアは19世紀から20世紀にかけて、人口が16万人であったが、そのうち7~8万人がユダヤ人で『北のエルサレム』と呼ばれるほどであった。リトアニアのカウナスで日本のシンドラーと言われた杉原領事を顕彰する杉原記念館がある。第二次大戦中に本国の指示に背いてユダヤ人に日本通過ビザを発給し、多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝領事を称えたものである。戦後永らく、外務省から除籍処分されていた。イスラエルから何度も杉原領事に対する問い合わせがあったが、そんな職員はいなかったと回答していたそうだ。然し執拗に問い合わせがあったため、隠しおおせなくなり、存在を認めた。その後は杉原領事に対する評価が「日本のシンドラー」と世界的に高まり、外務省は遅ればせながら彼の名誉を回復した。何をか言わんやだ。

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ちょうど76年前の1941年9月23日からナチスによるユダヤ人のポーランドへの連行がここから始まったそうだ。正にその9月23日にヴィリニュスを観光していると城の丘の上にあるゲディミナス塔に半旗が掲げられていた。

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【その他】
・バルト3国で『ヤクザ』という寿司チェーンの店があった。よく聞いてみると日本人の経営でなく、どうもジョージア人が経営しているらしい。タルトウとリガで偶然見つけたのだが、ひょっとしたらもっと多くの店を出店しているかもしれない。生活が豊かになると変わった店での食事が新鮮なのだろう。また、リガのスーパーでは持ち帰りの寿司が販売されていた。日本食が世界文化遺産となったためかもしれない。

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・日本ではバルト諸国は馴染みのない国だが、かの国の人達は日本に対し、非常に好感を持っているようだ。バルト諸国の歴史を見るとロシアの支配を受け、かなりひどい仕打ちを受けた。極東の小国日本が日露戦争に勝利したことは奇跡が起こったような気がしたのではと思う。トルコもそうだが日露戦争の勝利や第二次世界大戦敗戦後の復興などからか、日本に対する好意につながっているのかもしれない。いずれにしても反日ではなく日本に対し好意を持ってくれている国を旅行することは気持ちがいい。

・バルト諸国は街が美しいと感じる。建物の色や高さが統一されているのは当然だが、看板やどぎついネオンなどを見かけない。また、電線は地中化されているのでうっとうしくない。日本も模範にしたいものだ。

・最後にあまり関係はないが、ヘルシンキの市庁舎で、今まで経験したことのない面白いトイレを発見した。手洗い設備があたかも調理台の様な感じがした。

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17.09.19-28 バルト諸国旅日記・その3

【7日目】
 リガから80km先のビルスルンダーレに向かう。ここには「バルトのベルサイユ」と呼ばれるバロック様式の華麗な宮殿がある。

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ルンダーレ宮殿は、ロシアの女帝アンナ(1693~1740)に愛され、貧しい貴族からクールランド大公にまで昇格したビロン公の夏の宮殿として建てられたもの。ただし、アンナ女帝が死亡した後、ビロン公はシベリアに流刑されたという。逆玉の輿の末路、

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ヨーロッパや地中海沿岸国でよく見るが、このルンダーレ宮殿の煙突にもコウノトリの巣があった。

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バルトのベルサイユと呼ばれるルンダーレ宮殿も本物のベルサイユと比べるとかなり貧弱な感じがする。やはりフランス国王と田舎貴族の格の差かと思った。

黄金の広間

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磁器の間

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バラの間

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王子の勉強部屋

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公の謁見の間

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公の寝室

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トイレ

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食堂

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建物の中から庭園を眺める。

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庭園も本家ベルサイユ宮殿をまねているようだ。

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午後からエストニアのタリンに向かう。310kmの旅だが、ラトビアからエストニアの国境を越えたところで抜き打ちのパスポートチェックが行われた。とは言え、随分いい加減なチェックだった。国境はどの国も写真はNG、見つかるとデジカメのデータを削除させられる。しかし、これもチェックが甘くセーフだった。

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一般的に国境を越えるトラックはチェックを受けるようだ。

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【8日目】
 エストニアのタリンは旅行最初の日にヘルシンキから着いたけれど、夜だったので、あまり記憶がなかった。夕方のヘルシンキ行きのフェリーの時間まで精力的に観光する。

早朝、ホテルから散歩に出かける。そして城壁からタリンの街を望む。

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さらに鉄道のタリン駅に出向く。

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タリン市内は2.5kmの城壁に囲まれた小さい街なので歩けば十分観光できる。城壁とトームペア城の「のっぽのヘルマン塔」

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ラエコヤ広場

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国会議事堂の前に1901年に帝政ロシアによってアレキサンドル・ネフスキー聖堂が建てられた。議会の前に立ちはだかる、この教会はロシア嫌いのエストニア人の神経を逆なでするものだ。何度も立て替えを考えたが実現できなかったそうだ。

エストニアの国会議事堂

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アレキサンダー・ネフスキー聖堂

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このアレキサンダー・ネフスキー聖堂に入ってすぐ右には、日露戦争の日本海海戦で沈没したロシアのバルチック艦隊で亡くなった将兵を弔うプレートがかけられていた。

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1529年建築の砲塔で「ふとっちょマルガリータ」と呼ばれている。

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聖霊協会に掲げられていた大時計は1684年製。

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旧市街にある共同井戸。

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タリンの港に行く前に、5年に1度、「歌と踊りの祭典」が行われる会場に立ち寄る。この歌と踊りの祭典は世界文化遺産でもある。10万人が集まるそうで、下の写真はポスターを撮ったもの。

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タリンから、夕方16時30分発のフィンランドのヘルシンキ行きのフェリーに乗船、2時間のクルーズだ。

 タリン港の風景

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ヘルシンキに到着後、地下鉄のチケットをキオスクで買う。代金は24時間券が€9でタクシーを除いた各交通機関が利用できるそうだ。これで、明日のフライトまでのヘルシンキ観光で無駄なく使えそうだ。

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地下鉄車内はは自転車、車いす、ベビーカーを載せる十分なスペースがある。

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「カモメ食堂」に出かけた。映画では小林聡美、片桐はいり、もたいまさこが演じていたが、店を差配しているのは意外とフィンランド人夫婦であった。シナモンロールは映画の通り絶品。生まれて初めてトナカイのそぼろ煮を食べる。

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欧米人には少し量が少ないのではと感じる、おにぎりでもつけてやればと思うが、大きなお世話か。

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ウスペンスキー寺院はライトアップされいた。

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市庁舎前もライトアップされていた。

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【9日目】
17時20分発東京行きのフライトまでヘルシンキを観光。とりあえず港まで出かける。昨夜購入の24時間券があるので活用する。

地下鉄の駅は防空シェルターを兼ねているので非常に深い。丁度、東京駅の横須賀線のようだ。

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ヘルシンキの中央駅は天井が高く重厚な感じ、モスクワ行きの国際列車が1日4本出ている。これに乗れば1万km以上先の極東のウラジオストックまで陸路で行くことができる。チョット不思議な感じだ。日本からヨーロッパに行くには昔は船に乗るかシベリア鉄道を利用するかのどちらかだった。

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市庁舎前はイタリアから要人が来ていたため、警備が厳重であった。

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港から水上バスで海上要塞の「スオメンリンナ」に向かう。この要塞は1748年スエ―デン統治下のフィンランドで建設された。

水上バスからヘルシンキの屋内市場が見える 

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市庁舎前ではパレードが

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1991年、スオメンリンナは次世代に残すべき当時のヨーロッパの軍事建造物の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録されている。港から30分程度、フェリーに乗る。北国の海は寒い。

要塞内の兵舎と事務所棟

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要塞内部

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ドライドックは今も現役で使用されている

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19世紀ロシア統治時代の大砲

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1930年代にフィンランドで建造された潜水艦「ヴェシッコ」

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潜水艦の内部は非常に狭い空間

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要塞から戻り港の周りを見物     

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屋内市場は暖かく快適

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ヘルシンキ空港に到着。いよいよ帰国だ。

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【10日目】
 乗っていた飛行機がロシアの上空で大きく揺れた。機内食を食べていたので大勢の乗客は悲鳴を上げるとともに食べ物を床に落としたり、こぼしたり大変な目に遭う。成田で車いすや担架が準備されていたので被害者がいたのかもしれない。

 今回旅行したバルト諸国のうち、特にバルト3国は日本ではあまり知られていない(元関取の把瑠都はエストニア出身)。エストニアの面積は九州よりやや大きい45,200平方km、ラトビアは65,000平方km、リトアニアは65,200平方kmでドイツやポーランド、ロシアの狭間にあって小国のイメージを持つが、エストニアでさえオランダやベルギーよりも国土は広い。しかし、それぞれ小国として国境を接する大国に翻弄され統治されたた歴史を持つ、つくづく日本は島国でよかったと思った。





17.09.19-28 バルト諸国旅日記・その2

【4日目】
 昨日、夕刻にリガから南へ約270kmのリトアニア共和国のカウナスに移動。カウナスは15世紀にハンザ同盟の代表部が設けられた都市でもある。両大戦間の22年間、ヴリニュスに代わり首都となった都市だ。

街のシンボルの旧市庁舎はバロック様式の建物で1542年に最初の礎石が置かれたとされている。その後は何度か立て直されたようだ。今は歴史博物館になっている。

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また、15世紀に建てられたバロック建築として「ベルクナースの家」がある。キリスト教以前には、この場所には雷神ペルクス―ナを祀る祭壇があったと伝えられている。

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17~18世紀にかけて建造された、イタリアバロック建築の傑作と称される、ベネディクト会の修道士によって築かれた「パジャイスリス修道院」は絶品。毎年夏に開催される国際音楽祭の会場の一つでもある。

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15世紀に建築された「聖ペテロ&パウロ大聖堂」もカウナスの人々の誇りでもある。

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旧市庁舎とパジャイスリス修道院

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聖ペテロ&パウロ大聖堂内の様子

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第二次大戦初期、ナチスの迫害を逃れ日本通過に活路を求めて来たユダヤ人に、本国の指示に背いてまでビザを発給し、多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝氏の功績を顕彰している。先ず、旧日本領事館兼自宅が「杉原記念館」、領事館を閉鎖してからも7日間滞在しビザを発給し続けた「メトロ-ポリスホテル」、そして、リトアニアを去る列車の中で最後のビザを発給したそうだ。その間の約半月は昼夜を分かたず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでビザの発給を続けたそうだ。本当に頭が下がる外交官だ。然し本国での評価は低かった。

記念館を表す道路標識

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杉原記念館

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領事館内の執務室

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 領事館を閉鎖した後、7日間滞在し、ビザを発給したメトロポリスホテルと顕彰碑

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リトアニアを去りベルリンに向かう列車で最後のビザを発給した駅舎と顕彰碑。

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午後からリトアニアかの首都ヴリニュスに向かう。約100kmの行程だが、車窓は、バルト3国はほとんど同じような景色で代わり映えしないが、林の中を走っているようで非常に気持ちが良い。高速道路なのか一般道なのかわからないが、速度は時速120kmだ。

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【5日目】
 ヴェリニウスの旧市街は世界遺産である。タリンの城壁やリガの運河の様なはっきりと境界となるものはない。そして天を突くようなゴシック教会の塔は見当たらない。通りを曲がるごとに柔らかな線のカトリック教会が姿を現す。

ヴェリニウスの中心、大聖堂と鐘楼。鐘楼は珍しく別の建物となっている。

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聖堂の中はシンプルだが、よく見ると十字架の下に三角形の像がある。これは三位一体の象徴でもある。また友愛結社「フリーメイソン」の象徴として用いられ、1$札の裏面のデザインにも使われている。

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 17世紀初頭の聖ペテロ&パウロ教会、内部の装飾は豪華絢爛。

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ドームの内側の様子。聖ペテロが漁師だったため天井から船の形をしたオブジェがつるされている。

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聖カジミエル教会はリトアニア人の守護聖人を祀っている。帝政ロシア時代は建物の王冠が”タマネギ”に付け替えられロシア正教の教会に、第一次大戦後はドイツ占領下ではプロテスタントの教会に、ソ連時代は「無神論博物館」になり目まぐるしく変わった。

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三位一体協会はウクライナ・カトリック教会という珍しい宗派だそうだ。東方正教の儀礼を残し、ローマ法王に仕えるというもので、一種の宗教的妥協の産物。たまたま中に入ると幼児洗礼の儀式が行われていた。やはり宗教が人々に根差したものと感じた。

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三位一体教会の内部は豪華だ

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幼児洗礼の儀式

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ヴェリニウスには元来9つの城門があったそうだが、現在はただ一つ「夜明けの門」だけが残っている。そこは小さな礼拝所が残っており、聖母のイコンは奇跡を起こす力があると今も信じられているそうだ。

正面の夜明けの門の上が礼拝所

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夜明けの門の上から市街を望む 

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礼拝所にある奇跡を起こすイコン

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イコンに祈りを捧げる人々

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午後から30kmほど離れたトゥラカイに向かう。ここは以前リトアニアの首都がおかれていたそうだ。トゥラカイは赤レンガの古城が水面に映え、おとぎの国のような風景だ。

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 城の中の広場 

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城の内部

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城門にかかる橋

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城門の外で白鳥?に餌を与える少女
   
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【6日目】
 ヴィリニュスを出発し、約220km先のラトビア国境近くのシャウレイに向かう。ここは有名な「十字架の丘」がある。大小無数の十字架が立ち並ぶさまは壮絶という言葉に尽きる。ただ、ここは墓地ではないので、死体は埋められていない。最初の十字架は1831年のロシア蜂起の後、処刑や流刑にされた人々の鎮魂のために建てられたという。その後は抑圧された民族、宗教の象徴として扱われてきた。ソ連時代はこの丘は禁域とされ、KGBと軍によりブルドーザを使い何度もなぎ倒され焼き払われたが、その都度、人々は夜陰に紛れて、新たな十字架を立てたそうだ。現在十字架の数は5万とも6万ともいわれている。しかし、毎日観光客が十字架を何百も建てたり吊り下げたりしているのでもっと多いかもしれない。

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ユダヤ人のものと思われるダビデの星

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丘のふもとの土産物店には様々な十字架を売っている。

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午後、シャウレイの丘から国境を越えて130km先のラトビアのリガを目指す。夕刻、リガに到着。リガは旅行の3日目に来たところだ。効率の悪い行程だが仕方がない。前回見逃したところを見学する。

リガの旧市街は世界遺産だ 

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聖ヤコブ教会

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「三人兄弟」と呼ばれている建物は3棟が肩を寄せ合って立っている中世の建物だ。外観は建てられた当時の姿をほぼ保っている。3棟それぞれ、その時代を反映した特徴を備えている。一番右は長男で15世紀の建物であるが、年を経るごとにだんだん小さくなっている。

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三人兄弟の建物の近くにはラトビアの大統領官邸や一院制の国会議事堂がある

ラトビアの大統領官邸 警備員は1人だけでただの低層マンションのようだ。

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国会議事堂も小国らしく、いかめしい警備もなく好ましく感じた。

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17.09.19-28バルト諸国旅日記・その1

【1日目】
成田に向かうため、早朝6時過ぎに横浜シティーターミナルに到着。然し、関東自動車道で死亡事故があり通行止め。仕方なくJRの成田エクスプレスに乗り換えやっとのことで出発時間に間に合った。

最初の目的地ヘルシンキまでは10時間20分のフライト。日本とは時差が6時間あり現地へは14時50分に無事到着。ヘルシンキは北緯60度に位置するため、気温は9℃であった。

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機内食が2度出たが、2度目の機内食は吉野屋の牛丼が出た。紙箱に入ったもので、並盛の2/3程度の量。下真はランチョンボックスの開き方が書いてあった。チョット手ぬきの感じがした。下のチケットはヘルシンキからタリンの国際フェレリーの乗船券。

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初日の予定は、ヘルシンキからエストニアの首都タリンに向かう予定だが、フェリーの出向が19時30分なので暫しヘルシンキを観光する。フィンランドの首都ヘルシンキは港町だ。鉄道の駅も港近くにあり地下鉄や路面電車等インフラは整備されている。フィンランドの人口は530万人程度でアジア諸国と比較すると非常に少なく感じる。国連で発表される、教育レベルの順位では、いつも世界トップである。やはり、暗記や詰め込み教育ではなく”考える”ことに重点を置いた教育の成果だろう。

港近くの『ヘルシンキ大聖堂』は街のシンボル的教会だろう。1852年に完成したドームを中心とした左右対称のデザイン。大聖堂の前は『元老院広場』でアレクサンダー2世の銅像があり、市民の憩いの場だ。この近くにはロシア正教の『ウスペンスキー寺院』があり、中に入ってみると豪華絢爛。北欧最大のロシア正教会だと納得。

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フェリー乗り場の近くは路面電車が走っており交通の便が良い。フェリーの波止場近くではテントが並び、土産物屋、食品、ファーストフードを扱う露店があった。然し、人口が少ないためか、少々寂しい感じがする。

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露店ではキノコやベリー系の果物が
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いよいよエストニアのタリンに向け出発。緑色の船がタリン行きのフェリー。港にはたくさんのクルーズ船が停泊していた。

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【2日目】
 昨夜遅くラトビアの首都タリンのホテルに到着したが、時差の関係か体のスイッチが入らない感じだ。タリンの観光は後回しにし、約200km離れたロシアの国境近くのタルトゥに向かう。ここは11世紀からハンザ同盟で栄えた街だ。1632年にスエーデン王がグスタフィアナ学院(後のタルトゥ大学)を創設した地でもある。人口は14万人だが、エストニア第2の都市である。学園都市だからか、落ち着いた少々アカデミックな感じがする。

 タルトゥ大学の校舎はギリシャ建築の様な重厚な感じの建物だが、建物の外壁や窓のイラストは堅苦しくなく自由な感じがする。そしてキャンパス内の歩道の周りにも十分な緑地があり、散策しても気持ちがいい。少し小高い場所からは聖ヨハネ教会が望める。

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歴史がある街なので、市庁舎前のラエコヤ広場はカフェが立ち並びヨーロッパらしさを感じる。タルトゥ美術館は地盤の弱いところに建っているためか、肉眼でも傾いているのがよくわかる。

ラエコヤ広場  
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タルトゥ美術館
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歴史がある街なのでマンホールの蓋もそれなり
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タルトゥの街から南下しラトビア共和国に入る。国境を越えるという実感がない。注意していると道路表示板で国境であることがわかる。ちょうど日本の県境を越える感じだ。タルトゥから約250kmでラトビアの首都リガに至る。やはり到着は夜となった。


【3日目】
 ラトビアのリガはバルト3国の中でも抜きん出た大都市だ。タリンの様な古風さはない。より開放的な都会の空気を感じる。そして13世紀にはハンザ同盟に加盟していた街でもある。教会や商家はこの当時のものが多い。16世紀から19世紀にかけてポーランド・リトアニア連合国、スエ―デン、帝政ロシアの支配下に入り、特にロシア時代は「ヨーロッパの窓」としてロシア第3の大都市に成長。そして新市街には『ユーゲントシュテール(アールヌーボウ)』様式の建物群がある。

 リガの第一日目は朝から中央市場に出かける。この市場は東ヨーロッパ最大の市場といわれる。建物は1998年に世界遺産となったもので、元は1930年にツェッペリンの飛行船の格納庫4棟を移築したものだ。

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市場には季節のためか、ブルーベリー、キノコやハロウィン用のかぼちゃが目についた。

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市場から少し行けば世界遺産のユーゲントシュテール建築群がある。かつては「バルトのパリ」と呼ばれた街並みもソ連時代は手荒く扱われたため、「零落した貴婦人」と皮肉を込めて呼ばれたそうだ。サンクトペテルブルクの建築家ミハエル・エイゼンシュティンの建築した建物がお多く残っている。彼の息子は映画監督のセルゲイ・エイゼンシュティンで、作品の『戦艦ポチョムキン』は完璧なモンタージュ方式を確立したとしたものとして有名だが、ラトビアではソ連のプロパガンダの手先としての評判はあまりよくない。
米国の投資家ジョージ・ソロス氏が建物2棟を買い取り、リノベーションの後、ラトビアに寄付をしたという。彼はハンガリー生まれのユダヤ人だが、何か思うところがあったのかどうかは不明。

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建物の内部の螺旋階段は非常に優雅であるが、エレベーターがないので住民は少し不便では。

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建物には建築家ミハエル・エイゼンシュティンのレリーフが飾られていた。

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旧市街は中世からの建物も多く存在している。中でもリガ大聖堂、外観は少し質素な感じだが、中は非常に豪華だ。そして大聖堂の時計の機械の一部が展示されていた。

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国立オペラ座

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自由記念塔

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リガ市は神戸市と姉妹都市らしい。神戸から送られた時計が道路わきに建てられていた。

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スーパー内には寿司が販売されている。 

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リガの街を取り囲んでいた堀の名残である運河が流れ、それに沿って緑豊かな公園が広い帯のように続いている。 

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ブラックヘッドの会館の時計の下には旧ハンザ都市リガ、ハンブルク、リューベック、ブレーメンの紋章がある。この会館前の市庁舎広場は中世には市場が開かれ、魔女の火あぶり、市の条例発布等が行われただろう。

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2011年秋に完全リタイアー。現在は毎日が日曜日の素浪人。そして地球の何処かを徘徊中。

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